87話 瑠璃との再会
古叢井家は11時にはパーキングエリアにいた。フードコートで食事を取った樂良は満足げに階段を下りる。
「あー、担々麺美味しかったぁ!」
「よかったね」
瑠璃も満足げに笑う。
「あれ、パパは?」
「先に車に戻ってるみたいだよ」
「あ、そっかー」
小麦と母は売店を見ている。先に戻っておいて、と言われた瑠璃と樂良は先に戻ることになったのだ。
「…DVDの準備してるみたいだから早く戻ろっか」
「うん!」
瑠璃は大好きな妹を見て小さく笑った。やはりどこか冷静な小麦よりも樂良の方が好きだ。
それから1時間ほど車を走らせると、目的地へと到着した。世界のガラス街。ここは宝石やガラス品が展示販売されている場所だ。
「…わぁ、うしろに大っきな山ぁ」
「あれ、磐梯山っていうんだって」
興奮する樂良に小麦が冷静に解説した。樂良が福島に来ること自体初めてなので知らない事の方が多い。
瑠璃が駐車場に降りた時だった。
「…あ!」
楽器の運搬をする大群がいた。黒いブレザーに真っ赤なネクタイ。体格の良い美男美女は中学生離れしていた。
瑠璃はその大衆を食い入るように見る。
「…あれは」
愛宕岩中学校吹奏楽部。瑠璃の父の言葉を思い出す。
すると、
「少し友達に会ってくるからここで待ってて」
と残し父は何処かへ行った。
ひとりになった瑠璃は愛宕岩中学校吹奏楽部の真骨頂を目の当たりにするのだった。
ガラス街にある煉瓦造りの建物の中には、大きなガラスの壺が待ち受けていた。それは光に当たり煌めきを放つ。
「樂良、走んないでよ」
「うん!」
あまりの物珍しさに、樂良は興奮が止まらない。
「…あれ、お姉ちゃんは?」
「吹部見てるんじゃない」
小麦はそう言って小さくため息を吐いた。
いつからだろう。瑠璃のことが苦手になり始めたのは。
そんなことを考えていると、外からトランペットのけたたましい音が鳴り響いた。
「…あ、始まったぁ」
「樂良も瑠璃のとこ行くの?」
「ううん。ここにいる」
「じゃあ、指輪のとこ見に行こうか」
「うん!」
そんな樂良と小麦はアクセサリーたちを見に行くことにした。
そんなことも知らず、瑠璃は食い入るようにチューニングを見ていた。素人なら興味ないものだが、強豪校でかつ、チューニングにも力を入れている彼女には見逃せるものではなかった。
音は優しく力強く、まるで生き物のようにベルから飛び出す。そこへティンパニの音が絡み合う。しかし音は不思議とごちゃごちゃせず、ただ楽器ごとに分離されていた。それは楽器の良い所が最大限に活かされている故のものだった。
「…音が綺麗」
力でもない、手加減でもない。その心地よい音の境地を目の前にいる彼らは理解している。
流石だなあ、と瑠璃は思う。凪咲たちがベタ褒めするだけのある実力に今、目の前に立ち会っている。その感覚が何とも言えない感動を呼び覚ましていた。
「…楽しみ」
自然と瑠璃からは感嘆の声が漏れていた。チューニングだけでも全く違う。茂華中にはきっと真似できない。瑠璃はこの時点で目の前との実力差を思い知った。
ティンパニのぼん!という音が跳ね上がる。それは手首の扱いの中に力業が含まれていた。体格の小さな女の子だというのに、音量や迫力は明らかに瑠璃よりも上だった。
その時、瑠璃の脳裏に笠松の言葉が甦る。
『…もう少し力を入れて、細かいリズムを刻めるようになってくださいね』
それは己には厳しい言葉。
「…すごいなぁ」
羨ましい。どうして躊躇いなくあの爆音が鳴らせるのだろう?
