134話 伊崎凪咲 亡き姉とクラリネット
救急車のけたたましいサイレンの音が、うるさいくらいに鼓膜を叩きつける。人々の喧騒に押されるように、誰かが搬送されていく。
『姉…さん?』
それは、自身の姉だった。
姉はシートに被せられていて、何だか窮屈そうに見えた。
『なんで姉さんって、いつも机をたたいているの?』
『…それが、私のやりたいことだからだよ』
その言葉は、いつまでも忘れることは無い。
髪先が黄色に染まり、ロングツインテールを下げた姉の笑顔が、夕日に照らされ輝いていた。
『わたし、もっとうまくなりたい!』
そんな明るい声は、唐突に失われた。
どうしようもない気持ちを、押さえ付けていたその時、現れたのだ。
『私はね、古叢井瑠璃だよ』
姉のような友達に出会ったのは…。
ー現在ー
「凪咲ー」
「はっ、姉さん」
「私は瑠璃だよ」
練習終わり、伊崎凪咲は、疲れ過ぎて寝てしまったようだ。
「…矢野は?あ、そっか」
「雄成は病院行ったよ。お母さんと少しでも長くいたいって…」
「鬼だけど、矢野も子供だもんね」
それだけ言って、凪咲は溜息を吐き出した。
「それにしても…瑠璃がいなかったら、今頃…この吹部は終わっていただろうね」
凪咲が言う。
「そうかな?」
「瑠璃って、凄いよ」
「え?嬉しい♪」
すると、瑠璃はゆっくりと手を伸ばした。
「…私ね、人生でまともに怒ったの、雄成が初めてだったの」
「え?」
「前も言ったよ?私、本気で怒ったら手が出ちゃうから。でも今はもう大丈夫だよ」
「すっ…、その怒りを楽器にぶつけてるから?」
「ちょっとー。捻くれたこと言わないでよ。間違ってないけど」
瑠璃はものを叩くことが好きだ。しかし、凪咲は首を横に振った。
「…私の姉さんも一緒だったよ」
「それって、お空に行っちゃった…?」
「そう」
音楽室に静寂が流れる。だが、僅かに楽器の音が聴こえてくる。蓮巳桜のトロンボーンだろう。
「伊崎優子…」
凪咲が言う。
「…凪咲のお姉ちゃんの名前?」
「そー」
すると彼女はクラリネットのリードを外す。そろそろ替え時か。
「…私の姉さん、瑠璃みたいだったって話しはしたよね?」
「したよ」
すると凪咲は話し出した。
《ー10年前ー》
凪咲の姉、伊崎優子は、茂華小学校吹奏楽でもトップクラスの打楽器奏者だった。
『凪咲も楽器やろうよ〜』
誰よりも純粋で繊細…。そんな彼女は、普段なら妹にも甘えるような子供であった。
しかし…、
『おねえちゃん、カッコいい〜』
楽器を演奏している時の顔は、誰よりも真剣で本気で音楽を楽しんでいることが、手に取るように分かった。
コンクールでは真面目でも、定期演奏会などのポップスでは、誰よりも楽しそうに、幸せそうな笑顔で演奏していた。
それに憧れた優しい姉に、演奏会の直後、優子に…
『私も、がっきやりたいかも』
こう言った。
『ふふ、凪咲ぁ、分かってくれた?』
すると、優子は可愛らしい小顔を傾げて、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。
そんな2つの顔を持つ姉が大好きだった。
だが、優子に異変が訪れる。
凪咲が小学校に上がった時から、優子の元気がなくなってしまったのだ。以前のような明るさは見えなかった。
凪咲は、心配の声を掛けようと何度も迷った。それでも、『すぐに元に戻るだろう』と安心していた。
事実その後、優子の元気はすぐに戻り、自分の憧れる純粋な姉が戻ってきた。
『なぎさー!ただいまぁー』
『…お姉ちゃん、おかえり』
ある日、そこにいたのは普通の姉。
『…あー、疲れちゃった』
『?』
しかし、この日は何か様子がおかしかった。
そしてこの日の夜、悲劇が起こる。
優子は、珍しく外へ散歩に言った。茂華町は街灯の多い場所なので、小学生ひとりが歩こうと、全く問題のない安全な町だった。
だから、別に誰も止めようとはしなかった。
「優子、まだ帰らないのかしら?」
「姉さん、まだ帰らないの?」
優子の楽器のカタログを盗み見していた凪咲が、心配をする母に近寄る。
「そう。いつもなら8時までには…、帰ってくるはずなのに…」
その時、スマホが揺れる。そのバイブレーションは、不吉な未来を暗にほのめかしていた。
「…誰?警察?」
「…えっ?」
連絡は…『優子が車に跳ねられ死亡した』という内容だった…。
それからは、よく覚えていない。
ただ、優子の葬式は人生で1番泣いたと思う。
それから、数カ月後。
