24. 夜会の片隅で
それから数日後。皇家主催の夜会の日がやって来た。
「イレーネ、今日のドレスよく似合ってるよ」
皇宮のホールの扉の前で、リシャルトがイレーネの装いを褒める。彼はイレーネからのエスコートのお願いを快く引き受けてくれ、今日のドレスから宝石、靴まですべて手配してくれた。
「本当に綺麗だ」
「お兄様ったら……。もう何度も褒めていただいたので大丈夫です」
「何度褒めても褒め足りないよ。きっとみんな目を奪われるはずだ。月の光の精霊だって」
「それはさすがに言い過ぎかと……」
リシャルトがこうして褒めちぎるのは、きっとイレーネの緊張を少しでも和らげようとしてくれているのだろう。
イレーネが皇后宮を追い出されたという噂が流れてから初めての公の場。しかも皇帝と皇后がそれぞれ別のパートナーを伴って入場したとなれば、ホール中がざわめくに違いない。離婚の噂もさらに尾ひれがついて広まっていくはず。
好奇と蔑みの目に晒されて辛い思いをするのは分かっている。義兄であるリシャルトに迷惑をかけてしまうことも。
けれど、こうして自分を傷つけて追い込まないと、オリフィエルへの気持ちを消すことなんてできない気がした。
「イレーネ・アルテナ・ルディス皇后陛下とリシャルト・アルテナ公爵のご入場です」
名前を呼ばれてリシャルトとホールに入ると、思ったとおり一斉に驚きと好奇の目がイレーネに寄せられた。
「やっぱり、あの新聞記事は本当のようですわね」
「イレーネ様は近く離婚されるでしょうね」
「では次の皇后はやはりコルネリア様?」
「きっと皇帝陛下と入場されるはずよ。そうしたらもう確実でしょうからご挨拶に行かないと」
参加者たちの予想どおり、続いてオリフィエルとコルネリアの名が呼ばれ、扉の向こうから二人が姿を現した。まるで、それが当然のことのように。
オリフィエルとコルネリアの入場と挨拶によって夜会が始まると、参加者たちはコルネリアの覚えをめでたくしようと挨拶に向かっていった。
イレーネの元へやって来る人は誰もおらず、ただ嘲るような視線がちらちらと向けられるばかりだ。
「……お兄様、嫌な思いをさせてごめんなさい」
「そんなことないよ。僕はあまり人と話すのは好きじゃないし、こうしてイレーネと二人で過ごせるだけで幸せだよ」
どんなときでもイレーネを一番に思いやってくれるリシャルトには感謝してもしきれないし、いつも苦労をかけてばかりなのが本当に申し訳ない。
「……お兄様、あちらでフリッツ卿が何か話をしたそうにされてますよ。行ってきてはいかがですか?」
「でもイレーネのそばを離れるのは……」
「大丈夫です。まだ一応皇后ですし、直接何かされることはないと思いますよ。私はバルコニーで風に当たっていますので、お話なさってきてください」
「……分かった。なるべくすぐ戻ってくるよ」
リシャルトをフリッツ卿のもとへと送り出すと、イレーネは静かに窓辺に移動してバルコニーへと出た。
エスコートの問題は解決したから、あとはリシャルトとは別々に過ごしたほうがいいだろう。
(お兄様まで嫌な噂や視線の的にしたくないもの)
ホールの中ではオリフィエルとコルネリアをお似合いだと褒めたたえる声が響いている。今夜の夜会の主役はあの二人だ。場違いな自分はなるべく目立たない場所でやり過ごそう。
(大丈夫、数時間我慢すれば夜会は終わるわ)
イレーネがどこかベンチのある場所に移動しようとしたとき、ふいに背後から「恐れ入ります、陛下」と呼び止める声がした。
振り返ると、そこには今最も話したくない人物の一人、マルセル・レインチェス伯爵令息が立っていた。妹と同じ鮮やかな緑色の瞳を、不遜とも言えるほど真っ直ぐにイレーネに向けている。
「せっかくの夜会なのに、ずっとこんな場所に隠れていらっしゃるおつもりですか?」
「そんな、隠れるだなんて……」
図星を指されてつい狼狽えてしまうと、マルセルは堂々とした足取りで近づいてきて、イレーネの顔を見下ろした。
「勿体ないですね」
「勿体ない……?」
「これほど美しいのに、陛下には見向きもされないなんて。我が妹がいなければ寵愛を受けられたかもしれないのに」
「……無礼ですよ」
震える声で咎めると、マルセルは愉しそうに口の端を上げた。
「それは失礼いたしました、皇后陛下。お許しいただくにはどうすればいいですか? 私がお慰めして差し上げればよろしいでしょうか」
