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あからひく  作者: 藤野纏
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北極星が落ちた日

あの時のままであることなんて、どこにもありはしない。

それは私も、あの子もそうだ。だから人生がいとおしいのだと言えたらそれが大人になった証拠なのだろうか。

煙草を取り出して、かじかむ指先で火をつける。ふう、と息を吐くと、寒さで濁っているのか紫煙だかわからない白い二酸化炭素が吐き出される。ほら、これだってそうだ。女子高生だった私は煙草なんか覚えちゃいなかった。ゆらめく煙を目で追う。

隈を隠す上手なやりかたも、そちらに目がいかないように覚えた派手なアイシャドウの技術も、女子高生の私は持ち合わせていなかった。それは自分を守るすべを持ち合わせていないのとほぼ同義だったように思う。

あの子は同窓会には来なかった。風の噂では、今は海外にいるそうだ。そこで会社をたてて働いているらしい。

二次会にはいかない。

黒くシンプルなパーティドレスと白い真珠のネックレスが受動喫煙をする。肩に羽織ったコートは今の私の魂より重い。

雪が降って底冷えする夜になると、必ず思い出すことがある。冬の冷たさがその記憶を連れてくるのだ。私はその記憶に呪われていたのだ。これは呪いだったのだ、と気づいた。多分この呪いは生涯解けることはない。そしてひどく忌々しい事だが私には解く気にもなれない。その呪いは胸の奥のあたりにあって、私はしばしばそれを指の腹で撫でてみる。いまだ生々しく痛むそれが、今となっては憎らしくなる。それでもそれに触れるのをやめられないのは、心から追い出すことができないのは、もうその呪いを抱えているのが私だけだとわかったからだ。


あの子のことを私は「ホシノ」と呼んでいて、私はゆりちゃんと呼ばれていた。

ホシノと私は仲が良かった。少なくとも私はそう思っていたし、周りもそう認識していたと思う。

ホシノは本当に勉強ができなかった。数学なんてひどいもので、毎回のテストで居残りをさせられていた。

唯一点数がいいのは生物の限られた範囲くらいのもので、テスト週間になるとゆりちゃん、とよく泣きついてきたものである。

 じゃあ体育は出来たのかと言えばそんなことはなく、走れば転び、跳び箱をすれば顔面から突っ込み、泳げば溺れていた。

手先も不器用で、美術や家庭科の授業で作った作品は目も当てられなかった。その頑張りだけでお情けの評定3をもらっていたようなものである。

ゆりちゃん、と不細工にべそをかくホシノ。ばかでのろまでぐずで、なんにもできないホシノ。

なにをやらせてもとろくて、私が横から手伝うことも多かった。ゆりちゃんありがと、とわらうホシノの目じりに溜まった涙をぬぐってやるのは、いつも私だった。

「やったね、ゆりちゃん!」

私がいい成績をとったり、表彰されたりした時に一番喜ぶのはホシノだった。私が陸上部の大会で優勝し、表彰されたとき。表彰状を丸めて鞄にさっさと突っ込む私とは違って、ホシノは自分の事の様にうれしそうに飛び跳ねて笑っていた。

他人のことにこれほど喜べるのなら、彼女の人生は相当たのしそうだなと思った記憶がある。

ホシノは愛嬌だけは抜群だった。彼女はなんにもできないけれど、彼女が困っていると誰かがどこからともなく手を貸していた。特におっとりした彼女の雰囲気は男子に人気で、そのことで女子からねたまれることもあったみたいだが、それでも女子も最終的には彼女の手伝いをしている。そんな子だった。

それでも彼女が一番に頼るのは私だった。ゆりちゃん、と半べそをかきながらもじもじとやってくるホシノの姿を何度見たことか。それに私はため息交じりに「今度は何?」と聞くのだ。私はその瞬間が何より好きだった。

