39. 喪失2
(イレーネに会える……やっと……)
ひとつ厄介な問題を抱えてはいるが、イレーネに会えるだけでも嬉しい。
さっきまで重かった頭と身体が少し軽くなり、止まっているように感じていた心臓がまた大きく脈を刻み始めた。
(早くイレーネの顔が見たい)
最愛の人の姿を思い浮かべながら部屋の扉を見つめていると、やがて侍従が戻ってきて、二人の来客──イレーネとリシャルトを皇帝の執務室へと通した。
「陛下、大変ご無沙汰しております」
懐かしいイレーネの声。その落ち着いた穏やかな響きに、オリフィエルは心が慰められるように感じた。
なぜ以前もっと彼女と会話を交わさなかったのかと、今さら後悔が押し寄せる。
声だけでなく、顔もよく見たい。
イレーネはなぜかヴェールのような黒い布を被って俯いており、彼女の美しい顔をまだしっかり目に映すことができていなかった。
「イレーネ、顔を上げてくれ。ヴェールを取って話してくれないか」
オリフィエルが頼むとイレーネは「分かりました」と言ってヴェールに手をかけた。
「驚かせてしまったら申し訳ございません」
そうしてイレーネがヴェールを取ると、現れたのはオリフィエルが知らないイレーネの姿だった。
銀雪の髪ではなく、亜麻色の髪。
朝焼け色の瞳ではなく、木漏れ日が差す新緑の瞳。
(この色は……やはりイレーネが……)
イレーネの新緑の瞳が、真っ直ぐにオリフィエルへと向けられる。
「これが元々の私の姿です。先読みの力を失ったことで、本来の色に戻りました」
「やはり、そなたがエレンだったのだな……」
「はい。当時、陛下のお怒りを買ったとのことで申し訳ございません。罰を受ける必要があれば謹んでお受けいたします」
「私が怒りを? まさかそのようなこと……」
何のことを言われているのか一瞬わけが分からなかったが、すぐに嫌な可能性に行き着いた。
まさか、誰かがエレンを騙して自分から引き離したのではないか。だからあれだけ探したのに見つからなかった。名前まで変えていたのならなおさらだ。
「私がそなたに……エレンに怒りを抱いたことなどない。今まで気づけず本当にすまなかった。私が愚かだったんだ。謝って許されることではないと分かっているが、それでも私は君にそばにいてほしい──」
「いえ、先読みの力を失った私が陛下の隣に立つ資格はございません」
イレーネの強い意思を持った眼差しがオリフィエルを射抜く。嫌な予感にオリフィエルの心臓がどくんと脈打つと、イレーネの美しい声が部屋の中に凛と響いた。
「陛下、どうか私と離婚してください」
離婚……?
やっとエレンがこの手に戻ってきたのに?
離婚してどうするというのか。
まさか自分と別れてアルテナ公爵と──?
また思考が乱れて、悪い考えばかりが膨らむ。
言葉に詰まって、何も言えなくなってしまう。
離婚はしないと、そう返事しなくてはならないのに。
イレーネは無言で固まるオリフィエルからわずかに視線を逸らすと、恭しく頭を下げた。
「これからは陛下の御子を身籠られたコルネリア様とどうぞお幸せに」
「……!?」
イレーネからの祝辞にオリフィエルは頭を殴られたような衝撃を感じた。
なぜイレーネがそのことを知っているのか。
(私はまだ何も伝えていないはずなのに……。まさかコルネリアがイレーネに……?)
オリフィエルが椅子から立ち上がり、ふらふらとイレーネのもとへと近づく。
「違う、イレーネ……それは違うんだ……」
オリフィエルがイレーネに手を伸ばすと、リシャルトが妹を庇うように間に入った。
「何が違うのですか。陛下は愛人であるコルネリア嬢と愛し合って子を成された。事実ではないですか」
リシャルトの言葉が鋭い刃のようにオリフィエルの胸を突き刺す。
そうだ、事実だ。
紛れもなくオリフィエル自身がしでかしたこと。
何の言い訳もできない。
リシャルトの陰に隠れたイレーネに目をやると、愛おしい新緑の瞳がうっすらと潤んでいるように見えた。
(……またイレーネを傷つけてしまった)
オリフィエルの視界がみるみる狭く暗く閉ざされていく。
何も考えられず、世界が遠くなっていくように感じられる。
「陛下!」と誰かが叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、それきりオリフィエルの意識は途切れてしまった。




