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あからひく  作者: 藤野纏
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月面旅行未満

月面旅行未満


 同じ夢をみる。何度も何度も、同じ夢を見る。そこはいつもわたしの部屋で、携帯のアラームが幾度目かのスヌーズによって震えている。それを止めて、体を起こして、洗面台へ行く。蛇口をひねって水を出す。朝の冷たい水はなんだか体に染みる。

鏡を見ると、疑いようのないくらいそのままのわたしがそこにいる。夢の中でも私の印象のきつい目のかたちや、一度も染めたことのない黒髪は変わらない。いっそ金髪にでもなったら面白いのにと思うが、わたしの発想が貧相なのか、見慣れた姿は変わることはない。歯を磨き、リビングへ向かうと、

「おはよう、ツキ」

そこには、彼がいる。

現実と見紛うほどの精度で、そこにいる。

「今日はあそこのカフェで食パンを買ったんだ」

同じカフェの珈琲豆をミルで砕きながら彼は笑う。白く、こぢんまりとした部屋に珈琲の濃く苦い香りがふわりと漂う。

「昔から好きだろ、これに目玉焼きとベーコン乗せるの」

じゅう、とベーコンが焼ける音がする。うすいベーコンが自ら出した油でてら、と光っていて、目玉焼きの端っこはカリカリに焼けて少しめくれあがっている。とろ、とした黄身が山吹色に膨らんで今にも破裂しそうだ。春を呼ぶような緑のレタスをちぎって、ふかふかに焼けたパンの上にのせれば、久方望特製の目玉焼きパンの完成だ。

彼に言わせれば、ベーコンはパンからはみ出る程おおきいものを、目玉焼きは半熟で、らしい。

パン皿はお気に入りの北欧ブルーのものを。目玉焼きとあわせると、まるで絵本の中の夜空とお月様だ。マグカップもお気に入りをひっぱりだしてきて、特別な朝食プレートの完成。

ちらり、と彼を見るともう待ちきれないといった様子でうずうずしていたから、思わず笑って手を合わせる。命をいただく挨拶。いただきます。彼はにかっ、というおとが似合いそうな笑顔で笑って、大きな口でパンをかじった。かりり、といい音がして、とろり、と黄身が垂れ落ちる。わたしも同じくパンをかじる。レタスがしゃく、と音を立てて、ベーコンの塩気と目玉焼きの黄身のまろやかさが口の中に広がる。わたしは望の作るこの目玉焼きパンが好きだった。