「ゆりちゃん」

舌足らずに私の名前を呼びながら後ろをついてくるホシノの事を、よく覚えている。

「私もゆりちゃんみたいになりたいな」

私より背の低いホシノは、私を見上げながらいつもそんなことを言っていた。私はそれが誇らしかった。ばかでのろまでぐずなホシノの手を仕方なく引くのも嫌ではなかった。むしろ、ホシノが私を頼る限り、私はホシノの先を走らなければならないとすら感じていた。彼女が私を見上げるように。いつまでも、いつまでも見上げるように。


それが崩れだしたのは、確か二年の冬のことだった。私は一時期、思うように勉強ができなくなったことがある。きっかけは本当に運が悪かったとしか言いようがない。生理の腹痛のせいで私はその日のテストの科目すべてでうまく力が発揮できなかった。その点の数々を見た母がショックを受け、勉強の仕方を見直すと言い出したのだ。元々いやになるほど厳しかった母はさらに厳しくなった。私の教育方針について、厳しい母とそういう事には疎い父の間で争いが始まった。ついには離婚の危機にまで陥って、母は私についてくるわよね、と圧をかけてくるし、父はなにもいわないで困ったように笑うだけだった。

私は生理が来るのが怖くなった。特にテスト期間に被らないように毎月祈るばかりで、本当に恐ろしかった。それよりも恐ろしかったのは母で、彼女は機嫌を損ねると、こつこつ、と爪で机をたたいて猫なで声で話すのだ。私はあの音が何よりも嫌だった。ゆりちゃんならできるわよね、とわらうおんなの顔は、いまだに頭の中から離れない。

その頃の私にはそれが世界で一番恐ろしくて、寝る間も惜しんで勉強するようになった。

峰岸ゆりに任せておけば大丈夫。勉強だって、運動だって、なんだって。誰もがそう言う。だから大丈夫にしなくてはいけないのだ。

私はそれをやり遂げるしかなかった。そうすると体はそれに順応し始めて、ほんとうに大丈夫になってしまったのだ。眠気を無視していたら、眠気に無視されるようになってしまった。私の体には、眠りというものがはなから存在しなかったかのようになってしまったのだ。

眠気がこないというのは恐ろしい。それが分かったのは愚かにも眠れなくなってからだった。

いつまでも『今日』に終わりが来ないで、すべてが地続きなのだ。目に映るすべてが夢なのか現実なのかさっぱりわからない。ただ体が先へ先へと動いて、日々は過ぎ去って、心はどこかに置いてきたようになるのだ。あの時の私の世界は恐ろしいものばかりだった。心が追いつかない。追いつかなければ何も感じないからと走って、走って、とんとん、と肩をたたかれる。

心が追いついてきたら、あとはひどくつめたい両手を顔に当ててさめざめと涙するだけ。

心と体のおいかけっこは、永遠とも感じられるほど続いた。それを誰かに相談しようとはみじんも思わなかった。ただただ繕わねばというある一種の強迫観念だけがそこにあった。

私は高いところに咲く百合の花でなければならなかった。

ただ白く、美しく、たおやかに、かぐわしく。

学級委員長の峰岸ゆりに任せておけばすべてが大丈夫、と担任がわらう。みんながそれにうなずく。そんな日常が綻ばないように縫い合わせる私の苦労なんか、誰も知らない。

それでよかった。むしろ、そんな日常にひびが入ることのほうが恐れるべきことであった。


そんな日々が続くある日だった。冬休みに入って、学校もひと段落ついたころ。私はいつものように図書館の学習ルームでホシノに勉強を教えることになっていた。机に散らかる参考書とノート。勉強に飽きたホシノは蛍光ペンとシャーペンでタワーを作っている。みて、ゆりちゃん。と無邪気に笑うホシノに溜息をつきながら、そろそろ休憩するのも悪くはないかと私も参考書をとじた。

何かジュースでも買おうよ、とホシノがのんきに笑っている。いいよ、と席を立って、自販機の前まで一緒に歩いて行った。うすぼんやりと光る蛍光灯。そこに虫が一匹引き寄せられて、ふらふらとさまよっている。

