94話 瑠璃の記憶
少しの沈黙のあと、波が揺らぐようにクラリネットの音が響く。その音は穏やかで落ち着いていた。そこからフルートたちの音が展開される。
トランペットの軽やかな音に乗るティンパニの音。綺麗な音は残響にもムラがない。するとタンバリンの複雑かつ軽やかなリズムが響く。ティンパニが弾けるように響くと同時、更に音楽は陽気さを増す。しかし徐々に音は穏やかさを取り戻す。クラリネットやオーボエの音がゆるりと辺りに甘い響きをもたらす。するとオーボエの甘く柔らかい音がホール内を突き抜ける。
曲の前半が終わろうとした所で、笠松の隣にいた指導者は手を止めた。
「はい、ありがとうございます」
尾瀬川慎太郎。この日のために呼んだ外部指導者だった。木管と打楽器を専門にしている彼は、去年にも強化練習に呼ばれた。その時も手厳しい指導と結果をもたらした。
「…オーボエ、久城さんでしたね?」
「はい」
久城美心乃。彼女はオーボエ担当だ。
「ハッキリ言って、ソロの部分が少し甘いですね。あ、音色じゃないですよ」
彼は真剣に言った、と思い込んでいる部員は誰も笑わなかった。
「ふぅー、真面目ですね」
すると彼は楽譜を見て、美心乃の双眸を見つめる。美心乃は今にも指示を待っている。
「…ソロの前半、ここはとても重要です。前半で詰めが甘くなると後半が失速しやすくなります」
尾瀬川の瞳が少し鋭くなる。
「そうなると、評価に響いてしまいます。ソロは前半勝負です」
「はい」
美心乃の返事に尾瀬川は小さく頷いた。恐らく美心乃はこのあと特別レッスンを課せられるだろう。
「あとは、フルート、そしてパーカッション。まずはパーカッションから。寝てませんよね?」
秀麟はまじまじと彼を見る。寝てないですよアピールだ。
「ふふっ」
「尾瀬川先生、厳し〜」
そんな光景に瑠璃と希良凛は、苦笑気味に感想を残す。
「…タムタムもですが、タンバリン!やはりタンバリンのリズムもかなり見られます。指原さん」
「はい!」
希良凛が体育座りから立ち上がる。
「ええ、タンバリンのリズムに少し空間があります。分かりますか?たぁんたん、っていう所が指原さんは、たぁん、たん、ってなってます」
瑠璃は冷や汗を流す彼女を見て、心のなかで苦笑を溢す。
確かに希良凛のタンバリンの技術はまだまだだ。中学生にしては上手いのだが、演奏技術とそれは別だ。リズムが得意な彼女は厳しい指導をされながら克服していった。
「では、次はフルートです」
集中指導から解放された希良凛はヘナヘナと座り込む。
「尾瀬川先生、厳し過ぎるよぉ…」
「瑠璃も思ったぁ」
彼女たちの視線の先にあるフルートパート。部員は彼の手厳しい指導に必死に食らいついていた。
「ここの伸ばす部分ですが、鈴衛さんに合わせてください。指回りのせいか、僅かにズレてます。指回りとタイミングをしっかりして下さい」
やはり木管のプロだからか、彼は笠松にさえ気付かれなかった僅かな欠点をも見抜く。
「…では、続き行きましょう」
すると部員たちは一斉に楽器を構える。次の瞬間、陽気なリズムとメロディーがホール内へ響き渡った。
「…はい、ストップ!」
すると尾瀬川は再び希良凛の方を見る。
「シンバルの止め方に少し雑味があります」
クラッシュシンバルを持つ希良凛はビクリと体を震わせる。
「響かせるように止めるのではなく、しっかりと止めてください。雑な所で止めても減点にしかなりません」
「はい」
希良凛は顔を引きつらせながらも頷いた。
「あと古叢井さん、音が小さいです。管楽器に埋もれて聴こえます」
「…ッはい」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした瑠璃は、マレットの方見る。ティンパニの打面にマレットを置くのはタブーなので、小物台の上にぽつりと転がっている。
