6. 非情な現実
「そなたには皇后宮を出ていってもらう」
広い部屋に響くオリフィエルの言葉が、イレーネの胸に突き刺さる。
(皇后宮を出ていってもらう……? どういうこと? 私は皇后なのに? もしかして暗に離婚したいと仰っているの──?)
さまざまな疑問と、オリフィエルの言葉を受け入れたくない気持ちが絡み合って返事が出てこない。冷えた指先が震え、胃がきりきりと締めつけられるように痛む。
どうすることもできないまま、ただオリフィエルを見つめて硬直していると、彼はイレーネから視線を外し、小さく嘆息した。
「驚くのも無理はないだろうが、返事くらいしてくれないか。別に離婚しろと言っているのではない。ただ、居所を移してもらいたいだけだ」
離婚の申し出ではない。そうと分かっただけで、心がいくらか落ち着きを取り戻す。しかし、続くオリフィエルの言葉にイレーネはまたすぐ混乱してしまった。
「そなたには白麗宮に移ってもらう」
「白麗宮……? ですが、そこはコルネリア様が住まわれている場所では……」
イレーネが遠慮がちに問い返すと、コルネリアが可笑しそうにくすりと笑った。
「イレーネ様ったら、あまり察しがよろしくないのですね」
「えっ……?」
「つまりオリフィエル様は、皇后宮と白麗宮の主人を入れ替えると仰っているのですよ」
コルネリアが赤い口紅を引いた唇で美しい弧を描く。
「わたくしはすでに荷造りは終わっていますから、イレーネ様も早く荷物をまとめてくださいね。オリフィエル様をお待たせしたくありませんから」
どこか嘲りを感じるコルネリアの声とともに、何かがガラガラと崩れていくような音が頭に響く。
イレーネが皇后宮から退き、コルネリアが新しい主人になる?
(それではまるで、コルネリア様が皇后になるみたいじゃない──……)
その後、どうやってオリフィエルの部屋を出て皇后宮に戻ったのか分からない。ただ翌日、皇后宮の侍女たちがイレーネの荷物を運び出し、壁にコルネリアの肖像画が掛けられるのを目の当たりにして、昨夜の出来事は夢ではなく現実だったのだと、胸の痛みとともに理解した。
◇◇◇
「こちらがイレーネ様の寝室でございます」
幸せな幻と最悪な現実を味わった誕生日の二日後。イレーネは皇后宮を出て、白麗宮へと居所を移した。
皇后付きだった侍女や護衛騎士たちは全員コルネリアに取られてしまい、白麗宮にやって来たのはイレーネ一人きりだ。居場所だけでなく、側仕えの者たちまで奪われてしまうとは思わなかった。それに、彼らの誰一人として「皇后陛下についていきます」とは言ってくれなかったことも悲しかった。
自分はオリフィエルにとっても使用人にとっても、本当に取るに足らない存在だったのだと思い知って愕然としていると、正面から苛立ちを隠さない刺々しい声が聞こえてきた。
「イレーネ様、私の説明を聞いていらっしゃいますか?」
「あ……ごめんなさい」
慌てて顔を上げれば、白麗宮の侍女が腰に手を当ててイレーネを睨みつけていた。この眼差しも、「皇后陛下」ではなく「イレーネ様」という呼び方も、明らかにイレーネを見下している。けれど、そんなことを咎める気力も理由も、今のイレーネは持ち合わせていなかった。
「……案内してくれてありがとう。今日は疲れてしまったので、夜まで一人にしてもらえるかしら?」
「はあ……承知いたしました」
侍女はそう返事をすると、お辞儀もせずに部屋から出ていった。しんと静まり返った部屋で、イレーネがか細い溜め息をつく。
「今日からここが私の部屋……」
白麗宮の寝室は、歴史と格式のある皇后宮とは違い、どこか新しい雰囲気が感じられる。全体的に明るく華やかな内装で、貴人の寝室として申し分ない。
しかし、イレーネはこの部屋で心から寛げる気はしなかった。
(ここでコルネリア様とオリフィエル様は仲睦まじく過ごされていたのよね……)
部屋のどこを見ても二人の想い出が刻まれているようで、胸が苦しくなる。皇后宮よりも居心地の悪いこの場所で、一体どうやって過ごせばいいのだろう。
「……本でも読んで時間を潰しましょう」
◇◇◇
読書に没頭してどれくらいの時間が経っただろう。
食欲がまったくなかったため夕食を断り、おそらくあまり使われたことのなかっただろう書斎机で本を読み耽っていた。
「もうすっかり遅くなってしまったわね……」
そろそろ湯浴みをして着替えなければならないが、どうしてか身支度する気になれない。頭がぼんやりして、動くのが億劫に感じてしまう。
(変ね……。夜風に当たったら、少しはマシになるかしら)
大きな窓を開けてバルコニーに出てみれば、ひんやりとした夜風がイレーネの頬を撫で、銀雪の髪をふわりと靡かせた。
(気持ちのいい風……。ああ、今夜は満月なのね)
夜空を見上げると、綺麗な満月が浮かんでいた。
すべてが満たされ光り輝く美しい夜の女神。
まるでコルネリアのようだ。
(……今頃お二人はどうしているのかしら)
彼らもバルコニーに出て、この満月を眺めているのだろうか。肩を寄せ、綺麗な月だと語り合っているのだろうか。
それとも満月が昇っていることなど気にもせず、二人で長い夜を楽しんでいるのだろうか。イレーネがいなくなった皇后宮で。
「うっ……」
喉の奥から込み上げてくるものを、手で塞いでなんとか堪える。けれど、そんな自分が酷く哀れで虚しく思えて、イレーネの朝焼け色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
(ああ、もうだめ……耐えられない……)
皇后宮から追い出されたことも、この白麗宮で暮らさなければならないことも、皆から蔑まれていることも、オリフィエルからこれっぽっちも愛されていないことも、もう全部耐えられない。何年も我慢してきたこの苦しみをすべて投げ出してしまいたい。今すぐ楽になりたい。
(ここから飛び降りたら、楽になれるかしら……)
ここは二階だったろうか、三階だったろうか。この程度の高さでは足りないだろうか。でも、頭を打って記憶喪失にでもなれれば、何も知らなかった頃の幸せな自分に戻れるかもしれない。
「……そうなれたらいいわ」
そう考えると、あれだけ重たかった身体が羽のように軽くなった気がした。そのままバルコニーの手すりに立ち、眼下の白い鋪道を見下ろす。
「大丈夫、怖いのは一瞬だけ……」
一度だけ深呼吸して、手すりの外側に身体を傾けようとした時、「イレーネ!」と叫ぶ声とともに、後ろから強く抱き寄せられた。