42. 荒れる盤面
土砂降りの雨の中、リシャルトは苛立ちを抑えるために腕を組みながら、馬車で皇宮へと向かっていた。
皇帝に離婚を願い出てからもう二週間が経つが、承諾の返事はおろか、何の音沙汰もない。
しばらくは仕方なく待っていたが、さすがにしびれを切らし、直接承諾の返事を得るためにリシャルト自らが出向いたのだった。
(愛人が懐妊し、イレーネは先読みの力を失った。この状況では離婚に同意するしかないはずなのに、何を渋っているんだ)
離婚が成立しない限り、イレーネは皇帝とのしがらみを断つことができず、彼を忘れることができない。
リシャルトがイレーネを幸せにするためには、皇后という鎖から解き放たなくてはならないのに。
「……今日で必ず終わらせなくては」
風雨で荒れる窓の外には、忌々しい皇宮が間近に迫っていた。
◇◇◇
「──それで、今日は何の用事だろうか、アルテナ公爵」
「わざわざ言わずともご存知かと思いますが」
皇帝相手にへりくだることなく、あえて険しい態度で返事をすると、皇帝は軽く嘆息したあと「なるほど、離婚の催促に来たわけか」と言い返した。
「まるでこちらがしつこく脅しているような言い方はおやめください。今まで辛抱強く待っておりましたが、一向に返事をくださらないので改めてお願いに伺ったまでです」
「長らく待たせてしまったのは申し訳なかったが、時間が必要だったのだ」
「それは理解いたしますが、あれからもう二週間です。さすがに決断できる頃かと思いますが」
リシャルトがさらに強く睨みつけると、皇帝は「そうだな」と噛みしめるように頷いた。
「では、もうご決断なさったということですね」
「ああ、その通りだ」
「ありがとうございます。それでは書面で頂戴できますか。イレーネとの離婚に同意すると、陛下の署名入りで」
リシャルトが持参した書類を広げて差し出す。
すると皇帝はその書類を興味深げにまじまじと眺めたあと、真っ二つに破いて放り投げた。
「なっ……何をなさるのです! なぜこんなことを──!」
リシャルトが驚いた声をあげると、皇帝はフッと口もとに笑みを浮かべてリシャルトを見やった。
「見て分からないか? これが私の答えということだ」
「は……? それはどういう……」
「イレーネと離婚はしない。絶対にだ」
力強く言い切る皇帝に、リシャルトが乾いた笑いを漏らす。
「……イレーネと離婚はしない? 何を馬鹿げたことを! 陛下には子を孕ませた愛人がいるではないですか! イレーネにもっと苦しめとでも仰るのですか!? いい加減にイレーネを解放してください! イレーネのために離婚してやってください!」
今にも皇帝に掴みかかる勢いで詰め寄ると、皇帝は激昂したリシャルトに静かに問い返した。
「イレーネのため? 違うな。離婚してほしいのは、そなたのためだろう」
「は……?」
「そなたはイレーネを愛しているのだろう?」
思いがけない問いかけに、リシャルトが息を呑む。
こちらを見透かすような皇帝の眼差しから目を逸らし、拳を強く握りしめた。
「……それは当然、彼女の兄として──」
「兄として? 私が気づいていないとでも思ったか?」
「……」
言い訳を封じられてリシャルトが言葉に詰まる。
皇帝はリシャルトの返事を待つでもなく、部屋の壁に飾られた野花を見つめながら淡々と話を続けた。
「もう一度言う。離婚はしない。今までずっとコルネリアに騙されていたが、イレーネこそが初恋の人だったとやっと分かったんだ」
皇帝の言葉にリシャルトの胸がずきんと痛む。
やはり、皇帝はリシャルトよりもずっと前にイレーネと出会っていた。
(きっと初恋だったのは陛下だけではなく、イレーネも彼のことを──……)
いや、それが何だというのだ。
コルネリアに騙されたのは不運だったかもしれないが、子を成した以上は関係をなかったことにはできない。
「ですが、陛下には愛人との子がいるでしょう! イレーネはそれに耐えられないから離婚したいと言っているのです!」
「愛人との子か……」
皇帝は口の端を歪めて呟いたあと、忌々しげに目を細めた。
「そんなものは存在しなかった。それもあの女の嘘だったんだ」
「まさか……」
リシャルトが吐息混じりの声で呟く。
信じられない。
皇帝相手にそんな大それた嘘をつこうとすることも。
その嘘に自分までまんまと騙されて踊らされてしまったことも。
呆然とするリシャルトの前で、皇帝が真摯な態度で礼をとった。
「コルネリアは即刻皇后宮から追い出す。だから、再びイレーネを私の最愛の伴侶として迎えさせてほしい」
◇◇◇
「ねえ、あなたたち何なの!? 私のドレスに触らないで! ちょっと! どこに持っていくのよ!」
皇后宮にコルネリアの叫び声が響く。
部屋からは次々と荷物が運び出され、コルネリアが「やめなさい!」と命じても誰ひとり言うことを聞いてはくれなかった。
「あなたも皇宮から退去していただきます」
近衛騎士に腕を引っ張られ、コルネリアが大袈裟に悲鳴をあげる。
「きゃあっ! 何するの! 私は陛下の子を身籠もっているのよ!?」
「ハッ、まだそのようなことを」
コルネリアがお腹を庇うように腕で覆うと、オリフィエルが呆れたように眉をひそめた。
「早くこの女をつまみ出せ」
「陛下! これはどういうことなのですか!?」
「見たとおりだ。お前をここから追い出す」
「なぜですか! なぜそんな酷いことを……!」
「酷い? お前のしたことに比べれば慈悲深いほうだと思うが」
「私が何をしたというのです!」
「その腹、懐妊などしていないのだろう?」
腕に縋りつこうとするコルネリアを振り払い、その薄っぺらい腹を睨みつけると、コルネリアが新緑の瞳を一瞬大きく見開いた。
「な、何を仰るのです。まだ初期なので目立つほど膨らんではおりませんが、ここにはたしかに陛下の御子が──」
「お前に月のものがあったという証言がある。診断書についても、医師本人の署名ではないことを確認済みだ」
コルネリアの瞳が今度はわずかにすがめられた。
口の軽い侍女と医師を逆恨みでもしているのかもしれない。
しかし、脅して服従させた「味方」などそんなものだ。
見せかけの忠誠心しか持たないのだから、コルネリアよりも上位の者に弱みを握られたとなれば、いとも簡単に寝返ってしまう。
「お前は許されない罪を犯した。重い処罰が下されることを覚悟しておけ」
オリフィエルの冷酷な眼差しの前で、コルネリアががくりと膝をつく。それでも最後の足掻きか、新緑の瞳を潤ませて手を伸ばしたが、オリフィエルが汚らわしそうに背を向けると、意を汲んだ近衛兵たちに容赦なく連行されていったのだった。




