26. 先読みの力
昨日、イレーネから贈り物が届いた日、オリフィエルは執務室で倒れた。看病を申し出るコルネリアを遠ざけ、ベッドで寝込んだ。コルネリアは見舞いにも来ようとしていたが、オリフィエルはすべて拒否して皇宮への出入りを禁じた。
寝込んでいる間、オリフィエルは悪夢にばかり襲われた。
エレンの手を掴んだと思ったら、たちまち恐ろしい化け物に変わってしまう夢。
本物のエレンがぼろぼろになって自分の足下に倒れている夢。
あの日の美しい花畑の花が、すべて腐って溶けていく夢。
オリフィエルを取り囲むすべてのものが色も温度も失い、オリフィエルの心も凍りついて動かなくなってしまう夢。
いくつもの悪夢にうなされたまま、オリフィエルは丸一日寝込んだ。そしてようやく目覚めたとき、悪夢より恐ろしい場所に戻ってきてしまったことに絶望した。
これが夢ならどんなによかったことか。
いっそのこと、永遠に目覚めなければよかった。
オリフィエルが未だ痛む頭を押さえて苦しげに息を吐く。
「何ということだ……」
イレーネこそがエレンだったのか?
自分は今までずっと彼女に気づかないまま、見当外れの憎しみをぶつけていたのか?
奇跡のように訪れてくれた幸せを自ら踏みにじり、捨て去ろうとしていたのか?
何よりも大切なエレンをこの手で傷つけていたというのか?
そして、イレーネがエレンだというなら、コルネリアは──エレンの見た目をしたあの女は一体何なんだ──?
「陛下! お目覚めになられたのですね!」
部屋に入ってきた侍従が、皇帝の目覚めに安堵したように声をあげた。
「ご気分はいかがですか? 丸一日、寝込んでいらっしゃったのですよ」
「そうか……。頭痛があるが問題ない。迷惑をかけたな」
「とんでもないことでございます。何か召しあがりますか?」
「とりあえず水を持ってきてくれ。それから政務についての報告も頼む。何か問題があれば……」
そこでオリフィエルは侍従の表情がわずかに曇ったことに気がついた。
「何かあったのか?」
「ですが、今はお目覚めになったばかりですし……」
「構わない。今聞かせてくれ」
「……ではご報告いたします。実は、レダニス街道で地鳴りが続いているとの報せが入っております」
「何……?」
レダニス街道は首都と各要所を結ぶ大きな街道だ。
そこで地鳴りが続いているというのは大きな懸念と言える。
「もし何らかの災害の前触れだとしたらまずいな」
「はい、皆それを心配しております。それで実は昨日、陛下のご不在中に緊急会議が行われ、事前対策案が話し合われたのですが……」
「そうか。それで結果は?」
侍従は少し言いづらそうに一瞬口ごもったあと、おずおずと報告を続けた。
「──今後の地鳴りの結果について、イレーネ様の先読みの力で見通していただければと」
◇◇◇
白麗宮に到着したオリフィエルは、馬車から降りて目の前の壮麗な建物を見上げた。
ここを訪れたのは、地鳴りの件でイレーネに先読みの力を使ってもらうためだ。侍従にはイレーネを皇宮に呼び出せばよいと言われたが、そうではなく自分から会いに行くべきだと思った。
この建物に入ればイレーネと対面することになる。
政務上の理由、そして個人的な理由でやって来たものの、なかなか面会を求める踏ん切りがつかない。
彼女に会うのが恐ろしい。
彼女がエレンなのだろうと、限りなく確信に近い気持ちはあるが、まだ確定したわけではない。
エレンとイレーネでは髪も瞳の色も違う。
彼女がエレンであるなら、今まで名乗り出なかったのはなぜなのか。
だからイレーネはエレンではないかもしれない。
頼むからそうであってほしい。
そうでないなら、これまでの日々をどうしたらいい?