「っ……!」
マルセルがイレーネの顎に触れて強引に上向かせる。
口では「皇后陛下」と呼びながら完全に見下した態度と、品定めするように動く視線の不快さに、イレーネの目に涙が滲む。
「ああ、いいですね。もしかすると陛下はあなたの泣き顔が気に入っているのかもしれません。それにしても、こうしてあなたを見ていると妙な気分になりますね。どうしてなのか──うっ……」
突然、マルセルがうめき声をあげてイレーネから離れた。
……いや、無理やり引き剥がされたのだった。急いで駆けつけたイレーネの身内の手によって。
「レインチェス卿、今イレーネに何をしていた?」
「……アルテナ公爵」
「イレーネに何をしていたかと聞いているんだ!」
リシャルトが激昂してマルセルに詰め寄る。
普段穏やかなリシャルトがこれほど感情を露わにして怒鳴るのは珍しい。イレーネもわずかに背筋が凍る思いをしていると、マルセルが肩をすくめて口を開いた。
「何を誤解されたのか分かりませんが、私は何もしておりませんよ。陛下が目に何か入ったと仰るので、見て差し上げていたのです」
「嘘をつくな。イレーネが泣いているじゃないか」
「ですから、何かゴミでも入っていたのでしょう。陛下、私は何もしていませんよね?」
まったくの嘘に同意を求めてくる太々しさが信じられないが、騒いで注目を浴びたくない。それに、たとえイレーネがマルセルの無礼を明かしたところで、この男はまた臆面もなく嘘をついて責任を逃れようとするだろう。
もし「皇后陛下に誘われたので断りきれず仕方なく」などと言われてしまったら?
イレーネは皇帝に見捨てられた名ばかりの皇后。
マルセルは皇后の寵愛を受けるコルネリアの兄。
人々がどちらの言い分を信じて味方するかなんて、火を見るより明らかだ。
「……お兄様、マルセル卿の言うとおりです。何もありませんでしたので心配なさらないでください」
「イレーネ……!」
何もなかったなんて言葉をまるで信じていないリシャルトの手を取り、懇願するように微笑む。
「お兄様が来てくださったから、もう大丈夫です」
「……分かった」
リシャルトは納得がいっていないようだったが、イレーネの希望を汲んでマルセルから遠ざかった。
「二度とイレーネに近づくな。もう行け」
「はい、失礼いたします」
まるで普段どおりの足取りで立ち去るマルセルの背中を睨みつけたあと、リシャルトがイレーネを抱きしめた。
「すまない、イレーネ。やっぱり君を一人にするんじゃなかった」
「いえ、私がお兄様を送り出したんですから、気にしないでください」
「いやそれでも……」
「では、今夜はこれから最後まで一緒にいてください」
「もちろんだよ。もうそばを離れない」
リシャルトはイレーネの涙の跡を拭くと、「そういえば」と声をひそめた。
「イレーネの先読みの力をなくす方法……もしかすると可能かもしれない」
「えっ」
◇◇◇
「陛下、どうなさったのですか? もしかして具合がよろしくありませんか?」
夜会のホールで参加者たちに挨拶をしていたとき、オリフィエルがふいにその場を離れてどこかへ行こうとした。しかし結局行くのをやめたかと思えば、苛立たしげに舌打ちをするので、コルネリアはどうしたのかと首を傾げた。
「……何でもない」
「でも険しい顔をしていらっしゃいましたわ」
「少し気分が悪くなっただけだ」
「やっぱり具合が悪いのではありませんか」
「身体は問題ない」
オリフィエルが即座に否定する。
そうだ、身体にはなんら問題はない。
ただ、先ほど目にした光景によって湧き上がった言い知れぬ不快感を持て余しているだけで。
コルネリアの兄マルセルは何を勘違いしているのだろう。
名ばかりとはいえイレーネは皇后。気軽に触れていい存在ではない。
そしてイレーネの義兄リシャルト。彼が義妹に過保護であるのは有名だ。しかし、それはイレーネが公爵家に利益をもたらす存在だからだと思っていた。
(だが、本当にそうなのだろうか)
あのように愛おしげに抱きしめ、顔に触れるのは普通の兄妹愛なのだろうか。オリフィエルには姉も妹もいないため判断し難いが、どうしてかマルセルよりもリシャルトによほど強い嫌悪を覚えた。まるで彼がオリフィエルのすべてを奪う敵であるかのように。




