23. 何よりも特別な
エレンはいつも花を摘んでいる野原にオーウェンを連れてきた。まだ雨粒のついた花々が風に揺れてきらきらと輝いて見え、とても綺麗だ。
「花がたくさん咲いているな」
「はい、お気に入りの場所です。……でもご覧のとおり、オーウェン様に買っていただいた花は全然珍しくなんてないんです。とてもありふれた花で……すみません」
なんとなく彼を騙してお金をもらったような気分になり、申し訳なく思ってしまう。しかしオーウェンは、むしろどこか晴れやかな表情を浮かべていた。
「たしかにここにはあの花がたくさん咲いているな。でも私には、君から買ったあの花は、ここに咲いている花とはまったく違うものに思える。きっとそれが特別というものなのだろう。……そうだ、少し待っていてくれ」
オーウェンはそう言うと、野原を歩き回ってしゃがみ込み、しばらくしてからまた立ち上がった。そうして振り返った彼の手には、黄色い可憐な野花の花束が握られていた。
「私も君に花束をあげたくなった」
「わ、私に花束ですか……?」
「ああ。何の花かは知らないのだが、明るい日の光のようで君に似合うと思った。受け取ってくれるか?」
そんなものを差し出されたのは、生まれて初めてだ。
緊張で震える手を伸ばして花束を受け取ると、小さな野花たちがひときわ美しく、愛らしく見えた。
(本当だ。この花はどれよりも特別に思える……)
「ありがとうございます。こんな風に花束をもらったのは初めてで、すごく嬉しいです。とても綺麗ですね」
「……ああ。ここにあるものすべてが、とても美しく見える」
そうして二人で佇んでいると、やがてオーウェンがエレンに手を差し伸べた。
「そろそろ帰ろう。街まで送る」
「ありがとうございます」
オーウェンと繋いだ手から、温かくて幸せなものが全身に広がっていく気がする。
そうして、彼に対する特別な気持ちに気がついた。
この日、この瞬間の出来事も想いも何もかも、きっと一生忘れることはないだろう。
「必ずまた会いに来るから待っていてくれ」
「はい、お待ちしています」
そう挨拶をして、エレンはオーウェンと別れた。
またしばらくしたら、再びオーウェンに会える。
それを楽しみにして過ごそうと思った。
しかし──。
「お前だな、オーウェン様と会っていた平民の娘というのは」
オーウェンと別れた二日後、いかにも身分の高そうな男がエレンの家にやって来て言った。
オーウェンがエレンに激怒している。このままでは殺されるかもしれないから名前を変えて逃げろと。
まったく訳が分からなかったが、オーウェンがそんなことを言うはずないと思って反論した。しかし、エレンの母は「貴族はいつもそうなのよ。簡単に手のひら返しするの」と言い、街から出ていくと男に言った。
男はエレンの母親に金の入った袋を渡し、「ドロテに行け」と命令した。ここからはるか北の遠い場所にある町だった。
エレンと母親は翌朝には貧民街を出てドロテの町へと引っ越した。男からもらった大金のおかげで、今度はちゃんとした家に住むことができた。
ドロテの町で、エレンは「イレーネ」と名前を変え、新しい生活を始めた。そして一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目のイレーネ13歳の秋のこと。元々、身体を壊しがちだった母親が流行り病に罹って亡くなった。
たった一人きりの家族を失ったイレーネは塞ぎ込み、一週間ほとんど飲まず食わずで部屋に閉じこもった。そうしていつのまにか気絶していたところを近所の人に見つけてもらい、看病の末に意識を取り戻したとき──イレーネの亜麻色の髪と新緑の瞳はそれぞれ銀雪と朝焼けの色に変わり、「先読み」の力に目覚めたのだった。
その噂はすぐに皇帝の耳に入り、イレーネは再び出生の地である首都に戻ることになった。皇帝の前で先読みの力を試され、本物だと認められると、イレーネは公爵家の養女にさせられた。イレーネはいつか皇太子妃になるから、相応しい身分を与えると言われて。
そしてイレーネは18歳で皇太子妃になり、翌年には皇帝が崩御して夫が皇帝となったため皇后の地位についた。
◇◇◇
オリフィエルとコルネリアが訪ねてきた日の夜。なかなか寝つくことができずにバルコニーに出ていたイレーネは、夜空を見上げて深い溜め息をついた。
自分の結婚相手──オリフィエルと初めて会ったとき、彼がオーウェンだとすぐに分かった。自分はエレンだと名乗り、覚えているかと尋ねたい気持ちになったが、引っ越しの前に男から聞いた言葉を思い出して躊躇ってしまった。
オーウェンがエレンに激怒している、このままでは殺される──そう言われたことを。
それに、久しぶりに再会した彼はとても恐ろしかった。
特にイレーネのことを心底憎んでいるように思えて、自分から声をかけるなんてできなかった。
なぜこれほど冷たい態度を取られるのか訳が分からなかったが、やがてその理由を知った。
オリフィエルには想い人がいたのだ。
彼はコルネリアを愛していた。
だからイレーネが「先読み」の力を持つがゆえに、コルネリアではなくイレーネと結婚しなければならないことに憤り絶望していた。
そのことを知ったとき、イレーネは酷く胸が痛んだ。
オリフィエルへの罪悪感と、自分の想いが報われないことの辛さに。
オーウェンと出会った日から、彼のことが特別だった。
会えなくなってからもずっと彼を想っていた。
オーウェンもそうだったらいいと思っていた。
でも、そんなことあるはずなかったのだ。
そもそもオーウェンがエレンに声をかけたのは、エレンの外見がコルネリアを思わせたからだったのだろう。
エレンの髪と瞳の色はコルネリアとよく似ていた。だからエレンが目に留まって、可哀想に思えたから手を差し伸べた。
オーウェンの『特別』は最初からエレンではなくコルネリアだったのだ。
だから彼が名ばかりの妻であるイレーネを差し置いて、コルネリアを寵愛するのも当然であり仕方のないこと。
それでも彼を愛する気持ちをなかなか消すことができなかったけれど、もう未練を断ち切らなくてはならない。
「……あなたのことが本当に好きでした、オーウェン様」
イレーネは雲に隠れてしまった月に向かって、寂しそうに微笑んだ。




