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【小説】奇跡の古書店 零月堂


この作品は、note、エブリスタ、pixiv、アルファポリス、ツギクル、小説家になろう、ノベマ、ノベルアップ+、カクヨム、ノベリズム、魔法のiランド、ハーメルン、ノベルバ、ブログ、に掲載しています。


 雨に煙る街を、色とりどりの傘が花のように咲いて流れる。

 朝からポツポツと落ちている雨粒は、肩や足元を濡らして身体を冷やした。

 カフェで一息つくと、深煎りコーヒーを注文してから窓の外を眺めた。

 窓には不定形に広がった雫が、大小の島のように点在し、流れ星のように落ちていく。

 小さな点は、隣の点と合体して(ふく)れ上がり、自分の体重を支えきれなくなると線になって落ちていくのだ。

 そして、落ちていく雨粒が、他の雨粒を取り込んでいく。

 最期の時に誰かを巻き添えにして、自分自身を太らせながら残骸をまき散らす。

 通りにはまばらに人影があり、傘を差して足を前に蹴り上げて水を跳ねる。

 歩いていると後ろの方に汚れがつくのは、前に蹴りだした分だけ、後ろにも蹴り上げていて、(かかと)についた汚れが自分に向けて返ってくるからである。

 大きく手を振って元気よく歩いている若い女が通り過ぎた。

 さぞかし足元を汚したことだろう。

 人生が一本の線ならば、どんな歩き方をするかを自分で選び、その結果は随分先の方で自分にもたらされるのだ。

 商店街はまだシャッターを下ろしている店が目立ち、鮮やかな夢のある絵が描かれていたり、屋号のロゴマークをデカデカと書いて宣伝していたりと様々だ。

 もっと自分を見て欲しい、とでも言うかのようにアピールして、朝から心を揺さぶろうとしてくるのだが、うるさいサインばかりが目立つと、かえって何も目に入らなくなった。

「オリジナルブレンドです」

 カチャリとスプーンがわずかにズレて音を立てた。

 静かにジャズを聞きながら、ずっと外を見ていた能森 季一(のうもり きいち)の意識をテーブルに戻し、コーヒーの香ばしさがカフェにいることを思い出させた。

 何もせずに座っている自分が、コーヒーを飲んで何を考えているのか、店員は気に留めないのだろうか。

 カフェのマスターになって、客の人生にそっと寄り添い、雨粒のように産まれては消えていく時の流れを感じていたい。

 そんな詩的な夢を抱いたこともある。

 貧しくても充実した人生を、カフェは保証してくれるようにも見えた。

 商売は甘くはないし、きっと3年店を持たせるだけでも大変なのだろう。

 すべての森羅万象は、雨粒のように落ちていくものだから。


 まだ薄曇りだったが、窓の雨粒が徐々に小さくなって消えていった。

 水たまりは、鏡のように景色を逆さまにした。

 伝票を摘まんで銀のトレーに置くと、スマホでキャッシュレス決済のアプリを起動した。

 バーコードを読み込む音と共に、

「いつも、ありがとうございます」

 とレシートを受け取る耳に言葉を残して店員は奥へ戻って行った。

 ドアリンが頭の後ろで鳴る音よりも、鼓膜にこびりついたように離れない言葉だった。

 自分は「いつも」来ていたのか。

 店が空いている時間を狙って来ていたし、同じ席に何度も座っていた。

 気に留めていないなどと、虚無感を気取って雰囲気に流されていただけだった。

 充分に印象的な客だったのだ。

