122話 東関東大会 [後編]
瑠璃は迷っていた。
壊れるくらい思いっ切り演奏しないと、全国大会の枠に選ばれないかもしれなかったから…。
その迷いを残したまま、課題曲は終えた。
しかし彼女の中で、密かに暴走が始まろうとしていた。
課題曲は最高の出来で終えた。
マードックから最後の手紙。
ついに、その一音が響く。クラリネットたち木管の音とウィンドチャイムの音。その余韻が消える頃、音楽が鳴り響く。優しいリズムがベルから放たれ、くるくると回るように音は旋回する。
瑠璃は慎重にマレットを振る。強くもなく弱くもない威力で。
チューバの低音が溶け、更に音は陽気なものへと変わる。瑠璃のティンパニと希良凜のシンバルが重なり合う。そして瑠璃は足でティンパニのペダルを操作する。一切、無駄な動きはしない。その間にタンバリンのリズミカルな音が響く。追従するようなタンバリンと共にいるトランペットやクラリネットたち。
そこからは、あっという間にオーボエのソロへと入る。元来、この曲にオーボエソロは無いが、オーボエの音が主に評価される部分はある。
美心乃は唇でリードを震わせる。前とは桁違いの表現力。元々、技術は神平中学校にも匹敵するもの。彼女に足りなかったものは、美玖音の言う通り表現力だった。その音は儚い。
何より、他の楽器よりも色彩が違う。音を色で例えるなら紺青と朱色が混ざったような音。紺青は曲への表現、朱色は自身への自信、そして生まれ変わった本当の自分らしい音。そのふたつは、世界にひとつだけの美心乃だけの音だ。
今、この演奏を評価する者は、完璧主義者の遥篤ではない。だから、自分の自分らしい音色を、審査員の耳にまで届けるだけだ。
オーボエソロが終わると、曲は激しさを増す。
トムトムの音が激しさを増す。まるで突然のアクシデントかのように、その音は唐突に響き渡る。希良凜もサスペンドシンバルを、打っては止めを繰り返す。
トムトムの音が、ホールの空気を割るように響き渡る。秀麟はスティックを軽やかに振るう。激しいリズムから、まるで水面が動くかの如く、柔らかな音が響き渡る。
曲は中盤までいってしまった。もうすぐお終いだ。
(…くる!)
そして、あと数秒でティンパニも山場へ入る。
(…思い切り!)
瑠璃は緊張で混乱していた。これまで言われたある言葉が脳裏へ蘇る。
『…もう思い切り叩いてください』
『思い切り叩いても良いけど、感情を表現すること』
尾瀬川慎太郎と朱雀美玖音。その2人の言葉が、緊張で思考を持たない瑠璃の心中を締め付ける。
(やらなきゃ…、やらなくちゃ、破壊してでも…、思いっきり…!)
そして…ついには錯乱してしまった。
マレットをおもいきり強く握る。
(まだ、終わりにしたくない…したくないよ…)
合奏中、何か指導される度、悔しくなった。
自分は本当は1番下手なのではないのか?
自分の迷いのせいで全国大会に行けなくなるのか?
…過去のしがらみに何時迄も縛られ続けて、本当の自分を我慢しながら周りに合わせる。
でも、今だけは、本気でやらなきゃ。
ここには、自分より上手い奏者が腐る程いる。
自分はきっと…まだ未熟だ。
だから…、だから…、だから…、だから…
心拍数の数値は、命に関わる数値に到達するくらいに上がる。
その決意が狂気と集中力に染められる。だが、その瞳は満身創痍な獣のようだった。普段の余裕げな瞳とは全く違う。今までにないくらいの表情。
(本気で叩かなきゃ!)
瑠璃の脳内に感情が溢れる。
『…うわぁぁぁああ!』
心の中で叫ぶ。共鳴するように深紅の瞳が震える。穏やかな殻に隠された本性が顕になろうとする。
そして、大きくマレットを振りかぶる。理性を失いかけても、失敗は許されない。それは本人が1番、理解している。すべての思いと力をぶつけようとしたその時…、
『…瑠璃!だめ!』
誰かの声が、誰かの手が、瑠璃の胸を押さえた。
無論、現実に誰かが、呼び掛けているわけでも、胸に手を掛けているわけでもない。
ただ幻聴のように、脳内へ声が溢れたのだ。
(…はっ!?)
