99話 浮かび上がる面影
夏休み下旬の練習終わり。
現部長である明作茉莉沙は御浦市のホールに来ていた。
「まぁーりさ♪」
久々に御浦市民ホールに来た茉莉沙を待っていたのは、可愛らしい少女だった。
「野々村さん、久しぶりですね」
「改まっちゃってつまんなーい」
少女の名前は野々村葉菜。世界レベルのホルン奏者だが、実は優月と同い年だ。
「トロンボーン持ってきた?」
「持ってきました」
「…じゃあ、行こっかぁ♪」
実は茉莉沙を呼んだのは葉菜だった。
「最近は本番とかないの?」
「ない!来年からフランス行くかもしれない」
「すごいですね」
そんな彼女は不定期的に世界を回っているほどだ。
「んもー、茉莉沙の方が年上なのに。つれないなぁ」
葉菜はそう言って不満そうだ。
「じゃあ、チューニングの音、Bから」
「うん」
茉莉沙のトロンボーンのベルからは、優しい音が流れるように飛び出す。
「茉莉沙、ちゃんと楽器の手入れしてるんだね。偉い!」
すると彼女がまず評価したことはこれだった。
茉莉沙は元打楽器奏者ながら、トロンボーン技術は神域に達していると言っても過言ではない。だと言うのに、一瞬で楽器を手入れしてるかどうかを見抜いたのだ。
「…あ、ありがとうございます」
「はい!もう敬語禁止!」
「うん…」
(…今のちょっとした音だけで、それが分かるのか)
茉莉沙は、他の楽器の調子まで知り尽くしている葉菜が少し怖いと思った。
「…じゃあ、やってみたい曲とかある?」
「え?」
「ほら、近い本番とかで吹く曲」
「ああ、じゃあ、恋で」
「あー、これはね、」
その後も茉莉沙と葉菜は、練習したい曲の音階を吹き続けた。
「んー、つまんなぁい」
ある程度と言っても1時間半ほど吹いていると、葉菜がそう言った。
「え、なにが?」
「だって、茉莉沙、殆ど完璧なんだもん」
「え…」
「私に教えてって言う子は大体、音量や調号、音程、酷いときには基礎まで出来てないんだから」
「そうなんだ」
「あ、そういえば、野村中学校だっけ?港井君が通ってるとこ?」
その時、彼女は冬樹の話しをした。
港井冬樹。この楽団でトロンボーンを吹いているが、実力は楽団内でも1、2を争う実力者だ。
「そうだね」
茉莉沙も冬樹のことを鮮明に覚えている。
「今もラブラブなの?」
葉菜がそう触れた瞬間、茉莉沙はびくりと震える。
「そ、それは…」
「それは?」
「…分かんない」
「分かんないんかーい」
葉菜は残念そうに首を上げる。
「そうだ。市営コンクールで聴いたよ。ラストリモートのアレンジ曲」
「え、」
茉莉沙が曲名を伝える前に、彼女はホルンを吹く。柔らかそうな唇と頰が柔らかな音と寂しげなメロディーを音を作り出す。
「…すご」
そんな彼女は原曲を一瞬で吹き始めたのだ。所々、抜けたりアレンジされているのは、きっと耳コピをしているからだろう。
どう見ても素人の無せる業ではない。
あの茉莉沙が彼女との大きな差を悟るまでに葉菜は凄かった。
「…え、こう?」
「え、多分」
「茉莉沙、原曲とか聴いてないの?」
「うん、聴いてない」
茉莉沙は『月に叢雲華に風』の原曲を聴いていない。アレンジ曲を演奏したのだから当然、原曲に触れるわけもなかった。
「でも、本当に良かったよ」
葉菜は普通に褒める。
「もしかしたら東高は、コンクール曲よりポップスの方がいいのかもしれないね」
「私も思った」
茉莉沙も小さく笑う。2人分の笑い声が、小さな練習室に響いた。
そうしてまた1時間ほど吹いていると、再び葉菜が彼女に話しかける。