「…こうなれば思い切り叩いてください。大き過ぎるのももちろんいけませんが、小さ過ぎてもティンパニの良さが伝わらないので」
「はい」
その時、彼女の瞳がぷるぷると震える。
思い切り叩くのが怖い。
さっきの夢が現実になりそうで…。
瑠璃は生まれつきの『アドレナリン過多体質』らしく、一瞬で血流を上げることができ、一発の破壊力がかなり上がるのだ。
その力を駆使して、低学年ながらも、和太鼓の能力は無双の域だった。
そのせいか入部した直後に、ティンパニの皮を破ってしまったあの光景が脳内へ飛び込んだ。
『ギュッとしてどーんってしただけなのに…』
そのあとは、鍵盤楽器しかできなくなった。思い切り叩いたら楽器は壊れる。分かっていたはずなのに何故か思い切り叩いてしまった。制御できなかった。
コントロール出来なければ、また壊しちゃうかもしれない…。
それだけを考えていると、いつの間にか部活は終わっていた。
『せーんぱぁい』
「あ、」
気付くと食堂にいた。目の前にはデミグラスソースがたっぷり塗られたハンバーグがあった。
「…大丈夫ですか?練習の時も途中から寝そうになってましたよ」
秀麟が心配そうにこちらを見る。
「…大丈夫だよ」
と言いつつ彼女は顔を引きつらせた。
「午後はポプ吹の練習をするらしいです」
「あ、うん!」
すると希良凛も心配するように手を振る。
「…先輩、ちゃんと寝ました?」
「ね、寝たよ寝た」
「なら良いんですが。すごく疲れてるように見えたので」
「だ、大丈夫だよ」
すると希良凛は茶髪の髪を下ろす。その普段はあまり見ない姿に、秀麟のみならず瑠璃までもが見入ってしまう。かわいい、と秀麟が小さな声で言った。
「あー、もうタンバリンのリズムが難しいですよ!小学校では皮付きタンバリンしかやってなかったので」
「え、そうなんですか?」
すると瑠璃が小さく笑う。
「さっちゃん、ドラムも最初はできなかったもんね」
「はい、瑠璃先輩と優愛先輩のお陰でやっと…」
「は、はぁ」
そうなのだ。
希良凛が本格的にドラムを練習し始めたのも、瑠璃から教わったことが始まりだ。
「…4時まで練習はキツイなぁ」
希良凛はそう言いながら髪を束ねる。珍しく彼女は愚痴ばかりを溢していた。
そんな彼女を見かねてか、秀麟は話しを変える。
「…そういえば、合宿所の近くに湖がありましたよね?」
「え、うん」
「あそこには行くんでしょうか?」
それには瑠璃が答えた。
「私の時は、湖の砂浜で花火やったよ。もちろん許可が出ている場所でね」
「そうなんですか!」
そんな楽しい話しをしていると、午後の練習に入った。
打楽器パートはずっと大ホールだ。木管は第二ホール、金管は小ホールでの練習になった。
「…最初を意識、もう一度」
美心乃はオーボエのソロを重点的に練習する。さきほどより満足な演奏ができている。
「練習こそ至高の底上げよ」
「は、はい」
フルートも音織を中心に指回りの練習をしていた。尾瀬川から言われた課題を少しずつこなす。
やがて、課題曲と自由曲から、聴こえる曲は『千本桜』へと変わった。
希良凛のドラム練習を見守る中、瑠璃はあることを考えていた。
尾瀬川から注意されたあの言葉。
『この程度で強めなら思い切り叩いてください』
無理だ、と瑠璃は思う。恐らく思い切り叩けば絶対に壊してしまう。それでいて、強く叩くことが怖い。
どうすれば良いんだろう?と瑠璃はティンパニに問いかける。
当然、答えなんてものは返ってこなかった。
ふつふつと湧き上がる疑問に答えられないまま、午後の合奏が始まった。