彼女は疑問を自らにぶつけながら、ただ目の前の基礎合奏を見守る。
その時、優月たちはようやくガラス街に到着していた。
「…すごい」
様々な吹奏楽の演奏を見てきた優月も、愛宕岩中学校の演奏は見逃せなかった。小さな身体をひょいひょいと捻り、打楽器の見える最前列へと向かった。
間もなく演奏が始まるだろう、と優月はごくりと生唾を呑み込んだ。佇まいで分かる圧倒的な猛者感。まるで世間から期待されている映画が始まるかのような感覚。
(すげぇ)
打楽器の数だって、普通の学校とは違う。
6台のティンパニ、タムタムが多めに取り付けられたドラムセット、数台の和太鼓、グロッケンやビブラフォンなどの鍵盤楽器。全てを扱い切れること自体、きっと容易ではない。それはパーカッションパートで活躍している優月は痛いくらいに分かっていた。
全国で1番と揶揄されるほどの演奏が今、目の前から飛び出す。その先の見えぬ興奮は吹奏楽にのめり込み始めた彼にとって、簡単に収まるものではなかった。
間もなくしてサクスフォンを胸に提げた少女がマイクを手にする。
『世界のガラス街の演奏会にお越しいただきありがとうございます!』
その少女はとても可愛らしかった。
『それでは2曲続けてどうぞ』
次の瞬間、辺りに静寂が包み込まれる。
ティンパニの音がほとばしる。落雷のような響きが空気をびりびりと震わせる。
刹那、木管楽器の柔らかい音が響き渡る。そこへ流水のように流れ込むウィンドチャイム。徐々にメロディーは重なる。しかし依然として音は柔らかいままだ。だというのに、ひとつひとつ音の粒が揺らぐことはない。そこへグロッケンの音。ひとつひとつが正確に打ち込まれている。ティンパニのロールから徐々に曲調は変わる。勇ましい音へと展開されると、様々な打楽器が展開される。拍子木の音が辺りへ響き渡る。外だというのに音は風を突き抜ける。
和太鼓の淵を打つ音、鐘が鳴り響く音、それぞれが複雑に絡み合ったかと思うと、曲調はテンポ良くリズムを刻む。
和太鼓の音はとても優しかった。こんな音を出すことさえ至難な業に違いない。クラッシュシンバルがぱしん!と響くと、太鼓の連打が始まる。
安定というだけでは物足りないほどに順調な演奏。どん!どん!どん!どん!と太鼓のリズムが響きわたると、クラリネットやオーボエのメロディーが辺りを包む。
ビブラフォンの優しい音とウィンドチャイムが川のせせらぎのように耳へ飛び込む。管楽器は残響を残したまま、クライマックスへと突入する。
誰かの精神を称賛するかのような勇ましくも優しさに満ちた音楽。和太鼓の音が更に迫力と勇ましさを増進させる。
トランペットの音が高らかに鳴り響く。シンバルの音が放たれると、曲を刻む速度は更に上がる。
もう終わりなのか?優月は少し疑った。次の展開を予測させないその技術は容易ではない。
ぱん!ぱん!と管楽器の音が響くと同時、シンバルと和太鼓の音が更に大きくなる。
額に汗がにじむほどの大音量。全身全霊で打つそのリズムは優月の心を震わせる。
刹那、風船が破裂するようにぱん!と音が鳴る。そのあとは静寂の世界へ暗転する。
拍手が一瞬遅れてしまうほどの迫力。拍手をしようと思うと同時に、周りからは盛大な拍手が鳴り響いた。
外だというのに、残響さえもよく聴こえる。
あの御浦ジュニアブラスバンドクラブや他の高校以上の演奏だ。ひとりひとりが絶対的な自信と技術を保持しているからこその演奏だった。
すると再び奏者たちが楽器を構えた。数秒もしないうちに、再び静寂の外へ落とされる。
トランペットを始めた音たちが点滅するように響く。するとマリンバの複雑なリズムがドンピシャのタイミングで入る。不穏な雰囲気を漂わせる先の予測できない音。ずっと聴いていられそうだ、と思っていると和太鼓の音がその心情を遮る。締太鼓と拍子木の音が交互に響く。締太鼓の連打には力がこもっていた。ただまるで曲を完全理解しているかのような場にそぐわった音楽。気がつけば、複雑なパッセージたちを超えていた。クラリネットやオーボエの音。そこへ銅鑼の音が入る。