「あのさ、ゆりちゃん」

「何」

「最近大丈夫?」

ホシノが私の顔を覗き込む。ちゃりん、と一五〇円は自販機の中に吸い込まれていった。

「なにが?」

「ゆりちゃん元気ないよね、ずっと」

指先が冷えている。

「……そんなことないよ」

そっかあ、勘違いかあと誤魔化されてくれることを期待した。

「ほんとに?」

なのに、なんでそんな確信めいた顔をするの。ホシノは私の右手をとって、ぎゅ、と握る。じんわりとした人肌の温かさに、無性に泣きたくなった。

「わたし、」

胸が苦しい。息がしづらくなって、ああ、追いつかれる、と思った。

「ゆりちゃん」

ホシノの声があまりにやさしいから。

「実はずっと、眠れてなくて、」

ぷつん、と糸が切れた。

午前二時の何もかも飲み込む静寂に、午前四時の白む空。バイクの音、鳥の鳴く声、家族の起きる音にあわせて私は稼働する。

おはよう、なんて眠ってもいないくせに白々しく笑う自分がむなしくて。

「そっかあ、ゆりちゃんはスイッチがうまく切れなくなっちゃったんだね」

ホシノは私の目元をなぞる。隈とあかく荒れた肌を拙い化粧で隠しているのがばれたのだろうか。

「ねえ、」

「なに、」

「わたしとにげちゃおっか、ゆりちゃん」

天然パーマの髪をかきまぜながら、彼女はのんきに笑う。虫が、蛍光灯にとまった。じじ、と命が焼ける音がした。

鞄に参考書を突っ込んで、マフラーをまいて、私たちは図書館を飛び出した。カフェを通り過ぎ、踏切を超えて、海の近くのバス停へ。

ざざ、ざざ、と海が鳴く。ノイズじみたその音がやさしく、どこかなつかしい。潮の香りがして、髪がすこしだけべたつく。冬の風がひどく冷たい。バス停のベンチへ腰かける。夜の海は、天も地もわからなくなるほど真っ暗で、誰も私たちを見つけられないだろう。途端に途方に暮れた気持ちになった。私はホシノのちいさな肩へ体を預けてみた。ホシノは小さな手で私の手を握る。

鳴るパンザマイム。鼻が冷たくて、口を開くのもおっくうだ。

「どうしよう、ホシノ。もう六時だよ。母さんに怒られるかも」

泣いてなんかいないのに、なんだか泣き言みたいだ。

ホシノは私の背中を撫でる。

「大丈夫だよ、ゆりちゃん。私が言い出したのが悪いの。ゆりちゃんはなにもわるくないよ」

それがあまりにも穏やかな声だから、なんだか少し眠くなってきた。もう少し、彼女の小さな体に体を傾けると、彼女はそのまま膝を貸してくれた。彼女の手が私の髪をなでる。

「髪、きれいだね」

する、と指に通してはおちていくさまを楽しみながら、彼女はくすくすと笑う。50デニールのタイツの肌触りと、彼女のあたたかさ。それに握り合う手さえあれば、骨身に染みる寒風なんかへっちゃらだ。はらはと雪が降って、私たちの上に積もろうとも、頬を伝う冷えたしずくなんかも、ぜんぶへっちゃらなんだ。

「ゆりちゃん、」

囁くようなホシノの声は、海のさざ波なんかにまけない。ばかでのろまでぐずなホシノ。

わたしの、ホシノ。

彼女のスカートをぎゅっと握る。今日は勉強に付きっ切りになるためにわたしの家に泊まっていくことにしなよ、という提案に、嗚咽で返す。いつもは見える北極星は、今日は曇りで見えなかった。


今思えば、私たちのあいだの何かが変わったのはその日からだった。ホシノは相変わらずばかでのろまでぐずで、私は相変わらず眠れなかったけれど、言いようのない何かが変わったのだ。

冬休みが明けて、新学期。進路指導にも力が入りはじめ、部活も二年生が一番上の学年になった。責任を問われはじめるようになる季節。私たちは責任の取り方も習わないで無責任に生きている。