 ぼんやりと歩いていると、視界の端に色褪(いろあ)せた文庫本をぎっしりとつめたワゴンが貼り付いた。

 一度通り過ぎて立ち止まると(きびす)を返して本を物色し始めた。

 100円セールの本は、ほとんど資源ごみをそのまま持ってきたような有様である。

 紙の周囲が変色し、カバーの折り目が白く()れていたり、カバーすらない本もある。

 中身を確かめないと、文語体のものもありそうである。

 神経を集中して一冊ずつ確かめていると、掘り出し物は見つからなかった。

 天井まで隙間なく組まれた木製の本棚は、ところどころニスが()げかかっていた。

 その風合いが、本の年季によってそうさせたかのように調和して、年月を重ねるのも悪くはないな、などと思わせたのだった。

 まだ社会人になって間もない能森にとって、社会とは自由時間を奪うために存在する敵のように、興味とは正反対の義務を押し付けるものだった。

 だから尚更(なおさら)、古書店の時空を緩める感覚に()かれたのだろう。

 入口に白髪頭に白髪の髭を蓄えた老紳士が、熱心に読書をしている。

 こんな風に、本に囲まれ本を読んで、商売にもできたら良いな、などと思ってしまった。

 カフェでも思ったし、ラーメン屋でも思った気がする。

 要するに、現実からかけ離れた人生に憧れているのだ。

 一括(ひとくく)りにしてしまうと、途端につまらない願望に変わりノスタルジーが色を帯びて視界を鮮やかに変えた。


 目の前の本棚に意識を戻すと、年季が入った木造建築特有の臭いと、埃とも紙のものともつかない臭いが混ざり合い、古本屋という異様な空間に包まれていることに気付いた。

 入口には雨上がりの陽光が差していたが、店の奥までは届かず次第に薄暗い本棚に圧迫されていく。

 本の迷宮ともいうべき入り組んだ棚には、色褪せた背表紙をびっしりと並べて、題名と作家名を辛うじて判別できる本を見て視線が泳ぐ。

 文庫本が多いな、などと目で追っていると革表紙の洋書や和綴じの古書がところどころにアクセントを付けていることに気づいた。

 取ろうか、と出しかけた手を止めては、また手を伸ばす。

 古い本は手に吸い付くような温もりがあった。

 淡い光を頼りにページをめくる音が、静かな店内に響く。

 カウンターの老紳士は、先ほどと同じ姿勢で時折虫眼鏡を取り出してはページをめくっていた。

 まるで、古本の森の木々と一体になっているかのように(たたず)む姿は、時を止めたように静かだった。

 棚を眺めていると、視線を感じて奥の本棚に目をやった。

 大きな丸い目をしたトラネコが、こちらをじっと見つめていた。

 身じろぎもせず、堂々とした姿はまるで、この店の番人のようだった。

 ふと一冊の本に目を留め、手に取った。

 明治時代の小説らしく、著者の名前は聞いたことがなかった。

 ページの間に指を差し入れ、ゆっくりとめくると黄ばんだ紙の活版の潰れた漢字とかすれた平仮名の風合いが、過去にタイムスリップしたような感覚をもたらした。

 インクの香りが微かに残っているのは、あまり開かれたことがないからだろうか。

 自分の前に開いた人物が、あたかも目の前でこの本を読んで棚に収めたばかりなのではないか、あるいはその時代にタイムスリップしたのではないか、という奇妙な感覚に(おそ)われた。

 棚に戻した後も、手に残るずっしりとした重みとインクの残り香に、軽い眩暈(めまい)を感じ、時空を超越(ちょうえつ)した深淵(しんえん)に落ちそうになる身体を辛うじて支えていた。