上がり切った心拍数が音を立てて下がる。
ティンパニの出番まで、あと数秒という所で、瑠璃の暴走は止まった。
思い切り叩こうとしたその手を止める。
『…そんな気持ちで叩いちゃ駄目だよ』
(…優愛…お姉ちゃん?)
その場にいるわけがない。なのに、まるでテレパシーのように鮮明に伝わった。
『…優しく、笑顔で、落ち着いて』
そして送られた3つの言葉。それはどれも、この3年間に言われたことだった。
(…うん)
心の中で、いる"はずのない"優愛へ言葉を返した。
『…思い出して、"みんな"と今まで頑張ったでしょ。ここで終わりにしちゃ駄目だよ』
(思い出して、思い出す、みんなと…)
たった1秒。その短い時間で、いくつもの思い出が万華鏡に写るかのように一気に蘇る。
凪咲と初めて会った時、少し真面目だなと思った。だが、
『…私、瑠璃のこと信頼してるから』
実は、友達思いで優しかった。
部長の雄成の時、本当に大変だった。
『…先輩、部長が怖いです』
こう、後輩の秀麟に言われた。結果、部に緊張の糸が張り詰め、破綻も目前だった。
『お前、何してんだぁぁあ!』
『…俺の言ったことは全て事実だろ』
こうぶつかった。でも、彼にだって事情はあった。
『それを信じて、お母さんを悲しませるのはもっと駄目なんだよ』
雄成の母が、がんで余命が宣告されてしまっていた。そんな話しを部員に打ち明け、こうして全国大会を狙い始めた。
副部長の音織も最初は、変わった人だと思った。
『…楽器は泡沫、音楽室はまほろば』
話し方が変わっているからだ。だが、
『練習こそ勝者の日常』
誰よりも努力していて…
『初手から分からぬとは。良いだろう、来い』
誰よりも優しくて温かい人だ。
3年生になり、仲の良くなった美心乃。
『…瑠璃ちゃんがいたら百人力だよ』
やたら自分を頼りにしてくれた。でも…、
『ソロが…うまくいかない…』
実は、誰よりも自分の演奏に葛藤していた。周りのレベルに打ちひしがれ続けた結果、一度は挫折してしまった。
だが、今は誰よりも自信満々に吹いている。
そんな皆との思い出が詰まったこの1曲。
それを、自身の感情で終わらせたくなかった。
今までの努力を無駄にしたくなかった。
幾億もの思い出。
市と県のコンクールで金賞を取れた。
色んな後輩と、厳しい練習を乗り越えてきた。
合宿で、様々な人間関係の問題も改善された。
自身の過去と向き合い、必死に戦った。
やさしい後輩ふたり。
希良凜とも最初は分かり合えるか不安だった。
『でも、瑠璃先輩にもやらせたら、あれくらいやりそうな気はしますよ。私、莉翔の演奏より、瑠璃先輩の方が上手いと思ってますし』
だが、こんな自分を認めてくれた。
そして、出会ってまだ半年の秀麟。合宿中、湖で交わした会話。その最後の彼の言葉。
『…いえ、僕は瑠璃先輩の本気の演奏を見たいだけですので』
その言葉は、今でも昨日のことのように憶えている。
どれも、誰との思い出も、全てが吹奏楽部に入って良かったと思えたことだ。
「ひっく…、ひッ!」
自然と嗚咽が飛び出した。"戻れない思い出"という名の"布"が、涙腺を容赦なく刺激する。どれも優しい布で包まれたものなのに、それはやけに重く感じた。
はぁ、また、この曲を演奏したい。皆の優しい音色と、自分の大好きなティンパニと触れ合いたい、そう思う。
5月に入り、自由曲が決定。
『…マードックはそんなに元気な曲じゃないそうですよ』
『えー、分かんない』
『古叢井先輩、曲の意味調べてみましょうよ』
こうして、後輩と曲に込められた思いを、調べたりもした。
備品のタブレットで、曲を検索した。
『…マードックの心情を感じれば良いらしいです!』
『…マードックの心情?』
すると、多少吹奏楽に詳しい秀麟がこう言う。
『マードックはウィリアム・マードックのことで、船の美しさや沈没というアクシデントの予感、何より沈没前の綴った手紙の内容を、音楽にしているそうですよ』
