20. 分からない胸の内
部屋を出ていったオリフィエルは、苛立ちを抱えたまま白麗宮の外へと向かった。
(……なぜこんなことになったのだ)
今イレーネが夜会に出れば、貴族たちの注目を浴びることは分かっていた。そうやって向けられる目のほとんどが好奇や蔑みを含むものであろうことも。
それでも、真面目なイレーネは夜会に参加すると思っていた。
そもそも夜会の開催はコルネリアにねだられたもので、時期的にどうかと懸念はあったが、利点もあると思い承諾したものだった。先日の新聞記事のせいで過熱していた離婚の噂を静めるためには、イレーネと夫婦そろって夜会に出席するのがいいと考えたのだ。
オリフィエルがイレーネをエスコートすることはコルネリアも了承してくれ、何も問題なく進むはずだった。あとはイレーネに夜会のことを伝え、当日共に参加するだけだったはずなのに。
蓋を開けてみれば、イレーネからは参加しないと宣言され、オリフィエルのエスコートも拒否された。
──私はアルテナ公爵にエスコートしていただきます。
イレーネのその言葉を聞いたとき、腹の底が煮えたぎるような凄まじい不快感に襲われた。
皇帝であり夫であるオリフィエルがエスコートすると言っているのに、それを拒んで義兄のエスコートを望むなんて。
自分を馬鹿にしているのだろうか。
それとも当てつけのつもりなのだろうか。
あるいは──。
(それほどまでに私にエスコートされるのが嫌なのか……?)
生誕祭の日、イレーネはオリフィエルにエスコートされて嬉しそうな顔をしていた。だから今回の夜会でもそうだろうと疑いもしなかった。
なのに、エスコートを申し出るオリフィエルを見つめるイレーネの表情に、あの日のような喜びの色は欠片もなかった。こちらに向けられた眼差しはどこか虚ろで、以前とは何かが違っているように感じられた。
彼女の朝焼け色の瞳に見えたものが何なのか分からないが、拒絶、嫌悪、諦念……そんな暗い言葉が頭に浮かぶ。
(イレーネが私を嫌悪している……? 彼女が私を……?)
冷静に考えれば、それも当然のことかもしれない。オリフィエルは今までずっとイレーネを冷遇してきたのだから。
(でも、仕方ないではないか。彼女は私のたったひとつの願いを打ち砕いてしまったのだから)
コルネリアと──エレンと結婚できなかったのは間違いなくイレーネのせいだ。だからオリフィエルはイレーネに当たらずにはいられなかった。
政略結婚の相手より、心から愛する人を優先するのは当たり前のこと。イレーネはオリフィエルに愛されようとなど思わず、皇后の座を手に入れられたことに満足して生きていればいい。
イレーネはオリフィエルに嫌われて当然なのだから。
……しかし、ずっとそう思ってきたのに、イレーネが自分を嫌悪しているのかと思うと、なぜか胸がざわつく。
(そういえば、私への呼び方も変わっていた。これまでは名前で呼んでいたのに、今日はずっと「陛下」と呼んでいた)
「オリフィエル様!」
背後から名前を呼ばれて振り返ると、そこには急ぎ足でやって来るコルネリアの姿があった。
「……コルネリアか」
「もう、オリフィエル様ったら突然部屋を出ていってしまうんですもの」
「すまない、悪かった」
「まあ、仕方ありませんわ。イレーネ様があんな無礼なことを仰るんですもの。それでご不快になってしまわれたのですよね?」
「……ああ」
「わたくしも驚きましたわ。早く皇宮に帰って二人でお茶でもして、嫌なことは忘れてしまいましょう? ね?」
「そうだな……もう帰ろう」
オリフィエルが腕に抱きついてくるコルネリアをちらりと一瞥する。
(さっき名前を呼ばれたとき、私はなぜイレーネだと思ってしまったのだろう)
二人の声が似ているのか。
それとも、イレーネであってほしかったのか。
そんなはずはないと思いながら、オリフィエルはコルネリアとともに馬車へと乗り込んだ。
◇◇◇
オリフィエルとコルネリアを見送ったキーラが応接間へと向かう。
さっきコルネリアと一緒に皇帝を追いかけている途中、彼女は仕事の進捗について尋ねてきた。何か成果を報告できればよかったが、そんなものは何もない。
『申し訳ございません、まだ何も……』
『……そう。まあ、すぐに上手く取り入ったのは褒めてあげるわ。その調子で早く秘密も見つけてちょうだいね』
『かしこまりました』
コルネリアが今日わざわざ白麗宮を訪れたのは、キーラの仕事ぶりを見るためもあったのかもしれない。あの新緑の瞳で見つめられると、両手を斧で斬り落とされる自分の姿が思い浮かんで、怖くてたまらなくなる。
(早く成果を上げなければ……場合によってはイレーネ様を罠に嵌めてでも──)
応接間のドアを開けると、部屋にはまだイレーネがいた。キーラが入ってきたことに気づいていないのか、窓際に佇んだまま、ぼんやりと遠くを見つめている。方角的に皇帝とコルネリアが乗った馬車を眺めていたのかもしれない。
(イレーネ様、さっきは毅然としていらっしゃるように見えたのに……)
夜会には参加しないと断り、皇帝のエスコートさえ拒否して、さらには義兄のエスコートであれば夜会に出てもいいという条件まで飲ませていた。
まるで皇帝への愛を失ってしまったようにも見えていたが、ああやって名残り惜しそうな眼差しを向けているのを目の当たりにすると、本当はどう思っているのか分からなくなる。
「そんなところに立たれてどうなさったのですか、イレーネ様」
「キーラ……」
キーラに気づいたイレーネが窓から顔を逸らして笑顔を作る。柔らかく微笑んでいるが、その瞳がわずかに潤んで見えるのは気のせいだろうか。
「夜会のことですが、参加されて本当に大丈夫なのですか?」
「仕方ないわ。陛下の仰るとおり、皇后としての義務を果たさないといけないもの」
「そうかもしれませんが、皇帝陛下はイレーネ様をもう少し気遣われてもよいのではないかと思います」
「キーラ……」
「出過ぎたことを言ってしまい申し訳ございません。ですが、イレーネ様がお可哀想で」
今のはイレーネの心に入り込むために言った言葉だ。悲しいときや心細いとき、誰かに優しく寄り添われるとつい心を開いてしまうもの。その心理を利用して、イレーネとさらに親密になるのだ。
(……まあ、イレーネ様に同情したのは事実だけど)
不敬かもしれないが、先程の皇帝とのやり取りを見ていて、イレーネを哀れに思ってしまった。仮にも正妻であるイレーネに対して、皇帝はあまりに冷酷ではないだろうか。
「あそこまで酷く当たられても耐えていらっしゃるイレーネ様が不憫でなりません」
本音を織り交ぜた労りの言葉で寄り添ってみせる。
するとイレーネがわずかに目線を下げ、首を小さく横に振った。
「オリフィエル様は、本当はお優しい方よ。それに、先に酷いことをしたのは私のほうだから」
「……どういうことですか?」
「それは──……」
イレーネは何かを思い出すかのように言葉を途切れさせたあと、「ごめんなさい」と断ってキーラから離れた。
「……少し疲れたから部屋で休むわね」
「かしこまりました。私はこちらの部屋を片付けてから戻ります」
「ありがとう、お願いね」
部屋を出ていくイレーネにお辞儀をして見送りながら、キーラは「秘め事」の予感を感じ取っていた。




