32. 暗きに落ちて
眠りについたリシャルトは夢を見た。
五年前、イレーネが熱を出して寝込んだときの夢だ。
『イレーネ、タオルを換えてあげよう。もう温くなっているだろう?』
『ありがとうございます、お兄様……』
温くなったタオルを冷水につけて絞り、またイレーネの額に載せてやる。ひんやりとしたタオルが気持ちよかったのかイレーネの表情が和らいで、リシャルトは安堵した。
イレーネが公爵家の養女になったばかりの頃は、緊張からかたびたび発熱していたものだったが、最近はそういうこともなくなり、すっかり気を抜いていた。ところが二日前の晩、急に熱を出して倒れたので心配していたのだ。
『家庭教師の先生から聞いたよ。ここのところかなり根を詰めて勉強していたようだったって』
『……すみません、少し無理をし過ぎてしまったみたいです』
『そんなに無理しなくて大丈夫だよ。イレーネはよくできている。先生だってイレーネの成長ぶりに驚いていたじゃないか』
『……でも、なんだか焦ってしまって』
イレーネが溜め息をつき、その瞳を不安げに曇らせた。
『アルテナ公爵家は王国一の貴族と言われているのに、私はその家名を名乗るのに全然相応しくないような気がして……。お兄様はその名に恥じない優秀な方なのに、私が至らないせいで足を引っ張ってしまったらと思うと……』
まだ微熱が残っている影響か、イレーネが不安を抱えた心のうちを明かす。初めて知った彼女の思いに、リシャルトはひどく胸を打たれた。
イレーネが日々懸命に努力し、次第に公爵令嬢らしい教養や振る舞いを身につけていくのを見て感心するばかりだったが、まさか心の中でそんなことを考え、ひとりで不安に悩んでいたなんて。
(僕に迷惑をかけまいとしてくれていたのか……)
なんて健気でいじらしいのだろう。
たまらずイレーネの手を取って握りしめる。
『そんなこと気にしなくていいんだよ。イレーネはどこに出しても恥ずかしくない、アルテナ公爵家の大切な令嬢だ。イレーネのせいで僕が迷惑することなんてあり得ないし、イレーネに何かあれば僕が必ず守ってあげるから』
『お兄様……』
『だからこれからは倒れるほど無理してはいけないよ。それから、悩みがあったら一人で抱え込まずに僕に言うこと。いいね?』
『はい、分かりました』
話し終えたイレーネは疲れたのか、その後すぐに眠ってしまったが、リシャルトはイレーネの手を握ったまま彼女の無垢な寝顔を見つめていた。
これからはイレーネのどんな悩みや不安も取り除き、彼女の優しく愛らしい笑顔を守ってやるのだと決意しながら。
(イレーネは僕が必ず幸せにしてあげるよ──)
◇◇◇
夢から醒めたリシャルトは、ベッドから身体を起こし、額にかいた汗を拭った。ひと眠りしたせいか、頭痛も息苦しさもすっかり消え、むしろ清々しささえ感じるほどだった。
「そうだ、どうして忘れていたんだろう」
ずっとイレーネに幸せになってほしいと思っていた。
そのためなら何だってしてみせると。
でも、今になってやっと気づいた。
自分はイレーネの幸せを誰か別の男に託したいわけじゃない。この手で彼女を幸せにしてやりたかったのだと。
イレーネと皇帝の結婚式は、彼女が皇后の地位になれたことを嬉しく思う一方で、心が引き裂かれるように痛んだのを覚えている。
あれはきっと妹が嫁ぐ寂しさではなく、愛する人を奪われた悔しさと嫉妬だったのだろう。
せっかくイレーネが公爵家に戻ってきてくれた今、もう皇帝の元へは帰したくない。
「イレーネ、ごめん。でもそのほうがきっと幸せになれるから……」
◇◇◇
その日の夕方、リシャルトはイレーネを自分の部屋に呼んだ。服装を整えて出迎えたリシャルトを見て、イレーネが心配そうに尋ねる。
「お兄様、もう起き上がって平気なのですか? あまり無理はなさらないでください」
「心配してくれてありがとう。でももう大丈夫だから」
「それならいいのですが……。ところで、私に話があると伺いましたが……」
「ああ、申し訳ないのだけど、ひとつ相談があってね」
リシャルトは気遣わしげに眉を下げると、イレーネをソファに腰掛けさせ、一通の封筒を取り出して見せた。そこには皇家からのものであることを示す封蝋が使われている。
「それは、もしかして陛下から……?」
「ああ、実はさっき急報があって、どうやらホルテン辺境伯家に謀反の疑いがあるらしいんだ」
「そんな……! ホルテン辺境伯家は忠誠心の高さで有名な家門なのに……」
「ああ、陛下も驚いていた。それで疑いは事実なのかイレーネの先読みの力で至急確かめてほしいということだ。外泊の予定も延長して構わないと」
リシャルトは手紙をしまうと、イレーネに真摯な眼差しを向けた。
「とはいえ、この間力を使ったばかりだから、できれば無理はしてほしくない。陛下には僕から断っておこうか?」
イレーネは一瞬だけ躊躇う様子を見せたが、すぐに「いえ」と返事をしてリシャルトを見つめ返した。
「大丈夫です。緊急のことですから力を使ってみます。前回より視る範囲が狭いので、それほど負担もないと思いますし……」
「分かった。ありがとう、イレーネ」
イレーネはその場ですぐに目を閉じて、先読みの能力を行使した。その神秘的な光景にリシャルトが見惚れていると、やがてイレーネの目がゆっくりと開かれた。
「ホルテン辺境伯家が謀反を起こすことはありません。今後も国のために忠誠を尽くしてくれるでしょう」
そう告げたあと、意識が朦朧としたイレーネの身体がぐらりと傾ぐ。しかし、完全に倒れる前にリシャルトがその腕で抱きとめた。
「……イレーネ、無理をさせて本当にすまない」
「いえ……あとはよろしくお願いします……」
そのまま腕の中で気を失ったイレーネを抱きしめながら、リシャルトが再び申し訳なさそうに謝る。
「謀反の疑いなんて嘘をついてごめん」
そんな話はまったく存在せず、もちろん皇帝から手紙で依頼があった事実もない。さっきイレーネに見せた封筒は、以前別件で届いた手紙だ。
つまり、今イレーネが先読みの力を使う必要など一切なかった。
リシャルトはイレーネを抱きかかると、扉で繋がった隣の部屋へと連れていった。イレーネの身体は驚くほど軽くて、やはり自分が守らなくてはならないと責任を感じる。
そっとベッドの上に寝かせると、目を閉じたままのイレーネが神聖な女神のように見えた。
やむなく一度手放してしまったが、再び自分のもとに帰ってきてくれた大切な女神。
「もう誰の手にも渡さない」
リシャルトは深く眠るイレーネの額にそっと口づけた。