「俺天才かも。目玉焼きの火加減、絶妙だ」

「ええ、今日も最高」

望の方に目をやる。短く切りそろえた黒髪は窓から吹く春風におだやかにゆられて、私と同じシャンプーの香りがする。

あの頃から随分と伸びた背。がっしりついた筋肉。低くなった声はざらり、としていて、どこか落ち着いている。なのに笑顔はあの時のまま、幼く変わらない。

パンに夢中で伏目がちの彼のまつげに、光がおちて、頬に、ああ、ほら、ころがってゆく。

それを、わたしはじっと見つめている。

「あ、桜だ、」

雀が鳴いて、ふ、と望は視線をあげた。

望の瞳は色素が少し抜けた穏やかな茶色で、私の後ろの窓を見ている。

「もう春かあ」

「最近、暖かいですからね」

「ね、散歩日和だ」

口の横にパンくずをつけて笑う望。

口についてると教えると恥ずかしそうにはにかむ望。

珈琲に砂糖をふたついれて、ミルクもたっぷり入れる望。

私の方に珈琲を差し出す望。

「今日は花見でもいこうか、ツキ」

 私は、はい、と頷く。

これも、いつも通り。

そして、彼がうれしそうに笑って、ごちそうさまをして、それで。

 場面が変わる。私は寝間着から普段着に着替えていて、望は靴を履きかけていた。

「ツキ、戸締りおっけー?」

「ええ、大丈夫」

「指さし点検よーし!」

なんておどけてみせるから、もう、と私も笑う。靴を履き終えた彼は、あはは、と笑って玄関に立っている。

「ねえ、ツキ」

私が靴を履いて立ち上がる瞬間。彼は待ちきれないといった様子で、玄関のドアノブに手をかける。ちょっとまって、という私の静止も聞かないで、ドアを開けてしまった。

「いこう、ツキ」

扉の向こう。そこは平凡で退屈な町の風景などではない。

地球の空気が澄み渡ったときに観測した程度じゃ比べ物にならない。

希死念慮(きしねんりょ)にまかせて寝転んで見上げた程度じゃ足元にも及ばない。

すべてを失って膝をついて天を仰いだ程度じゃ話にならない。

視界いっぱいに懸命に輝く綺羅(きら)(ぼし)。何度見ても息をのむほどの星屑の数々。

自然と涙がおちて、心臓がとまってしまいそうなくらいうつくしい星影たち。

デネブ、アルタイル、ベガ。オリオン座に北極星。いつしか一緒に見上げた空に浮かぶ星々は、いまとなっては多数の中の一つになってしまった。

彼がドアの向こうへと歩いていく。その足取りはしっかりとしていて。

だからこそ、それを見るのが嫌だった。いっそ熱に浮かされたようにふらふらと歩いてくれればいいのに、彼は自分の意志でこのドアをくぐるのだ。知っていた。彼はそういう人だったから。

ドアをくぐると、そこは、月面だ。いつか遊んだ砂場の土をおもいださせるでこぼことした地面に彼は立っている。彼の体は体重を失ったようになって、少しだけ浮いている。

「ほら、一緒にいこう」

振り返った望の顔の輪郭が朧げになってはっきりしない。

38万kmの果てで彼はどんな顔をして死んだのだろう。

「おいで」

ただの私の願望だと知りながら、私はこの月面へ行けないでいる。いつもあと一歩を踏み出せないでいる。手を取ることも、突き放すこともできないでうずくまる。

無邪気に名前を呼ぶ望の声に耳をふさぐことすらできない。できるだけ長く、なるたけ長く、

この時を過ごすことばかりを考えている。夢の中でも、わたしはもういないあの人を想っている。

本当はもうとっくに望の声なんか思い出せないくせに、ツキ、と呼んでくれるのを待っている。

彼のにおいも、温度も、わすれたくせに。

その事実は泣きたくなるほどの痛みとなって、毎日わたしの心を突き刺す。

その傷口から、ぶわ、と記憶があふれ出す。

つつじを摘んで口に含んで蜜を吸った小学校の登下校。

荷物持ちじゃんけんでいつも負けていた望。いつもチョキをだすからだよ、なんて絶対に言ってやらなかった。

私があまり外で遊ばない子供だったから、彼がいつも公園へ連れ出してくれていた。私はそこで四季の美しさを知った。春はほかほかと暖かくて、夏はじめじめして暑くて、秋は肌をひんやりなでるような涼やかさで、冬はびしびしと寒い。

本の中にある景色が望とともに、そこにあった。ああ、だから、わたし。それを子供たちに伝えたくて国語の先生になったんだっけ。

お泊りをしたときは、おばさんにばれないように布団をかぶりながら宇宙の図鑑を二人で読んだ。そして家の中が寝静まったころにこっそり窓の外を一緒に見たんだ。窓を開けて、二人で毛布にくるまって身を寄せ合いながら眺めた。ほら、寒いからってこっそりミルクを温めてきてくれた望のカップに、わたしはひとさじのはちみつを入れて。それをこくりこくりと飲みながら眺めたその星空は、私にとってはキャンプで一緒に眺めた空よりよっぽどうつくしくて。

それに夢中になりすぎて寝不足になって、起きていたのがばれて怒られたっけ。

中学生になって、なんとなく距離感がつかめなくなって。

でも、夜になると君が空を見上げるのを知っていたから、私も夜になると部屋の中から窓の外を眺めていた。お気に入りのマグカップにミルクを温めて、はちみつをひとさじ入れて。君が同じ気持ちならどれだけいいだろう、と思いながら。

高校生になって、念願の恋人というかたちになった。

学校にお金を持っていくことをはじめてゆるされた日。

サイダーを飲みながら一緒に帰った放課後。

ふきだしたサイダーでべたべたになって、もう、なにやってるのって笑い合って。自転車の後ろに乗せてもらって、長い下り坂をおりている途中に、口を開けて吹き抜けていく風を食む。