「そうだ!茉莉沙、まだ打楽器できる?」
その言葉に驚いた茉莉沙は、トロンボーンを胸元へ下げる。
「…え?」
「だから、まだ打楽器できるかなーって」
「できる…と思いますよ」
「じゃあ、やらない?今なら沢柳いないよ」
「…何で知ってるの?」
なぜか葉菜は、彼女が沢柳のことを苦手としているのを知っているのか。
「なんで?って阿櫻先生から聞いたからだよ」
「そ、そうなんだ…」
茉莉沙は苦い顔を見せずに葉菜を凝視した。
「てか、あいつバイトでしょ?なんで野村市に住んでるのに、東藤のコンビニで働いてるんだろう?」
茉莉沙の苦い視線にも、気づいていない葉菜はそのままの疑問を口にした。
彼女の言う通り、沢柳律はレジ打ちの仕事をしていた。
「…くしゅん!」
沢柳は辺りの商品棚を見ていた。
その時。
「お願いしまーす」
誰かが商品を渡してきた。
「…はーい。あ、小倉だ」
その客は優月だった。彼はさっきまで井土と居残り練習をしていて、今はその帰り道だ。
「沢柳…くん。久し振りだね」
最後に会ったのは、半年前だったか?それ以降は沢柳の働いている時間帯でコンビニには行っていない。
「君、もしかして部活帰り?」
「そうだよ。沢柳君は夏休みなのにバイトなんだ。お疲れ様」
「さーんきゅ、じゃない、ありがとうございましたー」
すると優月は忽然と姿を消す。しかし10秒もしないうちに何かを持って戻ってきた。
「…これもお願いします」
「110円です」
優月は残った小銭を引っ張り出す。
「袋は付けますか?」
「いらないです」
首を落とした沢柳へ、優月は小さな声で言う。
「…これ、食べて。じゃあ、練習頑張ってね」
最後に声援を残し彼は店から消えた。
「…うお。アイスもらっちゃった」
沢柳は少し嬉しそうに袋を握る。あとで溶けないうちに食べようと思った。
「いいとこあるじゃん。メイ先輩の後輩ちゃん」
一方、御浦市のホール。
「わぁ!すごーい」
早打ちをしたマリンバを前に、葉菜と鈴木燐火の褒める声が響きわたる。
「…そんなことないよ」
「でも、少しミスってたね」
「現役じゃないから…」
茉莉沙は少し恥ずかしそうに笑った。鍵盤楽器を触ること自体、久しぶりな気がする。
するとオーボエ奏者の鈴木燐火がこう言った。
「でも、鍵盤は怜奈と冬深がうまかったよな」
「…」
その名前に茉莉沙の目が見開かれる。
「…あ、ごめん」
当時の感覚を思い出させたと、燐火は思わず謝罪の言葉を投げる。
「いや、冬深って誰?」
しかし茉莉沙は問いを投げ返した。
「クラも吹いてた相馬冬深ちゃんだよ。覚えてないの?」
「ごめん。あの時は自分のことで、他の人のこととかは覚えてなかった」
「あー、冬深は神平町に住んでる子だよ。中1で辞めたから、茉莉沙と同じ年に辞めたんだっけ」
「…そうなんだ」
そういえば、自分のように、クラリネットの他にも鍵盤や太鼓類を粛々と演奏する人がいたな、と思い出した。
「じゃあ、茉莉沙、次はドラムやってー」
「えぇ…」
しかし、完全に思い出し切る間もなく、葉菜は再び茉莉沙に無茶振りをかましてきた。
「メイちゃん、今でもドラムできるの?」
「…高校行ってからも、少し叩いてるからね」
茉莉沙はそう言って見慣れたドラムセットへ手を掛ける。
「そうなんだ」
葉菜は意外そうに言う。ちなみに燐火は何度かそれを見ている。
「最後に茉莉沙の演奏聴いたのいつだっけ?」
葉菜が遡るように考え込む。
「…定期演奏会前には、オーストリア行ってたから、全国コンクールまでじゃないかな?」
その時、燐火がこう言った。
