5. 二人きりの寝室で
皇宮の広い廊下。深い色の絨毯が敷かれ、国宝の花瓶や絵画が飾られているその廊下に、イレーネは緊張の面持ちで佇んでいた。
──あとで私の部屋に来てくれ。
晩餐のときにオリフィエルから言われた言葉を思い出し、落ち着けたはずの頬の色が再び赤く染まる。
あのとき上の空に見えたのは、コルネリアのことを考えているのかと思ってしまったが、そうではなかったのかもしれない。イレーネが晩餐の時間が終わるのを名残り惜しんでいたのと同じく、彼ももう少し二人で過ごしたいと思ってくれたのかもしれない。そう思うだけで胸の高鳴りが抑えられなくなる。
(嬉しくてそのままお部屋に来てしまったけれど、着替えてきたほうがよかったかしら……?)
晩餐ではオリフィエルが先に食堂を出ていったので、イレーネは急いでデザートを食べ終えたあと、皇宮の化粧室で身だしなみを整えてからオリフィエルの寝室へとやって来たのだった。
ただ、いざ部屋の前に来てみると、一度皇后宮に戻ってきちんと身支度をしてから訪ねるべきだったかもしれないと気になってくる。
(か、考えすぎかもしれないけれど、このままオリフィエル様と一夜を過ごすことになるかもしれないし……)
寝室に呼び出すということは、そういう可能性も少なからずあるということだ。部屋の付近はあらかじめ人払いもされているらしく、騎士や使用人たちの姿も見えない。そのせいで、今晩が初夜になるかもしれないという予想がいっそう現実味を帯びてくる。
(もしオリフィエル様に抱きしめていただけたら、私は──)
オリフィエルの腕に抱かれ、彼に求められることをつい想像してしまう。彼と一緒に食事ができただけでも満足だったが、それ以上のことを望んでいないわけではない。
イレーネは熱くなる頬を手で冷ますと、愛する夫の寝室をノックした。
「……失礼いたします、イレーネです」
「ああ、入って構わない」
オリフィエルの返事が聞こえ、おずおずと扉を開けて中へと入る。何もなかった初夜の日ぶりに訪れた彼の寝室は、豪奢でありながらも落ち着いた雰囲気が漂っていて、まさにオリフィエルの部屋という印象だ。
「そこに掛けてくれ」
オリフィエルに言われるままソファに腰掛けると、執務机で書き物をしていた彼がペンを置いてイレーネのほうへとやって来た。
(お仕事姿をもう少し見ていたかった気もするけど……)
先ほどのように机で何かをしている姿は滅多に見られないため、なんとなく勿体ないような気分になる。けれど現金なもので、オリフィエルが正面のソファに座ってこちらを見た途端、どきどきと胸が高鳴ってしまう。
(──今日は私の誕生日。少しだけ頑張ってみよう)
イレーネは頬を染めたまま、オリフィエルの美しい瞳を見つめた。
「……あの、オリフィエル様」
「なんだ」
「私はオリフィエル様のことを心からお慕いしています。ですから、こうして誕生日の夜を共に過ごせて本当に幸せです」
「……」
いつもだったら、こんな愛の告白などしない。きっと迷惑だろうと思っていたから。でも、今夜はきっといつもとは違うと信じたい。
「──オリフィエル様、今夜はこのままずっと一緒にいてもよろしいですか……?」
精一杯の勇気を振り絞ってオリフィエルに問いかける。皇后としては相応しくないおねだりかもしれない。緊張で声もうわずってしまった。けれど、今日のオリフィエルなら、イレーネの想いを受け入れてくれる気がする。
「……皇后、今夜は──」
オリフィエルがその形の良い唇を開いたとき、唐突に部屋の扉が開いた。そして、驚いて振り向いたイレーネの瞳に映ったのは、今日は絶対に見たくなかった人物の姿だった。
「あっ……すみません。もうお話は終わったのかと思って……」
気まずそうな表情を浮かべながらこちらを見つめる可憐な女性。亜麻色の髪と新緑の瞳が印象的なその女性が、まるでか弱い子鹿のように震えながら立ちすくんでいると、オリフィエルはソファから立ち上がって彼女のそばに行き、その華奢な肩を優しく抱いた。
「これから話すところだ、コルネリア」
「オリフィエル様……」
コルネリア・レインチェス伯爵令嬢──皇帝の愛人。皇后でもないのにオリフィエルを名前で呼ぶことを許され、彼から愛おしそうに名前を呼ばれる唯一の女性。
二人が睦まじく触れ合う様子をすぐ目の前にして、イレーネは先ほどまで高鳴っていた胸がすっかり冷え切っていくのを感じた。
呆然とするイレーネに、オリフィエルが淡白な視線を向ける。
「皇后、今夜に限らず私はそなたと共に夜を過ごすつもりはない。そなたも知ってのとおり、そなたとの結婚は私の本意ではない。私が愛しているのは昔からコルネリアただ一人だ」
そう言って、オリフィエルがコルネリアの手を握りしめる。こんな言葉は聞きたくなかったし、二人が触れ合う姿だって見たくない。しかし、イレーネにはどうすることもできない。
「今日そなたを部屋に呼んだのは話をするためだった。本当は晩餐のときに話すつもりだったが、やはり人目のない場所で話したほうがいいかと思ってな」
オリフィエルの言葉を聞いて、夢のようだと思っていた晩餐の幸せなひとときは本当にただの幻想──イレーネの勘違いだったのだと思い知る。
彼が晩餐を共にしてくれたのは単に話をしようとしていただけ。しかし人前で話すのを思い直し、内密に話そうと寝室に呼んだ。本当に、ただそれだけ。そうしてイレーネとの話が終わったら、コルネリアと過ごすつもりだったのだ。
(それなのに私ったら……なんて馬鹿だったのかしら)
自分の愚かさが恥ずかしくて情けなくて、ぎゅっと拳を握りしめる。一刻も早くこの場から離れてしまいたい。そのためにはオリフィエルの話を聞かなくては。
「……お話とは何でございましょう」
かすかに震える声で尋ねると、オリフィエルは一瞬イレーネを見つめたあと、冷淡な表情で口を開いた。
「そなたには皇后宮を出ていってもらう」