誰もいない放課後の教室。ストーブがときおりジジ、と音を立てている。

「ねえ、ホシノ」

参考書の上を私の目線が走る。ホシノが「なあに、」とにんまり笑っている。わかっているくせに。

ファイルから今日のテストを取り出して、点数をみせる。彼女は「今回もすごいね!」と言って頭を撫でてくれた。あたりまえ、と言いながらも自分から笑みがこぼれるのがわかる。彼女だけだ。

彼女だけが、あたりまえと言わないで喜んでくれるのだ。彼女の指が髪を通っていく。それで、満たされている。ばかでのろまでぐずなホシノ。でも、かわいいホシノ。

「ねえ、ゆりちゃん」

突然ホシノのほそい腕がのびてきて、私の制服のリボンをほどく。

ホシノは自分のリボンもしゅる、とほどいた。

「なにしてるの、」

意図が読めない。私が目を丸くしていると、ホシノは彼女のリボンを、私の制服にまきなおした。そして、私のリボンを自分の制服に通す。

「これは内緒だからね」

しぃ、と彼女はかたちのいい唇に指をあてる。

「学年があがっても、もしクラスが違っても、ゆりちゃんはずっとわたしのリボンをつけるの」

とん、とリボンの結び目をつかれる。

「ずっと?」

「そう、ずっと」

びゅう、と風が窓をたたく。

ホシノは天然パーマの髪をくしゃりとかきまぜながら、いたずらっ子の様にわらった。

星野と名前の入ったタグがついたリボン。それが私の胸にひっそりと存在している。それはホシノのほうもおなじだ。峰岸、という名前が彼女の胸の、ちょうど真ん中に存在している。

ふたりだけの甘やかな秘匿。誰にもあばかれぬ秘密。内緒ね、と笑うホシノの顔があたまから離れない。

ぼぉっと頭の中が熱くなったのは、はたして気のせいだったろうか。

 結局私たちは、学年があがっても同じクラスだった。ゆりちゃん、と抱き着いてきたホシノは相変わらず小さくて、私の後ろをついてきた。峰岸ゆりがいればホシノは大丈夫。ホシノのことはまかせたぞ、なんて冗談も飛んでくるくらい、私とホシノは一緒にいた。

 だから、進む大学が違うなんてことが信じられないくらいだった。私は母さんが求めた大学へ。ホシノは自分の叶えたい夢の為に大学へ。

「ゆりちゃん、わたしね。叶えたい夢があるの」

わらわないでね、とはにかみながら彼女が私に耳打ちした夢はなんだったろう。わらわないよ、と答えるのに精いっぱいでろくに覚えていやしない。あの時はホシノが私を置いて頑張りたい夢があるなんて、考えてもいなかった。今のことを思えば、覚えていても無意味だったろうけど。

大学、合格したよと泣きながら胸に飛び込んできたホシノの背は伸びて、いつのまにか私を見上げてはいなかった。


卒業式。私たちがこの学校の制服に袖を通すのもこれでおわり。明日からはそれぞれの服を着て、それぞれの役割をこなすのだ。最後の記念に友達と写真を撮ったり、お世話になった先生に挨拶をして回ったりした。その時に私の傍にホシノは居なかった。

「ホシノ!」

ホシノは教室にいた。最後の最後でつれないやつ。私は一番にホシノと写真を撮りたかったのに。ホシノが笑って、ゆりちゃん、と手招きをするから、私は膨れ面で傍に駆け寄った。