「そうだね!茉莉沙ったら3年生になったら、急に化けちゃったからビックリした!」
「…あははは」
茉莉沙は苦情した。
そう、茉莉沙は中学3年生に上がるまでは、落ちこぼれと言われても過言ではないほどの存在だった。阿櫻は先見の明で、彼女の才能を見抜いていたようだが、才能開花する前は本人さえも恨むほど実力不足であった。
「それで、思いっきりいっていいですか?」
適当にリズムを刻む予定の茉莉沙はそう訊ねる。
「大丈夫だよ」
燐火が答えると、瑠璃は近くに転がっていたスティックを手にした。
「分かりました」
そして彼女はスティックを一閃させるように振る。次の瞬間、シンバルの金切り音がホールへ弾けた。
普段は大人しい彼女も、打楽器のことになると性質が変わる。集中力が深くなる度、表情は狂気じみた笑顔に変わり、演奏は激しくても正確に刻まれる。
未熟な頃は何度も注意された場所だが、トップ奏者になってからは何度も楽しいと思った場所。そんな複雑な所だ。
「茉莉沙の表情が変わるのは変わらないね」
「それが沢柳を超えるんだから仕方ない」
天下のウラ奏者と呼ばれるふたりも、彼女には強い興味を持っている。
「…でも、本当に良かった」
そして燐火はこう言った。
「努力が報われたみたいで、本当に…」
実は茉莉沙はトップ奏者になっても、御浦ジュニアブラスバンドの事は大嫌いだった。ただ楽器が好きなだけだった。
茉莉沙は厳しい指導や沢柳のパワハラにも耐えきれずに、自分を傷付けた。それだからこの楽団を嫌うのも当然だ。
「…っ!」
茉莉沙はシンバルが指を掠めようと叩き続けた。
ここへ来ると、本当に過去を思い出す。
自分を失い、自分をただ傷付けたあの日々を。でも茉莉沙は誰も恨まず、ただ自分ひとりを責め続けた。精神科に行ってようやく自分がおかしいのだと気が付いた。
それでも辞めたくなかった。楽器を続けたい。今までの苦悩を全てひっくり返してやりたい。そう努力したのだから。
その結果、沢柳以上のトップ奏者、そして一緒にいたい友達だってできた。
だが、楽団は大嫌いだ。
もう強豪にはいたくない。楽しくやるのが吹奏楽。茉莉沙はそう思い続けるうちに、御浦楽団の記憶を消そうと思い始めた。
ウラ奏者である音乃葉や燐火も忘れようとした。だから知らないフリを何度もした。
…だと言うのに、友達全員が気に掛けてくれた。こうして引退後も、練習へ誘ってくれる。茉莉沙はそれが幸せだということに気が付いた。
「…まりさぁー、やっぱり上手いね。流石沢柳以上!」
「…今はどうだかな?」
そんな2人を見て、茉莉沙は小さく笑った。
夕方、ようやく茉莉沙は家に帰ることができた。
「ただいま」
茉莉沙はひとりっ子だ。だから誰かと遊んだりなどをすることはない。
トロンボーンケースを自室に置くと、ひとつの写真立てに手を掛ける。
それは、御浦楽団にいた時の定期演奏会後の写真。
沢柳律と佐野怜奈、茉莉沙の横にいる大人びた見た目をした少女。彼女は小さなクラリネットとドラムスティックを持っていた。
「この子…」
そこで茉莉沙はようやく冬深という少女に気が付いた。ひとりだけ小学生だというのに、彼女の身長は当時の茉莉沙とそう変わらない。
「…この子が冬深ちゃん」
落ち着いた表情をしていた少女の姿が、記憶の海にうっすらと浮かぶ。しかし波が全てを飲み込むかのように、姿は記憶の海から消えた。
「…そっか」
茉莉沙はトロンボーンケースを開けて、トロンボーンを磨き始めた。
学校の所有物だが、部長を引退するその日まで、茉莉沙は大切に使おうと心に決めた。
 




