4. 夢のような晩餐
リシャルトとの会話を思い出して、あのときの嬉しい気持ちが蘇ってくる。離れていてもイレーネのことを思い遣ってくれる優しい義兄。血は繋がっていなくても、彼を兄と呼べるのはなんて誇らしくて幸せなことなのだろう。
(お兄様はどんな部屋を用意してくださったのかしら。早く見てみたいわ。今度、公爵家に出かけてもいいか陛下に聞いてみましょう)
そんなことを考えていると、侍女の「お着替えが終わりました」と言う声が聞こえてイレーネは我に返った。
「ありがとう、ご苦労様」
「失礼いたします」
いつものように侍女に微笑みかけるが、侍女もいつものように無表情で挨拶をしてすぐに部屋から出ていってしまう。
(私が生粋の貴族だったら、侍女たちも優しく接してくれてたかしら……)
イレーネの口から、つい小さな溜め息が漏れる。いつまで経っても侍女たちの態度は冷ややかで、自分はこの皇后宮の主人として認められないのだと実感するばかりだ。だからなのか、この寝室でさえも未だに慣れないような気がしてしまう。
イレーネが嫁いできたときからずっと変わらないこの部屋は、皇后の居室に相応しいよう細かな場所まで贅が尽くされている。平民の出のイレーネには勿体無いほど立派な内装だ。
(そうよ、とても素敵な部屋だわ。ただ、ここにいると無性に寂しくなってしまうだけで……)
ひとりでは持て余してしまうほど広い部屋。侍女が仕事のために入ってくる以外には誰も訪れることのない部屋。もちろん夫であるオリフィエルが来ることもない。この部屋にいると、まるで宝箱の中に紛れ込んでしまった蟻のような気分になる。ひどく場違いな異物で、自分のせいですべてを台無しにしてしまっているような──。
(……こんなことを考えてはいけないわ。私は皇后。ここは私の部屋。異物なんかじゃない)
そうだ、リシャルトがしてくれたように、この寝室も少し自分好みに変えてみたらどうだろうか。たとえば花瓶に飾る花や壁掛けの絵画を変えるだけでも、もっと居心地よく感じられるようになるかもしれない。
(さっそく明日試してみましょう)
そう考えると少し前向きな気分になってきた。どんな絵や花にしようかと思案していると、コンコンと扉をノックする音が聞こえてきた。
(あ……そういえば、今日は早めの晩餐だったわね)
生誕祭では立食形式で豪華な料理が振る舞われたが、もちろんゆっくり食事している時間などなかった。来賓の貴族たちへの対応で忙しかったからだ。イレーネだけではなくオリフィエルも同様で、そのため今日の晩餐はいつもより早い時間で予定されていた。
「皇后陛下、本日の晩餐ですが……」
「ええ、今日は時間が早いのよね。もう運んで大丈夫よ」
皇后宮に来てから、食事はいつもイレーネひとりきりだった。初めは皇宮の食堂へ通っていたが、いくら待ってもオリフィエルが来ることはなく、結局ひとりで食べることになるため、居た堪れなくなって食事は寝室でとることにしたのだった。だから今夜も当然そうだと思っていたのに──。
「いえ、皇帝陛下が食堂でお待ちです。本日はお食事をご一緒なさるとのことです。急いでお越しください」
「えっ、オリフィエル様が……?」
予想だにしなかった伝言に、イレーネはしばし絶句した。
オリフィエルが食堂でイレーネを待っている?
一緒に食事をするために?
信じられない。
(どうして急に……。まさか、私の誕生日だから……?)
