17話
食事処『花』の戸を晴樹が先立って開けると、続くように結希も中に入った。
暖簾を潜って居酒屋に足を踏み入れれば、着物姿の年嵩の女性が歓迎してくれる。
「いらっしゃいませ。あら、晴樹くんとユウちゃんじゃない。久しぶりねぇ」
「お邪魔します」
「久しぶり、ママ」
カウンター席に座ると、ママは奥へと声を掛けていた。すると微かに高槌の声が聞こえる。
「え、おじさんもいるの?」
「いるわよ。今日は会食もなかったようでね、今さっき帰って来たのよ」
「最悪……」
「良いじゃねぇか。鈴原のことは知ってるんだろ?」
「そうだけど……。いや、だから嫌なんだって」
「知らん。職場でミスを減らす為だ。逃さねぇぞ」
「ママ、晴樹が手厳しいよぉ……」
「あらまぁ。お仕事で失敗しちゃったの? ユウちゃんなら大丈夫よ。いつものお仕事頑張ってて偉いね」
落ち着いた声音で『花』の女将である頼子がカウンターから手を伸ばして頭を撫でてくれた。
その仕草は実母とは違う温かみがあって、結希は自然と頬が緩んでしまう。
頼子と高槌(秀明)は夫婦だ。バツイチだった高槌が立ち寄った居酒屋で見習いの頼子と出会い、高槌のアタックに折れた形で結ばれたらしい。
出会ったのが既に30代後半だったこともあり、子供には恵まれず年を重ね。
多少の難はあれど、仲の良い夫婦として『花』の常連客には知られている。
結希は初恋の彼女に振られてどん底まで落ちていた所を高槌に拾われた後、初めて『花』を訪れた。
そこで高槌の愚痴を聞いたり、人生相談を聞いてもらったりしている内に、結希は二人にお世話になることが決まり、精神的に安定するまでこの2階の家にお邪魔することになったのだ。
祖母のような、母親のような頼れる頼子と、冗談を言い合える祖父のような高槌の夫婦に、結希は直ぐ様馴染んで娘のように滞在していた。
アパートに戻ってからも、頼子には精神的に頼れる女性だ。
何でも吐き出せるテリトリーが出来たことに、結希の人生は一変し、大学生活も恋愛も落ち着いた。
晴樹との仲直りが出来たのも、この居酒屋があってこそだと思う。
「何を飲む? いつものビールとレモンサワーで良いのかしら」
「俺は今日、結希と同じもので」
「あらそうなの。じゃぁサワーを2つね」
注文を取ると頼子はキッチンでレモンサワーを作りはじめた。
真っ白で綺麗な指先を動かして氷をコップに入れ、原液と炭酸水を注ぐと、輪切りにしたレモンに切込みを入れてコップの縁に添える。
出されたサワーで乾杯をすると、シュワシュワと弾けるお酒が喉を潤した。
「それで鈴原と何があったんだ?」
「……たいした事はないの。酔って告白しただけよ。まだ振られたわけじゃないけれど、返事を遮って伸ばしたの。そのせいで向こうも落ち込んじゃってて……」
「つまりお前は、振られてもないのに失恋した気で落ち込んでいると」
図星を付かれて結希は胸に手を当てた。
ナイフどころではなく、魚のように銛で突かれた気分になって項垂れる。
(なんか、晴樹の話しを聞いていると滑稽ね……)
「馬鹿だろう」
「まぁまぁ、晴樹くん。あまりユウちゃんをいじめないであげて。初恋の時の傷もあるでしょう。想いが強いほど失恋の痛みは大きいものだわ」
「伊波くんは一途だからね」
バックヤードに繋がる奥間から、Yシャツとスラック姿でやって来た高槌が晴樹の隣へと座った。
きっちり固めた髪は手櫛で解したのか少し癖を残しつつボサついている。
日本酒を頼子から貰うと一口煽ってから話しを続けた。
「晴樹くんは執着心が強いから逃がすような真似はしないだろうけど、伊波くんは無理に引き止めようとはしないだろう。とは言え、すんなり上手くいくと思ってたのに、そんなに悪い状況なのか」
「いや全くですよ。二人でデートなんかして楽しんでましたし」
「それは先輩後輩としてだからよ。尊敬の眼差しを向ける子に下心で近づいてるなんて言って、キスしたら普通嫌がるでしょ!?」
「ほぉう。キスまでしたのか! やるなぁ、ユウくん!」
「盛り上がるな!」
「良いじゃないか。それで、あの子の反応は?」
「固まってたわよ……」
「うん? 嫌悪感がなかったのならイケるんじゃないのかい」
「同感です。少なからず受け入れてる証拠ですよね」
「押しまくれば案外性別なんて関係なく付き合えそうな気がするが」
「鈴原さんなら特に、結希に懐いている様子だったし、段取り踏んで慣らせば問題ないだろ」
頷く高槌と晴樹の会話に、結希は首をカクンと傾ける。
押しが強く、強引にことを進めようと付き纏うような二人には、結希のような奥手な人の気持ちは分からないのだろう。
多分、父が出会った人も、そんな一面が見れて怖かったのかもしれない。
「まったく、秀明さんたちは女性の気持ちが分かってないわね。他の女性にそんなことしたら、いつか訴えられますよ。私は助けませんからね」
「安心してくれ。わたしは一番手に入れたかった人が目の前にいるんだ。問題は起こさないように気をつけているつもりだよ」
「あら。なら鈴原さんとはどう言う経緯で知り合ったのかしら」
勘の働く頼子さんの言葉に、結希は視線を反らした。
隣から晴樹の視線を感じつつも、“私は関係ありません”と言う態度を貫く。
それが悪かったのだろう。
頼子の口調が低くなり、高槌はおどおどしっぱなしだ。
「本当になんともないよ! ただメル友になりたかっただけで!」
「また! 秀明さん、この前メル友が20人いらっしゃったと言ってましたよね。本当にメールだけなのかしら」
「誓って! 誓ってメールだけだ! 頼子以外の女性とデートなんて考えられない!」
高槌の口からそんな言葉が出ると、頼子の責めは治まった。
多分、本気で不貞を疑っていたわけじゃないのだろう。
それは数カ月間一緒に過ごしたことのある結希にも、どれだけ高槌が妻の頼子を好きか知っているので分かる。
(出張以外で朝帰りしたことなんて一度もなかったし、秘書も浮気している様子はないと言っているもんね)
仲睦まじい二人のやり取りを見ていると、結希は美菜と食事をしていた時を思い出す。
初恋の一件があってから特定の人なんか作らないで良いと思っていたのに、今では美菜と過ごす時間を恋しいと思う。
(あたしも愛されたい。二人の時間を重ねて、いつか家族に自慢したい。「こんなに可愛い子があたしの恋人なんだよ」って、──大切な人を愛したいんだ)
「これからどうするつもりなんだ?」
「……ちゃんと振られるわよ。じゃなきゃあたしも前に進めないし」
「付き合えるとは思ってもないのか……。まぁちゃんと話し合うことだな」
「えぇ」
ノンケの人に期待はしない。
初恋のように利用されるのも嫌だけど、失恋した時もしょうがないって諦められるから、きっとそう思っていた方が正解で、楽なのだ。
(だけど……)
言葉に出来ない胸の奥深くでは、受け入れてくれたら嬉しいと言う気持ちが拭い去れないのも確かに在った。




