16. 侍女キーラ
部屋に戻ったイレーネは、白麗宮の侍女たちと和解できたことに安堵の溜め息を漏らした。これで心配の種がひとつ減った。そして、新しく気になることが生まれた。
(さっきのあの侍女──キーラはどういう人なのかしら……)
彼女の反論で他の侍女たちはみな反抗をやめてしまった。今回の和解はキーラのおかげで成し得たようなものだ。
「ねえアンナ、キーラという侍女を知っているかしら?」
アンナに尋ねてみると、アンナは「ああ、キーラですね」と彼女のことをよく知っているように話し始めた。
「最近入った侍女で、名前はキーラ・ヤンセン。ヤンセン伯爵家の長女です」
「ヤンセン伯爵家の……」
彼女の出自を聞いて合点がいった。ヤンセン伯爵家といえば由緒ある家柄で、過去には何人もの娘が歴代皇后の侍女を務めたと聞く。だから白麗宮の侍女たちはキーラの指摘に重みを感じ、イレーネへの態度を改めることにしたのだろう。
(彼女にお礼を言わなくては)
イレーネはアンナに頼んですぐにキーラを部屋に呼んでもらった。
***
「先ほどは白麗宮の侍女たちが失礼いたしました」
部屋にやって来たキーラは、イレーネの前で深々と頭を下げると、さっきの騒動を改めて詫びた。
「キーラ、頭を上げてください。私は謝ってほしくてあなたを呼んだのではありません」
イレーネに言われてキーラが顔を上げる。ぴんと伸びた背筋や真っ直ぐにイレーネを見つめる灰色の瞳から、彼女の真面目さと聡明さが感じられる。
「あなたを呼び出したのは、先ほどのお礼を伝えたかったからです。あなたのおかげで白麗宮の侍女の皆さんと和解することができました。本当にありがとうございます」
「とんでもないことでございます。そもそもあれを和解と呼ぶのもおかしな話です。イレーネ様には問題など一切なく、侍女たちが一方的に無礼を働いていたのですから。私は物事をあるべき形に正しただけで、イレーネ様からお礼を言っていただけるようなことではございません」
キーラの毅然とした態度と謙虚さに、イレーネは思わず胸を打たれてしまった。こんな風に正義感を持って仕事をし、イレーネにも敬意を払ってくれる侍女は、公爵家の馴染みの皆以外には初めてだった。
「あなたの侍女としての献身に報いたいわ。私は本当にあなたに救われたの。あなたのために何か私がしてあげられることはありませんか?」
「そう仰られましても……」
キーラが困ったように眉を寄せて口ごもる。きっと何と言って遠慮しようか悩んでいるのだろう。しかし、イレーネも引き下がるつもりはなかった。
「何か言ってくださるまで帰しません。何でもいいですから、言ってみてください」
半ば脅しのように答えを促すと、キーラは「でしたら……」と遠慮がちに申し出てくれた。
「私をイレーネ様付きの侍女にしていただくことはできますか? 皇后陛下の侍女になることは私の夢でしたし、優秀な公爵家の侍女の皆さんの仕事を近くで見て学ばせていただきたいのです」
「まあ……」
キーラの願いにイレーネが驚いて目を見開く。
まさか、イレーネ付きの侍女になりたいなどと頼まれるとは思わなかった。
(でも、すごく嬉しいわ)
キーラであれば、きっと誠実に侍女の仕事をしてくれるだろう。それに、お付きの侍女を公爵家の侍女だけで固めず、白麗宮の侍女も採用することで、歩み寄りの姿勢を示すこともできる。
「もちろん、こちらからお願いしたいくらいです。ぜひ私の侍女になってください」
「ありがとうございます。それでは、これからどうぞよろしくお願いいたします」
今日は不仲だった侍女たちから態度を改めてもらうことができ、新しく有能な侍女まで得られた。白麗宮の環境が徐々に良くなってきたのを感じて、イレーネはこれからの暮らしが少しだけ楽しみになった。
◇◇◇
「やあイレーネ、なんだか白麗宮の雰囲気が変わったように思うけど気のせいかな?」
また仕事の合間に来てくれたリシャルトがイレーネに尋ねる。リシャルトにはまだ何も教えていないはずだが、彼も白麗宮に起こった変化を感じ取ったらしい。
「気のせいではありませんわ、お兄様。実は白麗宮の侍女たちがこれまでのことを謝って、態度を改めてくれたんです」
「何だって! それなら僕もようやく安心できるけど、一体どういう風の吹き回しなんだ?」
不思議そうに首を傾げるリシャルトに、イレーネが新しいお付きの侍女キーラを紹介する。
「こちらは新しく私の侍女になってくれたキーラ・ヤンセン伯爵令嬢です。彼女が他の侍女たちに意見してくれたおかげで、良い変化が生まれたんです」
「お初にお目にかかります。キーラ・ヤンセンと申します」
「そうか、ヤンセン伯爵家の……」
リシャルトもキーラの出自を聞いてすべて悟ったらしく、キーラに感謝の眼差しを向ける。
「ありがとう。君のおかげでイレーネの明るい顔を見ることができた」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「キーラはとても優秀で、仕事の飲み込みもすごく早いらしいんです。アンナも感心していました」
「それは頼もしいな。これからイレーネのことを頼むよ」
「はい、精一杯お仕えいたします」
自己紹介の挨拶を終えたキーラが部屋から下がる。すると、リシャルトがポケットから小さな本のようなものを取り出した。
「イレーネが読みたいと言っていた詩集を見つけたから持ってきたよ」
「まあ、ありがとうございます! なんて素敵な装丁……大切に読みますね。でもお兄様、今度から来るたびにプレゼントを持ってきてくださる必要はありませんよ」
「うーん、でも僕はイレーネが喜ぶ顔を見るのが好きだから……」
「私はお兄様が会いにきてくださるだけで嬉しくて胸がいっぱいになります。それでは足りませんか?」
「そんなわけないじゃないか……。僕のほうがずっと嬉しいよ、イレーネ」
──部屋の扉越しに兄妹の会話を聞いていたキーラは、雇い主からの命令を思い出していた。
『イレーネに近づいて、あの女の秘密を探りなさい。わたくしに従わなければどうなるか、分かっているわね?』
皇帝の愛人であるコルネリア・レインチェス伯爵令嬢。ある日彼女に騙されて、キーラは皇后イレーネを探る間者の役割を負わされたのだった。