『うわぁ、じゃあー』
『結構、難しいですね。激しさと穏やかさを秘めた演奏しなきゃなので』
希良凜もこう言っていた。
後輩ふたりと曲の議論を交わしたり、数多の課題を乗り越えてきた。
「ひっくッ…!ひくッ…ひッ!」
瑠璃は嗚咽を必死に抑えるが、まったく止まらない。
まだまだ演奏したいと泣き叫びたい。
この同級生と後輩、そして顧問と。
でも、そんな皆と1つになった約束を、今、叶える時なのだ。
初めてここに来た時は、吹奏楽部なんて大嫌いだった。でも…今はこう思う。
(ありがとう。茂華中学校吹奏楽部)
マレットを握る力が弱まる。
この時、瑠璃には『全国大会』という言葉しか、脳裏に浮かばなかった。
次の瞬間、ホールにティンパニの音が弾けた。
瑠璃は今までにないくらいの優しい顔をしていた。流れた涙を拭わず、優しくも狂気を秘めた赤い瞳を、楽譜へと突き刺す。
顔は笑っているが、集中力が一気に上がる。それと同時、勝手に手首が跳ね上がる。
細かいロールも、今ならできる。
どんなにフォルテが続こうと叩き続ける。
そんな強い決意はただの土台だった。その決意の上に、自身の全身全霊の技術と思いをぶつける。
涙は白い頬を伝い、床の木目へ滴を作る。しかし瑠璃はその涙を、一瞬の休符の間、足で蹴るように弾いた。
(…絶対に全国大会に行く!それが…)
そして、涙を振り落とすように、マレットを力強く振るう。
遠くにいる優愛にも届いてほしいな、と願いながら。
どどどどどっ!
今までにない迫力の音がホールを突き抜ける。
「…みんなとのやくそくだから」
瑠璃は低い声でそれだけ言った。
今は、全力で、笑顔で、完璧な音楽を届ける!
(先輩…)
希良凜は、勇ましいティンパニの音に心底震えた。当初の瑠璃とは、音質自体が全く違う。
『…瑠璃先輩って、ティンパニ壊したらしいよ。笑顔で』
『…え?』
先輩の芽吹に言われた言葉。それがずっと耳に、こびり付いていた。
ただ子供みたいな先輩に、本当に従って良かったのだろうか?そんなんで本当に、弟に競り勝つことができるのか?
でも…実際は違った。
彼女はわざとらしく子供らしく、振る舞っていただけだった。自分が傷つかない為に。
それに気付いた時、瑠璃を見る目が変わった。
ただうるさい音を鳴らす先輩から、自分の不条理な未来に抗う先輩へと。
後輩の希良凜でさえ、瑠璃の成長は手に取るように分かった。
その真実に、希良凜にもなぜか涙が溢れた。
全員の本気の演奏と、瑠璃の成長を目の当たりにしたから…だろうか?
今の古叢井瑠璃の演奏。それは他の強豪校の演奏以上のものだ。個性と優しさ、そして表現力を兼ね備えた演奏を、卑下する人間は、この場に1人もいなかった。
そして…ついに最後の一音。それが響きわたると、今までにないくらいの、けたたましい拍手が奏者全員に向けられる。
スネアドラムのスティックを握った希良凜と、ベルのハンマーを持った秀麟も、表情はぐちゃぐちゃだった。
「…さ」
笠松が目元を赤くさせながら、手のひらを右に出す。
『ただいまの演奏は茂華中学校でした』
次の団体が迫る。
何だか、去年の地区・県コンクールみたいだ。
楽器を完全にトラックへ出した打楽器パート3人。
「うぇえええん…!」
瑠璃は耐えきれずに泣き出す。すると希良凜と秀麟も嗚咽を上げる。
「頑張ったね…」
そして中北も泣きながらそう言う。
今、この場に泣いていない人間はいなかった。
「…頑張ったね!」
「うぅ…ん!」
中北の言葉に、瑠璃は涙を流しながら頷いた。
「先輩、本当に良かったですッ!」
秀麟も泣きながら、彼女の演奏を評価していた。
「…ありがとう」
瑠璃は嬉しそうに笑った。細い指で涙を吹いて見せたその顔は、今までで1番綺麗だった。
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