それで、それで。

どれだけ言葉を尽くしても、まだ。君に言い足りないのに。

ツキ、と呼ぶ彼の声が、耳の奥で反響している。それを捕まえていたかった。

君があいしていたものがわたしじゃなくても、その響きだけでよかった。

ずっと隣で見ていたからわかっていたけれど、それでもよかった。

忘れないようにずっと耳をすませていたかった。

世間が知らないさえない君でも、すべてをずっと覚えていたかった。

壊れたCDみたいに同じところを繰り返していたかった。

でも、時は経つ。過ぎる。流れる。次第に私も年を重ねて、忘れていく。

それを一つ一つ拾い上げて嘆き悲しむ日々は、わたしにはあまりにも辛すぎる。

だからもう、おしまいにするのだ。

「わたし、行きません」

ああ、世界が終わるのは突然だ。

彼が読めなかった新作の一言が頭をよぎる。

「もう、夢ばかり見てられないの」

その一言で、世界は半熟の黄身のように、ぷちゅ、と中身をこぼす。うつくしい月明かりのような色が、とろり、ととけて望を飲み込んでいく。

本当は。

本当は、わたし、彼にこうやって誘ってほしかったのだと思う。

おいで、一緒に行こう、って言ってほしかったのだと思う。

ああ、わたし、お利口な顔なんか、するんじゃなかった。

君ならわかってくれるなんて言葉に、わかりたくないと物わかりの悪いおんなになればよかった。そうできたら、どれだけよかったか。でも、そんなことは起こらなかった。そんな勇気なんかな

かったし、あんな目を見ていたら、ああ、勝ち目がないってわかってしまった。

だから、この話はもうここでおしまいなのだ。

あの時から進めないわたしだけがここにいた。それだけの話なのだ。

だからきちんとおしまいをつけなければならない。

電車には終点があるように。文章には句点があるように。人間には眠りがあるように。

ああ、さようなら、わたしの初恋! 

そして、さようなら。わたしたち。

せめて、遥か彼方の君が幸せでありますように。

涙が零れ落ちる。視界の星々は光と涙で朧気になっていく。

さようなら、さようなら。

どうか、もうこんなうつくしい夢を見ませんように。


  ●

目が覚める。

汗ばむ季節。もう初夏だ。

窓からさす光と、葉桜が日に照りかえしてまぶしい。

体を起こして、洗面台へ行く。蛇口をひねって水を出す。朝の冷たい水はなんだか体に染みる。

鏡を見ると、疑いようのないくらいそのままのわたしがそこにいる。

夢の中でも現実でもわたしの印象のきつい目のかたちや、一度も染めたことのない黒髪は変わらない。歯を磨き、リビングへ向かうと、誰もいない。

部屋に虚空が湛えている。買い置きの食パンとインスタントの珈琲を引っ張り出してきて、キッチンへ。

湯を沸かす。冷蔵庫から材料を取り出す。そんな生活に根付いた所作が、次第に私を現実に引き戻す。

食パンを焼く。ベーコンは薄いのを二枚。目玉焼きは半熟で。カリカリに焼いて、レタスをちぎって乗せる。しばらく日の目を見ていなかった北欧ブルーのパン皿。そのうえにパンを置く。

なんだか、夜空のうえにぽっかり黄色い穴があいたみたいだな、と思った。

全部をそろえて席に着く。そろえたはずなのに、夢の中のようにはいかない。

向かいは空席で、春めく風がふわりと通り過ぎる。

でも、それでいいのだと思う。私はついぞ、空の月にならぶことなどなかったのだから。

珈琲をたっぷり入れたマグカップに顔が映る。つめたいしずくが伝う、あからひく頬。

はたはたとこぼれ落ちる涙をぬぐう。大丈夫、もう、大丈夫。口の中で呟いて、鼻をすする。

どれだけ泣いても、ぐう、とおなかは鳴る。ふへ、と気の抜けた笑みがマグカップの中に吸い込まれていった。ああ、こんなに悲しいのに、なんてへんな顔。

まだまだ止む気配のない雨をそのままにして、わたしは一人きりでいただきますをいう。

部屋の中に空虚にひびいたそれは、やっぱりさびしい。

それでも、わたしは苦い珈琲を飲むし、かりり、とパンをかじる。

満ち足りているはずの月は欠けて、ぶちゅ、と、時間と同じく流れおちていく。

それでよかった。これが、本当のわたしの日常なのだ。

流れおちた黄身はわたしの空腹を満たすし、月はまたいつか満ちるのだから。

あとはわたしが勝手に幸せになるだけだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] どのお話も興味深く読ませていただきました。 [一言] 最終話の最後の1行がいちばん好きかも(*^^*)
2024/09/16 15:53 退会済み
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