奇跡ともいえる状況に胸がどきどきと早鐘を打って落ち着かない。日中に彼からプレゼントがなかったのは、このためだったのだろうか。
「──すぐに食堂に参ります」
イレーネは鏡の前で手早く身だしなみを確認すると、火照る頬をそのままに食堂へと向かったのだった。
◇◇◇
「お待たせして申し訳ございません」
「……構わない。早く座るといい」
来るのが遅れたことを謝罪すると、オリフィエルは珍しくイレーネのほうを見て返事した。苛立った様子もなく、むしろ普段より優しいような気さえする。
「こうしてオリフィエル様と一緒に食事がしたいと、ずっと思っていました。願いを叶えてくださってありがとうございます」
自然に浮かんだ笑顔とともに感謝の気持ちを伝える。オリフィエルは食前酒を飲んで「今日だけだ」と短く答えただけだったが、イレーネにとっては食卓でこうして会話ができるだけで嬉しくて堪らなかった。
やがて料理も運ばれてきて、オリフィエルと二人揃っての晩餐が始まる。彼は外見だけではなく食事のときの所作まで美しく、つい見惚れてしまいそうになる。むしろ自分の食事は放っておいて、同じ食卓に彼のいる光景をずっと目に焼きつけておきたいくらいだ。
しかし、自重していたはずがつい見入ってしまっていたらしい。オリフィエルがふいにイレーネに声をかけてきた。
「料理が気に入らないのか?」
「あ、いえ……。なんというか、胸がいっぱいになってしまって……」
食事が進んでいない言い訳をすると、オリフィエルが小さく嘆息するのが聞こえた。
「大袈裟な。食欲がないなら残せばいい」
「い、いえ。ちゃんと頂きます」
二人で同じ料理を味わってこそ、一緒に食事をしたと言える。イレーネは止まっていた手を動かして料理を食べ始めた。
(緊張して味がよく分からない……でも、今までで一番美味しいわ)
ずっとイレーネひとりきりで食べる料理は、素晴らしい出来栄えだったけれどいつも味気なく感じていた。でも、今はたとえ石みたいに硬いパンが出てきても格別に美味しいと思える気がする。
スープを飲みながら自然と頬が緩むのを感じていると、オリフィエルが何か言いたげにこちらを見ていることに気がついた。
「オリフィエル様、どうなさいましたか?」
「…………いや、何でもない」
イレーネが問いかけた途端、オリフィエルは目を逸らしてしまった。きっと何か言おうとしていたはずなのに、イレーネが先走ってしまったせいだろうか。
会話の機会を失って残念に思うものの、時間はまだある。イレーネは勇気を出して自分から話題を振ることにした。
「そういえば、兄から素敵な誕生日プレゼントを頂いたんです。公爵家の私の部屋を改装してくれたみたいで……。とても気になるので、今度お部屋を見に公爵家に行ってきてもよろしいでしょうか?」
なんと返事をされるか緊張したが、オリフィエルは特に嫌がる素振りもなく許してくれた。
「別に構わない。そなたの好きにするといい」
「ありがとうございます。では、よろしければオリフィエル様もご一緒に……」
「私が行くより、そなただけのほうが公爵も喜ぶのではないか?」
「そんなことは……。でも、そうですね……私ひとりで出かけようと思います」
できればオリフィエルとともに出かけたかったが仕方ない。それに彼の言うとおり、オリフィエルがいないほうがリシャルトにとってもよさそうだった。
リシャルトも当然「皇帝の愛人」の存在を知っており、オリフィエルに対して酷く憤っていた。生誕祭で表面的には穏やかに接していたのは、妹の晴れ舞台の空気を壊したくなかったからだろう。
イレーネは気を取り直して話題を変えたが、オリフィエルは何か別のことを考えている様子で、次第に返事も少なくなっていった。
(……もしかして、コルネリア様のことを考えていらっしゃるのかしら。今夜は仕方なく晩餐に付き合ってくださっただけで、やっぱり早く食事を終えたいのかもしれない)
今テーブルに出されているデザートが晩餐の最後のメニューだ。このシャーベットを食べてしまえば、夢のようなひと時が終わってしまう。
(これで終わりたくない。もっとオリフィエル様と一緒にいたい……)
そう思いながらオリフィエルを見つめたとき、思いがけず彼と視線が絡んだ。鋭さのある赤い瞳がイレーネに真っ直ぐに向けられている。こんな風に力強く見つめられたのは結婚して初めてかもしれない。たちまち胸の鼓動が速まっていくのを感じていると、オリフィエルが席を立ち、イレーネの横で一言告げた。
「──あとで私の部屋に来てくれ」