11. 不安
『公爵令嬢との結婚……? 嫌です、私にはすでに心に決めた女性が──』
『忘れろ。イレーネ嬢との結婚は皇命だ。お前とて拒否することは許さぬ』
何度食い下がってみても、父の決定を覆すことはできなかった。帝国にとって貴重な「先読み」の力を持つ唯一の存在。彼女を皇室に繋ぎ止めるために、皇族と婚姻させることが重要なのだという。
それはつまり、神秘の力を得るためにオリフィエルが生贄にさせられるようなものではないか。
せっかくエレンと再会することができたのに。
彼女と一生添い遂げようと思ったのに。
イレーネ・アルテナという女のせいで、たったひとつの願いが叶わなくなってしまった。
『イレーネ・アルテナ……』
顔も知らない女が最も忌々しい存在になった瞬間だった。
◇◇◇
「──オリフィエル様、聞いていらっしゃいますか?」
「あ……ああ、すまない」
コルネリアに名前を呼ばれて、オリフィエルが我に返る。
つい昔のことを色々と思い出し過ぎてしまった。
「そなたとの思い出に浸っていたんだ」
「まあ、いつのことですか? 白麗宮での逢瀬でしょうか」
「それも良い思い出だが、私はやはり幼い頃に過ごしたあの数日の出来事が忘れられない。そなたも覚えているだろう? 空き家で雨宿りしたときのこと──」
「ええ、そうでしたわね。オリフィエル様がわたくしの手を引いてくださって……」
「いや、手を引いてくれたのはそなただろう」
「あ……そうでしたかしら。昔のことなので思い違いをしてしまったみたいですわ。そんなことより、今夜は皇后宮に来てくださるでしょう?」
急に話題を変えられて、オリフィエルは少し胸が痛むのを感じた。大切な思い出を「そんなこと」と言われ、コルネリアに悪気はなかったのだろうが、過去への思い入れに温度差があるようでどこか寂しい。
「……すまないが、さっき急ぎで処理しなければならない書類ができてしまった。皇后宮へは行けそうにない」
「そうですか……。残念ですが仕方ありませんね。ご都合がよろしくなるのをお待ちしています」
コルネリアが寂しそうに微笑む。同情を誘う健気な表情だったが、どうしてかオリフィエルはあまり感情が動かされず、コルネリアへの返事はただ頷いて見せるだけだった。
◇◇◇
翌日の午後。白麗宮のイレーネのもとを義兄のリシャルトが訪れた。イレーネが笑顔で出迎えると、リシャルトが手に抱えていた花束を差し出す。
「イレーネに似合うと思ってね。部屋に飾ってくれるかい?」
「まあ、ヒヤシンスの花ですね。すごく綺麗です。ありがとうございます」
イレーネが嬉しそうに顔を綻ばせる。ピンクや白、青、紫の色とりどりの花が可愛らしくまとめられた花束は、もしかするとイレーネの髪と瞳の色に合わせて作ってくれたのかもしれない。リシャルトのこういう細やかな気遣いが、今は特別ありがたく感じる。
「イレーネ様、さっそく花瓶に移し替えてお部屋に飾っておきますね」
「ありがとう、お願いするわ」
侍女のアンナに花束を任せると、その様子を見ながらリシャルトが安堵したように目元を緩めた。
「だいぶ顔色が良くなったね」
「お兄様や公爵家のみんなのおかげです」
「食欲も少し戻ってきたと聞いてるよ。夜はしっかり眠れているかい?」
「はい、夜中に起きてしまうこともありますが、ちゃんと休んでいますので安心してください」
「……そうか。大丈夫だ、少しずつ元気になればいいさ」
「はい」
穏やかに微笑んで返事をすると、リシャルトは今度はイレーネのドレスや髪型を褒め、イレーネの雰囲気に合っていると言ってくれた。
「皇后らしい威厳のある装いも似合わないわけではないけど、今みたいに柔らかい感じのほうがイレーネの良さが引き立つ気がするな」
「実は私もこういう装いのほうが気持ちが楽です」
本当のことを言えば、一番楽なのは平民だったときに着ていたコルセットのないワンピースだけれど。
そんなことを心の中で呟きながら、イレーネは平民から公爵家の養女となったときのことを思い出す。
突然降って湧いたような、予想もしなかった出来事。たったひとりの家族だった母を亡くし、孤児になってしまったイレーネに差し伸べられた手。イレーネにとって善なのか悪なのかは分からなかったが、生きるためにはその手を取るしかなかった。
そして連れて行かれたアルテナ公爵家で、イレーネは養女となってさまざまな教育を受けることになったのだった。貴族の世界など何も知らないイレーネには過酷な毎日だったが、そんな日々の中でも常にイレーネを案じて味方になってくれる人がいたから耐えることができた。その人こそが、義兄であるリシャルトだ。
リシャルトは初対面のときから優しかった。
『はじめまして、僕はリシャルト。今日から君のお兄さんだよ』
栄養が足りずに発育が遅れていたイレーネが幼く見えたのだろう。まるで七歳くらいの子供にするような挨拶だったが、そのおかげでイレーネは緊張がいくらか解れたのを覚えている。
そのあとも、リシャルトは何かとイレーネを気遣ってくれた。庭の散歩に誘ってくれたり、美味しいお菓子を持ってきてくれたり、マナーやダンスの練習に何度も付き合ってくれたりした。
リシャルトの優しさにイレーネは心から感謝した。
でも同時に、あまりにも親切な彼が不思議でたまらなくて、不安を漏らしてしまったことがある。
『元孤児の私が妹になるなんて、本当は不満に思っていたりしませんか……?』
どんな顔をされるか怖くて、思わず目を逸らしたまま尋ねたイレーネを、リシャルトは優しくそっと抱きしめてくれた。
『そんなことない。イレーネは僕の大事な妹だよ』
リシャルトの声も体温もとても温かくて心地よくて、イレーネの不安は綺麗に溶けてなくなった。リシャルトなら、本当の家族だと思って信じられる。そう思った。
──あのときから、リシャルトの優しさは変わらない。いや、むしろさらに深くなっているような気さえする。
「お兄様、いつもありがとうございます。公爵家の養女にしていただいたのは、私の力を皇室のものにするための皇命だったと分かっていますが、おかげでお兄様の妹になれて本当に幸せです」
「急にどうしたんだ? なんだか照れるな……」
リシャルトがはにかんだ笑顔を浮かべる。こんな風にどこか隙のある表情は自分の前でだけ見せてくれるものだということをイレーネは知っている。そのことが兄妹の絆を感じさせてくれて、イレーネはまた幸せを感じた。
そうやって穏やかな時間を過ごしていたとき、突然ノックの音が聞こえて二人の侍女が部屋に入ってきた。どちらも公爵家の侍女ではなく、元々白麗宮でコルネリアの世話をしていた侍女たちだ。
(アンナたちが忙しくて、代わりにお茶を替えに来てくれたのかしら?)
そう考えながら、どこか不遜な態度の侍女たちを怪訝に思っていると、ひとりの侍女がテーブルに新聞を広げて置いた。
「イレーネ様、本日の新聞でございます。よくお読みくださいね」
「え……ありがたいけど、今持ってこなくても……」
なぜリシャルトと過ごしている最中に新聞など持ってくるのだろうか。さすがに無礼だと感じ、すぐに持ち帰るよう言おうとしたとき、イレーネは新聞の見出しに書かれていた文字を見て絶句した。
(何ですって……? オリフィエル様と私が離婚──……?)