 ふと、足元に視線を落とすと先ほどの猫がスルリと足元を(かす)めて入口の方へと出て行くところだった。

 猫が背中をうねる様に左右に揺らし、(ほこり)っぽい空気を()き分けたところに、ぼんやりと輝くようなベージュの革の背表紙を認めた。


 部屋のデスクには、読みかけの本が散らばりノート数冊とペンが数本転がっていた。

 紙袋を断り、むき出しのままカバンに詰めていた本を取り出すと、デスクの上を手で()き分けた。

 ほのかに輝きを放つ革の装丁は、物としての存在感がある。

 吸い付くような革を滑らせた指が、本の縁を離れた瞬間、ストンとデスクの天板に落ちた。

 金属を叩くような電子音が、一定間隔で鼓膜を打ち、(あわ)ててカバンに手を伸ばす。

 スマホの応答ボタンへ人差し指を伸ばすと、スピーカーボタンを押して視線を本に戻す。

「もしもし、季一 ───」

 くぐもった様な菅谷 愛緒依(すげのや あおい)の声だった。

 1年ほど前に飲み会で知り合い、時々ショッピングなどに出掛ける仲だった。

 何度かカフェで会ううちに、能森の方から、

「じゃあ、一応つき合ってるってことで」

 と恋人宣言をしていた。

 何の話をしていたのか、覚えてはいない。

 仲間内で、何となく2人はつき合っている、という話ができ上っていたからコンセンサスを取って置いたつもりだった。

 そんな(てい)だったから、()れた()れたと自分が認識する前に距離が縮まっていた。

 始めはきっと、女の子を誘ったらオーケーしてくれてラッキー、くらいの喜びで会っていたのだろう。

 次第に新鮮味がなくなってきて、近頃はSNSで話すだけで声も聴いていなかった。

「愛緒依 ───」

 重苦しいムードを感じ、継ぐ言葉が出てこない。

 沈黙が胃袋の辺りに重くのしかかった。

「私たちって、つき合ってるの」

 絞り出す言葉は疑問形で、能森は答えなくてはならなかった。

 瞬時に理解した。

 態度をはっきりさせろ、と突きつけられているのだ。

 誰か他の男が気になり始めたのかも知れない。

「ああ、前に一度確認しただろう」

 自分でもハッとするほど、冷たい言葉が口を突いた。

 また沈黙が身体を締め付けてきた。


 何か言葉を、継がなくては。

 腰のあたりまで、冷たい液体に浸された肉体が悲鳴を上げている。

 カーテンの隙間から、くっきりと模様まで見える満月が横顔を照らしている。

 だがその光は、強すぎる電灯にぼやけて、心を洗うような外の風景を見えなくしていた。

 そして、沈黙に耐えかねた能森は通話を切っていた。

 なぜこれほどまでに惨めな気分になるのか、理由を探そうと机の上を(あさ)った。

 SNSの記録を見る勇気がわかなかった。

 左手の平で机を叩こうとすると、革の質感に指先が触れる。

「この本はね ───

 きっと君を迷わせるだろう」

 たっぷりと溜めてから、吐き出すように店主が言った。

 ハタキにしては、短い棒を持っていた。

 その棒を一振りすると、まるでファンタジーの世界のようにボウッと淡い光が差して本に何かが吸い込まれていった。

 ニヤリとした白い口(ひげ)と、斜めに傾けた視線をこちらによこして、

「さあ、君の本だよ。

 お代はいらないが、気が済んだら返しに来て欲しい」

 まるで魔法使いのローブのような、鮮やかな緑のゆったりとした服も、キラキラと輝いていた。

「そうだ、一つだけ忠告しておこう。

 本に書かれた未来は、変えることができる。

 君がそれを望むならね」

 何とも不思議な話をするが、能森は疑う気にはならなかった。

 なぜなら、パラパラとめくってみると、幼い頃の記憶とピッタリ同じ話が、日記のように書かれていたからだ。

 手書きの、たどたどしい字で、時々走り書きのようになったり、書道の時間に学校で精一杯丁寧(ていねい)に書いた硬筆のようになったりしながら。

 ゆっくりとカバーを持ち上げ、本を広げた。

 古本屋の本棚から取り上げたときには、過去の記憶が書かれていたはずのページに、

「自分がずっと頼りにしていた心の()りどころは、成長と共に別の場所へ移っていた。

 社会人になって、責任を負い後輩の視線に(さら)された心は、いつの間にか無感動になり、新たな段階へと新しい扉を開こうとしているのだ」

 まさに、今の気分をぴったりと合う言葉だった。

「成長したのか、俺も、愛緒依も」

 明日、もう一度電話をして、彼女を自由にしてやろう。

 静かに本を閉じると、月明かりが手元をうっすらと青白くしていた。


 デパートの屋上には、芝生が整えられ、ちょっとした緑道と東屋が整備されていた。

