43話 無想の悪魔
『お前、何してんだぁぁああ!?』
音楽室に瑠璃の怒号が響き渡る。目の前には、部長の矢野雄成と末次秀麟。
何故、地獄のような状況に陥ったのか?
市営コンクール2週間前。
「そろそろ本番だね」
瑠璃が言うと凪咲も頷いた。コンクールはもう目前だ。
演奏は…と言うと、去年よりもよく仕上がっている。しかし問題はまだまだある。しかしやはり大きな問題を挙げるとするならば、部長である矢野雄成のことだろう。彼は部長になった途端変貌した。後輩にさえ厳しくなり、他パートの演奏面にも口出しすることが多くなってきた。去年の部長、香坂白夜とは全く違う性格に部員は皆、気疲れしていた。
「はぁ、それより矢野だよ、矢野ー!」
「雄成のことか…。どうしょうね?」
「瑠璃も何とか言ってよー。瑠璃なら聞いてくれそうな予感がするんだよね」
「私?私じゃ無理だよ。ライオンの心臓を素手で取るくらい無理ゲーだって」
時々瑠璃はえげつない例え方をする。
「そんなこと言って、打楽器でも噂になってるんでしょ?」
「まぁ、秀麟君たちがよく愚痴を言ってるけど」
「そのうち、取り返しの付かないことになるかもしれないよ」
凪咲の表情は至って真面目だった。
「…例えば?」
瑠璃も彼女の表情を真似するように、真面目な顔をして、首を横に傾ける。そのツインテールが下向きへ揺れる。チョンと髪が空気に触れる。
「…引退するまで、矢野が誰とも話さない…とか」
「あーねぇ…」
瑠璃は、あり得る、と心の中で言う。確かに、皆はコンクールのプレッシャーがあるから、従うだけで恐らくコンクールが終われば、皆、彼を顕著に避け始めるだろう。それくらい彼の言動はキツイ。
「でも、そういう子って、私みたいに特殊な過去を潜ってそう…」
「過去?矢野が吹部繋がりで、揉めたことなんて見たこと無いんだけどなぁ」
「…聞いてみようかな?」
「いいんじゃない。でも瑠璃は優しいよね」
凪咲が言うと、瑠璃はにこりと可愛らしく笑う。
「それで楽器を触るのが楽しくなるなら、全然安いよ!」
その声からは、とても優しさが秘められていた。
そして音楽室に着く。
「あ、瑠璃姉ちゃん、こんにちは!」
話しかけてきたのは末次秀麟。1年生だ。
「こんにちは」
瑠璃は笑って返す。秀麟は小学校時代から吹奏楽で打楽器をやっていた。
「…先輩、少し教えてほしい所がありまして、タムタムの所なんですけれど…」
「あー、昨日言ってた所ね。分かったよ!」
瑠璃はそう言って、打楽器を運び出す。
しばらくして、指原希良凛が入ってくる。
「瑠璃先輩、こんにちゃー!」
希良凛の言葉に、瑠璃は「こんにちはぁ」と柔らかい声で笑い返した。
これで打楽器パートは全員が揃った。
「どう?リズム掴めた?」
瑠璃が秀麟に訊ねる。
「ありがとうございます。大分掴めました!」
すると瑠璃は「そう?良かった」と言って笑う。
「それにしても、この学校も鬼ですね。本番が近ければ、水曜日も部活があるなんて」
「コンクール近いから仕方ないよ」
瑠璃は仕方なさそうに笑う。
「ほーんと、水曜日くらいは家に帰って、ゆっくりしたいですよ」
希良凛が言う。
「弟いないし」
すると秀麟が、あ!と声を上げる。
「莉翔君ですよね!」
「あ、そうだよ!指原莉翔!!」
「あの人って、打楽器うまいんですか?」
その質問に、希良凛は顔を顰める。
「…まぁ、秀くんと同じくらいかな…」
「へぇ、そうなんですね」
秀麟はふむふむと頷いた。実を言えば、莉翔の実力差は、あの小倉優月と同じくらいかもしれないが、そこまでは言わない。
「じゃあ、相当うまいんですね」
しかし秀麟はそう言った。どうやら、自分はかなり上手いと思っているらしい。
「何してるんだ?」
その時、譜面台を取りに来た矢野が言う。雑談してないで練習しろ、と言いたげな様子だ。
「…あ、雄成だ」
「古叢井、何してるんだ?」
「えぇ?」
瑠璃は小さく首を傾ける。
「お話してるんだよ」
「…練習しろ」
その瞳は氷そのもの。いや、瞳の奥底には怨念らしきものを感じる。その瞳に怖がっているのか、希良凛と秀麟は楽器に隠れる。
「どうして…」
その時、彼女はそう言って、矢野に歩み寄る。