和太鼓のリズムと銅鑼の音が、お腹の底を震わせる。サックスの音に合わさり更に音楽は激しさを増す。再び祭囃子のように拍子木と太鼓の音が鳴り響く。複雑な管楽器の音も焦ることなくすいすいと進む。
トランペットが跳ねる音に合わせて、和太鼓の低い音が落ち着きを感じさせる。ベルから鳴り響いた音に隙はない。木管の優しいメロディーからの残響に、グロッケンの音が転がるように入る。クラリネットやオーボエの音はどこまでも優しく、楽器の難易度を下げかねないくらいの安定した音だった。オーボエだけでも、むつみ以上の実力は確約されている。これ以上比べることが怖かった。
音がみるみるうちに膨らむ。頂点に達した所でクラッシュシンバルがぱしぃん!と響きわたる。すると和太鼓のリズムを追従するように管楽器が追いかける。どちらも応援したくなる、と思うほどの完璧な音の追いかけっこ。いよいよクライマックスだということを銅鑼が伝える。トランペットやサックスの響きを受け継ぐように和太鼓の音が転がる。皮と淵の打ち分けが完璧だ。そのまま一瞬のうちに音が途切れる。サスペンドシンバルの残響の直後、すぐに部長らしき少女が前へ立つ。疲れた様子ひとつ見せないサックスの彼女は満足そうにこちらを見た。
『ありがとうございました!』
すると割れんばかりの拍手が鳴る。
外だというのに響きさえも完全に聴こえた。外というのは壁が無いので聴こえにくい。だが、ホール以上の響きを、見せる目の前の学生は本当に凄い。
「…本当に中学生なのか…」
胃の中がムカムカする。悔しい。とても自分じゃ到達できないと感じたからだ。
旅行に来たというのに、まるでコンクールに来たかのような感覚になった。
すると部長が曲の解説を始める。
『さて、今の曲は私たち愛宕岩中学校が、コンクールで演奏する2曲『白虎繚乱〜なれし御城に残す月影〜』そして『華の伽羅奢〜花も花なれ人も人なれ〜』でした』
すると彼女が曲の概要を話し始める。
『まず自由曲の白虎繚乱は、会津の剣士団、白虎隊の勇敢な精神を称えた曲です。ここ福島にぴったりの曲です。続いて華の伽羅奢です。伽羅奢とは戦国時代に明智光秀の娘、そして細川忠興の妻として壮絶な人生を送った細川珠の洗礼名と言われています。そして…』
解説に耳を傾けた優月だが、その時誰かが目に入る。
「!?」
建物の入り口付近で打楽器へ熱烈な視線を向ける幼女。優月はその幼女に見覚えがあった。
(あの子…!?どこかで…)
しかしどこで会ったかまでは覚えていなかった。
その時、シンバルの音が鳴り響く。さっきとは質の違うサスペンドシンバル。優月が音の方向を向くと、ドラムセットの音が鳴り響いた。
『それでは、「謎」、いってみましょう!』
さっきとは違う音が跳ねる。陽気な明るいポップス向きの曲。
『謎』は小松未歩が歌うアニメの有名曲だ。
(ここでコナンの曲やるんか)
最新の曲しか聴かない優月でも、この曲はよく知っている。世代もあるがあまりにも魅力的という点が人気の秘密なのだろう。
ドラムのハイハットが大きく揺れる。安定しきったリズム力が少し羨ましい。トランペットのベルからはメロディーが飛び出す。綺麗なソロはあっという間に終わってしまった。
フルートの旋律に乗っかるようにサックスの音が響く。ミスや欠落的な穴を見せるわけもなく吹き切る。タンバリンもひとつひとつが、細かくリズムを刻む。技術なら優月でも出来るがここまで正確に打てるかと言われたら困ってしまう。
マレットでサスペンドシンバルを打つと、更にトランペットが旋律を奏でる。サビが盛り上がると手拍子の音も更に高まる。最後の1小節、グロッケンが一糸乱れぬタイミングで早打ちが起こる。それからも音の嵐は止まない。東藤高校どころか、茂華中とは根本から違うと気付かされる演奏だった。
一方、瑠璃たち。
音がピタリと止むと、樂良が「すご~い」と褒め称える。
「茂華中よりうまいね!」
無邪気にこう褒める妹に瑠璃は「だね」と悔しそうに言う。
コンクール曲でも、ポップスでも、観客に感動を伝えることができる。
茂華中学校も、あれくらいのレベルにならなければならないのか?
