12. 不幸な結婚
〈皇帝夫妻の離婚間近。次期皇后はコルネリア・レインチェス伯爵令嬢〉
まるですでに決定した事実かのように堂々と書かれた見出し。それを瞬きもせず見つめながら震えるイレーネの姿に、リシャルトは胸を抉られるような辛さを覚えた。
こんな新聞を持ってきた侍女たちを叱責したかったが、すでに侍女たちの姿はない。仕方なく黙って新聞を取り上げて、イレーネの視界から外れた場所に片付けた。
「くだらない記事だ。気にすることはないよ」
「……はい」
力なく返事したイレーネの声が震えている。
せっかく少しずつ元気を取り戻していたところだったのに、また奈落の底に突き落とした侍女たちが許せない。しかもわざわざリシャルトがいる前で見せたというのは、ただの嫌がらせ以上の意味もあるように思われた。
(イレーネが皇后の座を失うかもしれないと焦った僕が、彼女に辛くあたるとでも思っているのだろう)
もしかすると、その修羅場を期待して部屋の外で盗み聞きでもしているのかもしれない。
どういうわけか周囲は皆、リシャルトがイレーネに優しいのは、彼女が皇后であり公爵家に利益をもたらしてくれるからだと思っている。生粋の貴族であるリシャルトが、元平民のイレーネを本心から妹として受け入れているはずはないと思い込んでいるのだ。
(なんて愚かなんだろう。イレーネが皇后であってもなくても僕にとってはどうでもいいのに)
イレーネが公爵家の養女として迎えられたあの日のことは、今でも昨日のことのように覚えている。
リシャルトは一人息子であったし、もう十五歳という年齢だったので、自分に妹ができるという事態に緊張と戸惑いを覚えていた。兄としてどう接すればいいのか、ちゃんと仲良くできるのか、不安なことばかりだった。
でも、実際に対面してみると、十三歳だと聞いていた少女は想像していたより随分と小さく華奢で、緊張のせいか青白い顔をして身体をこわばらせている様を目の当たりにすると、自分がこの子を守ってあげなくてはという思いが湧いてきたのだった。
その後、自分も後継者教育などで忙しい合間を縫い、できるだけイレーネの様子を見て気にかけるようにした。
突然、貴族社会に放り込まれ、分からないことだらけで大変に違いない中、イレーネは毎日懸命に勉強していた。教師の厳しい指導にも泣き言を言わず努力を続ける姿には感心するしかなかったし、そんな彼女に教えを請われれば、喜んで手助けしようという気になった。
そうして交流するうち、次第にイレーネもリシャルトに心を開いてくれ、兄として慕ってくれるようになった。
『お兄様』
イレーネにそう呼んでもらえることを、いつしか心から嬉しく感じ、妹という存在がどれほど愛おしいものであるかを初めて知った。
リシャルトの十六歳の誕生日のときにイレーネが贈ってくれたプレゼント──覚えたばかりの刺繍でアルテナ公爵家の紋章とリシャルトの名前を縫い込んだハンカチは、決して汚さずに今も毎日持ち歩いている。
(イレーネ……僕の大切な妹)
誰よりも幸せになってほしい。
なのに、愛人にうつつを抜かしている皇帝のせいで、イレーネは不幸の底に沈んでしまっている。
イレーネが皇帝を愛していると言うから、その気持ちを尊重しようとした。だが、それは本当にイレーネのためになるのだろうか。
「……イレーネ」
リシャルトが穏やかな声で呼びかけ、イレーネの肩にそっと手を置く。
「僕はいつだってイレーネの気持ちを大事にしたいと思っている。でも、皇帝とはもう別れたほうがいい」
◇◇◇
その日の夜。イレーネは夕食を断り、早々に着替えてベッドに入った。例の新聞の見出しを見たせいか、また食欲と気力を失ってしまい、早く休みたかったのだ。しかし、目を瞑るとかえって色々なことを考えてしまい、まったく寝つくことができなかった。
特に、リシャルトの言った言葉を何度も思い出して考えてしまう。
『皇帝とはもう別れたほうがいい』
そう言われて、イレーネは返事をすることができなかった。
俯いたまま固まっていると、リシャルトは何も言わずに抱きしめてくれ、しばらくするとあの新聞を持って帰っていった。
『公爵家のことは気にしなくていい。自分の幸せだけを考えるんだよ、イレーネ』──と言い残して。
リシャルトはとても妹思いの兄だ。
本当だったら、イレーネが皇后でいてくれたほうが家門にとってはありがたいのだから、血の繋がらないイレーネの苦しみなど無視したっていいはずなのに、それよりもイレーネの幸せを優先してくれた。
(私はオリフィエル様を愛している。だから理由はどうあれ結婚できたことが嬉しかったし、別れたくないと思ってしまう。でも……)
リシャルトは自分の幸せだけを考えるようにと言っていた。
イレーネの幸せとはなんだろう?
愛する人のそばにいること?
でも、決して愛してはもらえない一方通行の夫婦関係は幸せと言えるのだろうか?
「私の幸せは、別の場所にあるのかしら……」
ぽつりと呟いたとき、部屋の外から「お待ちください!」とアンナの慌てるような声が聞こえ、イレーネはびくりとして身体を起こした。
その瞬間、部屋の扉が乱暴に開けられ、薄明かりに思いもしなかった人の姿が浮かび上がる。
「……オリフィエル様?」
イレーネの寝室に押し入ってきたのは、夫である皇帝オリフィエルだった。