「…何でそんなに、皆を信頼しないの?」
「…してはいる」
「じゃあ、うるさいよ」
瑠璃は珍しく声を上げる。
「みんなが怖がってるよ。私が何も言わないと思った?」
熱くなった瑠璃は、そう言った。しかし、
「…思った。お前のような妖精っ子が」
と矢野は冷静に返す。
「…!?」
予想外の反応に彼女は仰け反る。
「…これからコンクールだけじゃないの。色んな演奏会、茂華祭だってあるの!なのにコンクールだけで、そんなにピリピリしないでよ。みんなとバラバラに、私みたいになっちゃうよ!」
瑠璃もかつて、部員とバラバラにかけ離れた過去がある。
「…古叢井の過去など知ったことか。それでも構わん」
「何があったの?去年までは…」
その時だった。
『古叢井さーん』
顧問の笠松の声が聞こえてきた。瑠璃は「練習しててね」と後輩2人に呼び掛け、音楽室を出ていった。
「先生、どうしました?」
「あの、古叢井さんは3年生でしょ?8月の最後に本番があるんだけれど、ダンスかドラム、どっちがやりたい?」
顧問の言葉に、瑠璃は首を回し考える。ダンスかぁ、でもドラムもやりたい…、その考えが彼女の足を止める。
その頃、音楽室を出ようとした矢野に、秀麟が話しかける。
「あの!瑠璃ね…先輩に言い過ぎだと思います!」
その声は、いつもとは違う、凄んでいた。
「…ちょっ!秀くん!」
希良凛が慌てて制止するが、もう遅かった。
「…末次、何を言ってるんだ?」
「えっ?」
反射的に秀麟が声を出す。
「鍵盤が多少ズレてる、笠松先生は何も言わないからって、バレないと思ったか?」
その言葉が、秀麟の胸に突き刺さる。
「…す、すみません」
秀麟はそう謝る。
「…甘い先輩を持つからだな」
すると矢野がそう吐き捨てる。その時だった。
「そうやって!瑠璃先輩を悪く決めつけないでください!!」
声が音楽室に反響する。大きく肩を上下へ揺らす秀麟に、矢野が眉を曲げる。
「事実だ」
そう言って矢野が、秀麟を見下ろす。秀麟はどうしても視線を外せない。怖い。
「…!」
「もう何も言うな」
その時…、
『お前、何してんだぁぁああ!?』
音楽室に瑠璃の怒号が響き渡る。
「ふざけんなよ」
瑠璃がそう吐くと、矢野は先程の勢いを失う。誰かと姿が重なる。
「あ?」
「私の後輩に何してるの?」
そう言って、瑠璃は右足を矢野の足へ踏みつける。ぎゅう、と痛々しい音。しかし矢野は眉一つ動かさない。
「…別に事実を」
「これ以上なにか言ったら、瑠璃、本当に怒るよ」
すると瑠璃の小さな手が、矢野の胸倉を掴む。
「あ、瑠璃先輩!?」
そこへ希良凛が飛び込む。しかし、それより早く、瑠璃は矢野へ顔を近付ける。
「…何だ?」
「自覚ないなら部長辞めたら?本当は分かってるでしょ?こんなことしても全国は夢物語だって」
そして、低い声で囁く。
「今までの過程はコンテニューできても、結果だけはコンテニューできないんだよ」
その言葉に、矢野は瑠璃を振り払う。
「…古叢井、末次、すまんな」
それだけ言って、矢野はトランペットのパート練習へ戻って行った。その足取りは行きよりも静かだった。
「瑠璃先輩…」
その時、希良凛が瑠璃の肩を引っ張る。
「あ、ごめん?」
瑠璃は何事もなかったかのように、彼女を見る。
「瑠璃先輩、怒ると怖いんですね」
希良凛は、瑠璃の怒った顔など見たことすらない。だから衝撃だった。
「…怒ったつもりは無いんだけどねぇ」
そう言って、彼女は猫のように笑った。
「瑠璃先輩、本当にごめんなさい」
秀麟が謝ると、瑠璃は「大丈夫だよ」と驚いたように言う。
「…じゃあ、練習再開しよっか」
「はい」
希良凛と秀麟が動き出すと、瑠璃は楽器とは別の方向を向く。
(雄成の目、やつれていた。私みたいに…)
先程、顔を近づけた時の違和感が、まだ眼に残る。
その頃。
(…お母さん)
矢野の脳裏に、ベッドに横たわる女性の姿が思い浮かぶ。
(絶対に…全国へ行くから)
その思いを胸に黄金のトランペットを手にした。
ありがとうございました!
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