 子どものころには小さい山のような遊具があって、いくつも空いた穴から出たり入ったり、空を仰ぎ見たりして大はしゃぎしたものだった。

 エレベーターホールの前に大きな書店があって、マンガ雑誌を立ち読みしたものだ。

 そして、外の遊び場から元気な黄色い声がいつも聞こえていた。

 自分が大人になっても、ずっと思い出の場所が残っていると、勝手に思い込んでいた。

 古臭いデパートは、きれいに磨いていても薄汚れて見える床と壁。

 非常口のサインも野暮ったくて、天井が低い。

 テナントは埋まり切らずに休憩所と展示会場が各階にあった。

 どんな物にも衰えがきて、陰りが見えたらあっという間に、ずり落ちていく。

 人間だってそうだ。

 高校を卒業する辺りまでは、夢を持って生きていた。

 だが、大学でぬるま湯に浸かって身体がふやけてから、歯車が狂いだした。

 街を眺めていた閤通 彬仁(こうどおり よしと)は、このフェンスを乗り越えたらどこへ行くのだろうか、などと考えていた。

「なあ、もしかして、変なこと考えていないだろうな」

 背中に叩きつけるような強い語気に、のけ反って視線を後ろへ向ける。

 見覚えのある顔が、上目遣いにしてこちらを(にら)んでいた。

「お前、もしかして能森か」

 見開いた目は、高校生の時の面影を正面から捉えた。

 そして口元を緩めていた。

「能森か、じゃないだろ。

 ここで何してるんだよ」

 (いら)立った声が胸に突き刺さる。

「どうしたんだ、久しぶりじゃないか。

 なぜ怒っているんだ」

 休み時間にカードゲームをした記憶がよみがえってきた。

 大人しくて面倒見がいい閤通は、つまらなそうに中庭を見てばかりいる能森に声をかけては遊びに誘ったり、勉強を教え合ったりして気にかけてくれていたのだ。

 内心、能森も懐かしい顔に胸が熱くなる思いだった。

 だが、

「ここから落ちたらどうなるか、なんて考えていたな。

 俺にはわかる。

 一緒に来い」

 肩を掴んで引っ張ると、閤通は手を払いのけて言った。

「デパートの屋上にいるからって、飛び降り自殺でもすると思ったのか。

 言いがかりはよせよ」

 声を荒げた鼻先に、革の本を開いて見せた。

「これを見ろ。

 お前の未来が書いてあるんだ」

 閤通は数歩後ずさった。

 大きく殴り書きのようにして、「屋上から飛び降りて死ぬ」とあったのだ。


 小脇に抱えたベージュの革表紙は、光を失っていくように感じられた。

 開くたびに心を揺さぶり、能森の深い闇に沈んでいた部分を引きずりだした。

 ハッとして立ち止まって、本を両手で掴んだ彼は、しみじみと眺めて言った。

「これは、運命の書だ。

 俺を変える運命の一冊であり、運命を記す本でもある」

「そして、運命を変える本か」

 閤通は、ずっとついて来ていた。

 そして、脇目もふらずに考えごとに(ふけ)る旧友を怪訝(けげん)な顔でまじまじと見た。

「その本は、何なんだ」

 俺だって、良く分かってないと答えようとしたときだった。

 人混みの向こうを、トラネコが横切るのを認めて走りだした。

 閤通の脇を抜けて、人の流れを(かわ)しながら猫の後を追っていく。

 トラネコは、低い塀の上に飛び乗り、大きな図体からは想像できないほどの敏捷(びんしょう)性を見せた。

 にゃあ、とひと鳴きしてから能森の方へ黒目だけを向けた。

 縦に細長い目は、何を考えているのかまったく想像させない不気味さを備えていた。

 そして、ストンと塀から飛び降りたと思うと、茂みの奥へと消えてしまった。

「何だ、どうしたんだ能森 ───」

 古本屋にいた番人猫と同じように見えたが、猫の顔を見分けられるわけではない。

 しかし、同じに違いない、と確信した。

 なぜなら能森を知っていたような仕草だったからである。

「多分、この本と関連が深い猫だ。

 たくさんの人生を静かに観察してきた目だった。

 きっとそうに違いない」

 独りごとのように能森が言いきった。

「ちょっと見せてくれ」

 両手で抱えていた本をむしり取るように掴んだ閤通は、ゆっくりと表紙を開き、扉を(つま)んで恐る恐る(のぞ)き込む。

「何だって」

 眉間(みけん)に深い(しわ)を刻んだ顔が、ゆっくりと能森の方へ向けられる。

「お前、仕事をやめて商売を始める気はあるか」

「そうだな、そんなことをよく考えるよ。

 書いてあったの ───」

 言いかけた顔の前に本を開いて突きつけた。

「読んでみろよ。

 凄いぞ」

 そこには、事業を起こして成功し、富と名声に恵まれて結婚し、家庭を持って子育てをして、老後には慈善事業に精を出し、充実した人生を送るストーリーが記されていたのだった。


