22. 雨は晴れて
オーウェンは生真面目そうで淡々としているのに、意外に好奇心旺盛なのか、さまざまな場所に行きたがった。エレンでも問題なく立ち入れる場所もあれば、そうでない場所もあり、そういうところではあからさまに冷たい視線を向けられたりもした。
「──痛っ……」
「どうした?」
「あ……今たぶん小石をぶつけられて」
「石を? 酷いな」
片目を瞑って痛みに耐えるエレンを庇うように、オーウェンが身体を寄せる。
「こんな仕打ち、あまりに理不尽だ」
「でも、しかたのないことですから。私は身分も低いですし……」
「それは石をぶつけていい理由にはならない。君はとても親切で善良な人なのに」
オーウェンにそう言われ、エレンは胸の中がこそばゆくなった。身分を気にされないどころか、こんな風に真正面から褒められるなんて全く慣れていないから、どうすればいいか分からなくなってしまう。
「……ありがとうございます。オーウェン様は本当に優しいですね」
恥ずかしく思いながらもお礼を言うと、オーウェンはなぜか胸のあたりを押さえて固まった。
「オーウェン様、どうしたんですか?」
「……いや、なんだか……」
ちょうどそのとき、頬に突然冷たいものが当たった。
「あっ、大変、雨が降ってきてしまいました。オーウェン様、こっちに来てください!」
大粒の雨に慌ててオーウェンの手を引いて走り出す。
たしかすぐ近くに空き家があったから、そこで雨宿りできるはずだ。エレンはオーウェンの手を掴んだまま、空き家へと向かって走っていった。
◇◇◇
「少し濡れてしまいましたね。大丈夫ですか?」
「……私はマントを羽織っていたから大丈夫だ。エレンのほうが濡れただろう」
「私は大丈夫ですから」
「いや、風邪を引いたら大変だ」
オーウェンがハンカチを取り出して、エレンの濡れた髪を優しく拭く。きっと上等なハンカチなのに、汚れた自分の髪を拭いてもらうなんて申し訳ない。早く遠慮すべきだと思いながらも、エレンは何もできずに、されるがままになった。
男の子に髪を拭いてもらうなんて恥ずかしくて身体が固まってしまったのだ。それに、優しく気遣ってもらえるのが嬉しくて、ついこのままでいたいとも思ってしまった。
(誰かにこんなに優しくしてもらうのは初めてだわ……)
出会ってたった一日しか経っていないのに、胸の中でオーウェンの存在がどんどん大きくなっていく。
「だいたい拭けたと思うんだが……」
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「ほかに気になるところがあったら拭いてくれ」
そう言ってオーウェンが持っていたハンカチをエレンに手渡した。とても手触りの良い布で、これで髪を拭いてもらったのかと思うとおそれ多いが、汚れたハンカチをオーウェンに持たせたままなのも悪い気がして受け取っておく。
「雨はまだ止みそうにないな。もうしばらく待つか」
オーウェンがマントを広げて、何もない空き家の床に敷いて座った。
「エレンもここに座るといい」
「……ありがとうございます」
マントの上で並んで座ると、なんとなく距離が近いような気がして緊張してしまう。どきどきとうるさい鼓動が聞こえるのではないかと心配になって、エレンはオーウェンに話しかけた。
「そういえば、オーウェン様はどうしてお供も連れずに街を歩こうだなんて思ったんですか?」
貴族令息が外出するときは、だいたいお供がつくはずだ。それなのにオーウェンはたったひとりで街にやって来た。きっと何か理由があったに違いない。
「まさか家出とかでは……?」
「そうだな……昨日はそうだったかもしれないが、今日は君に会いに来たんだ」
「え……?」
予想外の発言にエレンが驚いてオーウェンを見つめる。一方のオーウェンはどこか遠くを見るような目で、何もない床に視線を向けた。
「最近、頭がうまく働かないときがあるんだ。頭の中にモヤがかかっているようで、何も考えられなくなる。夜眠れない日も続いていて、もしかしたら本当に頭がおかしくなっていたのかもしれない。気がつけば、ひとりで街に出かけていた。それが昨日のことだ」
「……」
「君から花束を買って帰ったあと、いつもだったら夜はなかなか寝つけないはずなのに、昨日はよく眠れた。そして今朝起きたら、頭のモヤが少し晴れたような気がした。もしかしたら君のおかげかもしれない、そう思ったら、もう一度君に会いたくなった。また街に来てみたら運良く君を見つけて、それで声をかけたんだ」
オーウェンの話にエレンは再び驚くしかなかった。エレンの目に彼はずっと落ち着いているように見えたから、そんな悩みを抱えていたなんて思いもしなかった。
「オーウェン様……それはお辛かったですね」
「私は辛かったのだろうか……。でも、そうかもしれない。今君に言われたら、胸が痛くなってきた気がする」
オーウェンが左胸を押さえながらエレンを振り返った。
「君と話していると、どうしてか感情の抑えが効かなくなるんだ。教師にそれは恥ずかしいことだと、感情に支配されると頭が曇るゆえ正しく制御しろと教わったから、我慢できるよう努力して身につけたはずなのに。でも君と話すと頭のモヤも晴れるんだ。私は教師から間違ったことを教わったのだろうか?」
困惑した様子のオーウェンに、エレンがかぶりを振って答える。
「教わったことは間違っていないと思います。私もものすごく悲しくなったり悔しくなったりすると、上手く頭が働かなくなりますから。心と頭はつながっていて、心が荒れたり何も動かなくなったりすると、頭も同じになるというか……。オーウェン様の先生も、きっとそう言いたかったのではないかと思います」
「そうなのか……」
「オーウェン様は真面目だから、今まで冷静でいようとして気持ちを抑え込みすぎていたのではないでしょうか。頭のモヤはそのせいかもしれません」
オーウェンは何か考え込むように口をつぐむと、やがて独り言のように話し始めた。
「たしかに、私は誰よりも冷静でいようと固執しすぎていたかもしれない。でも、昨日君と出会ったとき、自然と心が動いて、そうしたら頭も体もすっきりしていたんだ。今もそうだ。君といると胸がさわがしい。これは心が揺れ動いているということだろう?」
「は、はい、おそらく……」
「そうか。君は私の恩人だ。ありがとう」
そう言ってオーウェンは笑った。
とても綺麗な笑顔で、その眼差しには優しい感情があふれて見える。
そんな宝物のような笑顔を向けられて、エレンは恥ずかしくなって俯いた。するとオーウェンが今気づいたとばかりに呟いた。
「……もう雨があがっていたようだ」
「えっ……本当ですね」
窓の外では、雨はもうすっかり止んでいた。
雨雲のなくなった空から明るい光が差している。
「では、街案内は終わりにしましょうか」
「……いや、最後にあと一か所だけ案内してくれないか」
「分かりました。どこかご希望の場所はありますか?」
「君が花束の花を摘んだ場所に行ってみたい」