『なにこれ…』
しかし、優子は親の強い期待に耐えかねて、自ら命を絶ったことが、彼女の日記によって明かされた。
優子の変化に気付けたはずなのに、何もしてあげられなかった。その後悔は一生残るだろう。
そのあと、小学4年生でクラリネットを始めた。一旦は優子のように打楽器を始めるか迷った。だが、いつまでも過去にすがりついてはいられない。そんな特殊な信念を胸に、彼女とは違うクラリネットを始めた。
『県管打楽器ソロコンテスト…、金賞。伊崎凪咲!』
『はい』
誰よりも真面目な凪咲は、着実に実力を付けていき、小学生ながら県1位の実力を持った。
また、うまくなる為なら厳しい指導も厭わなかった。
氷村清遥。子供ながら、今は世界レベルのクラリネット奏者だ。
『…まずは、自分の能力を知ってから吹く』
『はい!』
そんな彼の厳しい指導を乗り越えた彼女は、中学1年生から即戦力だった。
それでも、圧倒的な実力差と真面目さから、彼女は孤立してしまった。
《ー2年前ー》
しかし、とある日。
「優愛おねえちゃんー」
先輩を『姉』として接する特殊なクラスメートがいた。それが古叢井瑠璃だった。
「…あ、」
「君、誰?」
彼女は先輩を探していたらしい。凪咲は瑠璃に名前を訊ねられた。
「…伊崎凪咲。あなたは?」
「あなた?私の名前、あなたじゃないよ、瑠璃だよ」
「いや、君の名前を…、あ!」
凪咲は何か言いかけたことで気付いた。
「名前、瑠璃なんだ」
すると、瑠璃は小さく頷いた。
「うん。私の名前はね、古叢井瑠璃だよ」
「瑠璃…」
…ということは、優愛直属の後輩ということか。
すると瑠璃は、友好的な笑みを浮かべる。
「…よろしくね!凪咲っ!」
その大きな声に、凪咲は少し来るものがあった。
純粋な性格で打楽器奏者。まるで、姉のようだった。
(…姉さん)
「凪咲!何の楽器やってるの?」
「…クラリネット」
「え〜、知らない楽器だ!」
あまりにも姉に似た少女。
「…ちょっと来て」
「?」
そんな純粋無垢な瑠璃に、凪咲はクラリネットを見せた。
「…これがクラリネット?」
「そう。木管楽器で、リードを使って音を出す」
「…ふーん」
知らない?凪咲が訊ねると、瑠璃は何の造作もなく首を横に振った。
「…私、和太鼓しかやってなかったから」
「えっ?やってたの!?」
「…やってたよ」
「何?御囃子?」
「違うよー。和太鼓クラブ」
「なぁーんだ…」
何となく凪咲は落ち込んだ。
「…あ、これ優愛お姉ちゃんには内緒ね」
すると瑠璃は口元に、小さな指を当てる。
「どうして?」
和太鼓をやっていたことを、隠す必要はないだろう。
「…優愛先輩に、甘えられなくなっちゃうから」
その言葉に、凪咲はハッとした。
彼女は先輩を『姉』として見ている。
「…」
他とは違う彼女とは、親友になれそうだと思った。だから…
「私と…友達になってくれない」
こう言った。
「いーよ」
瑠璃はそれを笑いながら承諾してくれた。
この日から、姉と似た瑠璃は、凪咲の中で特別な存在になった。
そんな折、事件が起こった。
「どうして、瑠璃がティンパニ壊しちゃったこと言ったの!?」
「う…」
サックスの芽吹が、『ティンパニ破壊事件』をわざと起こしたと言いふらしたのだ。
それからも、太鼓ができなくなった瑠璃を何度も心配した。
『大丈夫?』
『うん、だいじょーぶ』
瑠璃は最後まで、潰れそうになるその瞬間まで、本音を隠し通していた。
そして、優愛に打ち明けたあの日から、凪咲は瑠璃を姉のようにはさせないと、決意したのだった…。
《ー現在ー》
瑠璃は帰る用意を、既に始めていた。
「…私、もう夕飯だから帰るね」
「うん」
「凪咲は練習してくの?」
「…ううん。瑠璃と帰る、てか…」
凪咲は頰を赤くする。
「1人の夜道は危ないよ…」
「…わかってるよ」
いつか、姉の元に行くときが来るかもしれない…。
それまでは、クラリネットを一生懸命頑張って、もっと強くなりたい。
そんな瑠璃は…
『…はっ』
『へへ…。ある人からドラムを習って、ちょっとね』
とんでもない離れ業を魅せてきた…。
【楽器のプチ知識】
『瑠璃。クラリネットって楽器はね、18世紀初頭にヨハン・クリストフ・デンナーによって発明されたらしいよ。語源はイタリア語の《Clarino》(小さなトランペット)なんだって。綺麗な音を出すけど、急激な温度変化に弱くて、取り扱いには注意が必要よ。クラリネットって面白いよね??』
by 伊崎凪咲
【続く】