 暖かい陽射しが、商店街の路地を照らし湿り気を飛ばしたころ、トラネコは呑気(のんき)に鼻歌を歌うかのように顔を上げて歩いていた。

 通行人に蹴とばされないよう、ピンと立てた尻尾(しっぽ)を左右にくねらせ、往来の端を滑らかに。

 カフェを過ぎると、古い木造の建物に、これまた木製の看板が出ている。

 横向きの簡素な、そして古びた看板には「零月堂」の文字が一部()げていた。

 歩道には生成(きな)りの明るいスレートタイルから反射する光が満たされた。

 それとは対照的に零月堂は暗い店内が開口部から見えていた。

 にゃあ、とひと鳴きしたトラネコは、入口付近でのんびりと日向(ひなた)ぼっこでもしようかと、身体をうねらせながら店内に入っていく。

 入り口のレジの前で、頭を斜めにしたまま時々虫眼鏡を取り出しては本に視線を落とす白髪の老紳士がいた。

 立派な(ひげ)をたくわえ、(ほこり)っぽい空気を()き分けて足元の陽だまりに陣取った猫に気づかない様子である。

 踏みつけられてはたまらない、とトラネコはもうひと鳴きした。

「お帰り、トラ」

 小さな声で店主が(つぶや)いた。

 トラネコは、(たて)長の(ひとみ)を一層細くして、伸びをする。

 (のど)をゴロゴロ鳴らすと、店主がキャットフードを小皿に盛って猫の前に置いた。

「あの本の持ち主は、どうなると思う」

 老紳士が独りごとのように呟いた。

 猫は口角を上げて目を細くして、笑うような顔をした。

 口ひげの元がふっと引き上げられ、元の姿勢に戻って本に視線を戻した。

 パクパクと食べ、ミルクをピチャピチャ()めた猫は満足そうに、もう一度伸びをした。

 そしてそのまま身体を丸めて眠りに落ちてしまった。

「さてと」

 老紳士が、(おもむろ)に立ち上がると、ハタキを取り出して、迷路のような本棚をサッサッと軽快なリズムではたき始める。

 陽に照らされてキラキラと舞う埃が、緑のローブのような衣服を神秘的に見せていた。

 そこへ、先日の若者がベージュの革の本を小脇に抱えて入ってきた。

「やあ、いらっしゃい。

 本は、お気に召しましたかな」


 両手で本を差しだした能森は、身の回りで起こったこと、本に現れた予言めいた文章のことをかいつまんで伝えた。

「お役に立てて何より。

 ところで、これから先も本は君の役に立つかもしれないが、もういいのかな」

 老紳士は頭を斜めに傾けたまま、口元に笑窪(えくぼ)を作った。

 恐らく、分かり切ったことを聞いているのだろう。

「はい。

 僕は、自分の運命というものを信じません。

 今まで通りの人生を、自分で選んだ人生を生きるだけですから」

 ヒマワリが陽の光に顔を向けて、種を実らせるような晴れやかさが能森の(たたず)まいを輝かせた。

 満足げに微笑みながら、老紳士が本を山の上にポンと置いた。

「君にピッタリの本があるのだけれど、読んでみるかい」

 もう一つの山から、ひょいと小振りな本を数冊取り出して差し出した。

「今度はお代を払います。

 いえ、払わせてください」

 レジを済ませた能森の小脇には、古びた本が挟まっていた。

 眩しそうに目を細め、手の平で(ひさし)を作って通りに出ると、速足で家路についた。

 背筋をピンと伸ばして、手足を大きく振りだす姿が、長い影を落とす頃、また陽が落ちていった。

 輝く茜色の空は、能森の横顔を赤く染め、次第に空気を冷やしていく。

 そして、また朝が来るだろう。

 夕飯の買い物をする客が、ショッピングバッグを抱えて急ぎ足になり、辺りに夜の(とばり)が降りると、机に向かう彼の姿が今日もあった。



この物語はフィクションです


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