『白虎繚乱』は日光学園の比にならなかった。十八番なだけある。使う楽器すらも、奏法すらも大きく違っていた。
瑠璃自身もそこまで演奏できるか?そんな疑問をぶつけていると、ふと目に誰かが留まる。
「…あれ?」
見覚えある女の子がいる。
(実優ちゃん?)
小倉実優は優月の妹だ。同じ委員会でたまによく話している。
(人違いかな?でも、あの子がいるってことは…優月先輩も…)
その時、背後で聞き覚えのある声が聴こえた。
『愛宕岩、凄かったなぁ。もっと聴きたかった』
その声は優月のものだった。瑠璃は瞬時に振り返る。
「ゆづ…」
しかし彼の姿はなかった。
優月は建物の中に入っていたからだ。
「さて、想大君と咲慧ちゃんにお土産買うか…」
ガラス街の建物の中は、ガラスの骨董品だけではない。100カラットのダイヤモンドも数億円で売られていた。観賞用だな、と優月は無視しながら雑貨エリアへと歩いた。
それにしても、とスマホを見る。
咲慧からの連絡が遅いな、と思う。お菓子はチョコレートかクッキーどちらが良い?と連絡したのに返信してこない。
なんか寂しいなあ、という気持ちになった。咲慧のことが好きなのかは分からない。
ただ、優愛とゆなに似た所がある。優しくて怒ったら怖い。でも一緒にいると楽しくて安心する。自分は咲慧のことが好きなのか?という疑問はしばらく彼の頭の中で絶えることはなかった。
その頃、瑠璃は優月にメールしようとスマホを指で走らせていた。もしかしたら、彼も今、福島のここに来ているかもしれない。
送信しようとしたその時、樂良に全てを邪魔される。
「お姉ちゃん!小麦お姉ちゃんがね、誕生日プレゼントだって!」
樂良のきらきらとした瞳を見ると無視できない。すると小麦が手のひらに乗るほどの小さな紙袋を渡す。
「はい、指輪」
「え、ありがと。でも誕生日まだだよ。9月5日だよ」
「…いいから受け取って」
小麦が言うので「ありがと」と瑠璃は有り難く頂くことにした。
結局、その後は指輪を指にはめられて、優月にメールどころではなくなっていた。
その後、優月たちは十数分ほど車を走らせていると、和風の温泉旅館に到着した。2層の宿舎は10階まではありそうだ。
未だ、咲慧から連絡が来ない優月は、お土産どうしよう?と決めかねていた。もしかしたら今日は連絡が来ないかもしれない。ならば、吹部への差し入れと同じクッキーにでもしようと考えた。
そんなことを考えていると、車は駐車場に停っていた。
「あー、着いたあ!」
「実優は元気だな」
優月は呆れながら、リュックと荷物の入ったボストンバッグを手にする。
その後、優月と実優は手続きをロビーで待っていた。
「さっきの吹部、見てきたの?」
「見てきた。凄く上手かった。茂華より」
古巣よりうまい、それは不動の事実だった。
「まぁ、茂華が下手ってわけじゃ…」
「…副委員長」
その時、実優が言葉を遮る。
「え、」
優月は実優と同じ方を見る。するとリュックを持った…古叢井瑠璃が立っていた。
「え、なんで瑠璃ちゃんが…?」
優月は内心、驚きでいっぱいだった。
これから長い夜が始まる。
瑠璃もどうやら、面識あるふたりに気づいてしまったようだった。
ありがとうございました!