エレンにしてきた残酷な仕打ちを。
エレンではない女と交わした悍ましい行為を。
取り返しのつかない自分の行いをどうしたらいいというのか。
そのことを考えるだけで、胃の中のものをすべて吐きそうになる。
(……しかし、今は彼女に会うしかないか)
地鳴りの件を後回しにするわけにはいかない。
オリフィエルは消えない吐き気から意識を逸らし、白麗宮の中へと入っていった。
◇◇◇
「──かしこまりました。たしかに先読みの力が必要そうですね」
夜会の夜ぶりに会ったイレーネは、オリフィエルが戸惑うほどに落ち着いた様子だった。
彼女は昨日、オリフィエルが倒れたことを知らないようだったが、それを差し引いてもあまりに穏やかだった。
まるで、オリフィエルに野花の花束を贈った事実などすっかり忘れてしまったかのように。
まるで、オリフィエルがどのような反応をするかなんて、一切の興味も持ち合わせていないかのように。
イレーネはただオリフィエルから地鳴りの件について話を聞くと、現地の人々の安否を心配し、すぐに先読みの力で視てみると言ってくれた。
「しばらくお待ちください」
そう一言告げたあと、イレーネはソファに腰掛けたまま祈りを捧げるように両手を組み、静かに目を閉じた。
(先読みの力……。この力を使う様子を見るのは初めてだな)
彼女は前皇帝の前ですでに何度か能力を使って見せたらしいが、オリフィエルは見たことがなかった。
イレーネはどんな風にこの力を使うのだろうか。
どこか厳かで静謐な空気が漂う中、固唾を呑んで見守っていると、やがて風も吹いていないのにイレーネの銀雪の髪がふわりと靡いて広がった。御伽話に聞く妖精の鱗粉のような粒子が舞い、その神秘的な美しさにオリフィエルは鳥肌が立つのを感じた。
そうしてどれくらいの時間が経っただろう。
夢の中のような光景に見入っていたオリフィエルは、イレーネの朝焼けの瞳がゆっくりと開くのを目にして我に返った。
「視えました。地鳴りは地割れの前兆──レダニス街道は二日後に崩落します」
「……!」
驚愕するオリフィエルに、イレーネは今視てきた出来事を流れるように報告し、その対策を提案した。
「街道の出入り口を封じてください。崩落は一週間続き、範囲はラックルの町からノーラントの町。迂回路の一部が現在塞がっていますので、至急対処してください。コルトスの町では井戸水が枯れてしまいます。こちらも対応をお願いします」
そのほかにもさまざまなことをオリフィエルに伝えると、イレーネは深い溜め息をついて、ぐらりと身体を傾かせた。
「イレーネ……!」
オリフィエルが近づいて支えようとしたが、イレーネはそれを手で制し、気怠げな眼差しをオリフィエルに向けた。
「いつものことですから、お気になさらないでください。それより地割れの対策をお願いいたします。それと、公爵家の侍女を呼んでいただけると助かります……」
そう言い終わるや否や、イレーネはソファの上で倒れてしまった。
「イレーネ! おい、公爵家の侍女はいるか……!?」
オリフィエルが呼ぶと、外に待機していたアンナたち公爵家の侍女が部屋に入ってきた。主人の意識不明に動じることなく、すみやかにベッドに運んで休ませている。
「──イレーネは大丈夫なのか……?」
「いつも力を使われたあとは、このようになられます。数日後にはお目覚めになるでしょう。あとは私どもがお世話いたしますので、陛下はどうぞお戻りください」
淡々と述べる公爵家の侍女に以前なら不快感を覚えたかもしれないが、今は何とも思わない。
イレーネを冷遇していたオリフィエルをよく思えないのは当然であるし、そんなことよりもイレーネの容態が気がかりでならなかった。
しかし、イレーネの言うとおり一刻も早く天災への対策を進めなければならない。
「……イレーネを頼む」
オリフィエルは後ろ髪を引かれる思いで白麗宮を後にした。