「探したんだよ」

「ごめんごめん。忘れ物しちゃってさあ」

窓際の席に、ホシノの姿があった。ホシノがとろくてぐずなのは最後まで変わらない。私はため息交じりに呆れた声で言ってやった。

「最後の最後にそんな調子で大丈夫?」

「ゆりちゃんがいるから大丈夫」

「もう明日から私はいないよ」

「あ、そっかあ、」

自分で言っておいて、そっか、明日から私はホシノの隣にはいないのだ、と気づく。

「ねえ、ホシノ」

「……なあに、ゆりちゃん」

二年の頃より身長が伸びたホシノは、同じくらいの目線で見つめてくる。

「私たち、卒業したら、」

震える声はまるでホシノに縋りつくようだった。ホシノは私の唇に指をあてて、そして。

ふわ、とカーテンが舞い上がる、刹那。

私たち以外誰もいない教室で、唇が触れあうだけのキスをした。

「……ホシノ、」

「へへ、キスしちゃった」

彼女は嬉しそうに頬をあかくしている。そんな様子を呆けてみていると、彼女は私を抱きしめた。ゆるくかかった天然パーマが私の鼻をくすぐる。花の匂いがした。

彼女のぬくもりは、まだすこしだけ寒いこの季節から逃れるにはちょうどいい。私も抱きしめ返すと、彼女はひゃあ、と甲高い笑い声をあげる。ぎゅう、と彼女が逃げないように、腕の中に閉じ込める。すると彼女はもっと強い力で私を抱きしめかえす。ふたりの間には、そんな応酬があった。

しばらくそうしていると、

「あのね、ゆりちゃん」

と、ホシノがささやくように、そしておかしそうに言い出した。

「同窓会の時に、また交換しよ」

私のリボンの結び目をつつきながら、彼女はわらう。

「忘れてこないでよ」

「大丈夫だよ、ゆりちゃんとのことだもの。わたし、忘れたりしないよ」

ホシノが私の頭をなでる。私はホシノの肩に顔をうずめた。

「……ほんとかなあ」

ホシノはばかでのろまでぐずだから、きっと忘れてくるに違いない。それを私が、もう仕方ないんだからって笑って。それで。

ほんとにそんな未来だろうか、そんな未来だったらいいな、と震える手でホシノを抱きしめる。

「約束やぶったらどうする?」

「ええー、そうだな、デコピンする?」

「それじゃ軽いよ」

「じゃあ何か奢るとか!」

「ホシノ、お財布まで忘れてきたりして」

「そんなことないよお」

信用ないなー、とホシノが笑う。

今までの三年間の積み重ねだ、ばか。って私が笑って、そして、涙がこぼれた。よしよし、と彼女が背中をさする。ああ、隈を隠すファンデーションがくずれてしまう。目をこすって涙をぬぐうのを、赤くなっちゃうよ、とホシノがハンカチを貸してくれた。

「大人になったわたしたちって、いったいどんなだろうね」

「さあ、どんなだろうね」

ホシノは変わらず、ばかでのろまでぐずなのだろうなと思った。

そうだったら、どれだけよかったろうか。

 明日からお互いがいない日々に耐えられるように、私たちはもう一度だけ、キスをした。

彼女の唇はやわらかくて、すこしだけかさついていた。

リップくらいちゃんと塗りなよ、と最後の最後で注意したっけ。


つん、と冬の寒さが鼻をつく。

空を見上げるが、北極星は曇りで見えない。もうホシノはあの教室にはいない。ばかでのろまでぐずなホシノは、私より先に春へ旅立った。勝手に卒業してしまったのだ。私を置いて。

「なんだ、一人でも大丈夫だったんだ」

あの春風の吹く教室で待ちぼうけを食らってるのは私だけなのだ。ひとりぼっちの教室で、ずっと、もう来ない人を待っている。

「ゆりちゃん、」と呼んでくれるのを、「遅れてごめんね、」と、ばかでぐずでのろまな、なにをやらせてもとろい彼女がやってくるのを、待っている。

“あの日”が雪の降る日だったから、リボンを交換した日がびゅうびゅうと寒風の吹く日だったから、あの子が「(ひじり)」なんて名前だったから。

私は冬になるたびにその記憶を思い出すのだ。これからも。この先も。まるで呪われたように。

手に残った制服のリボンを見つめる。すっかり色あせたリボン。

あの時、確かに私の胸の上でとくとくと拍動していたそれは、もうさび付いたように動かない。

もう元の持ち主と永遠に会えないのだろうという予感が、あの頃のホシノの指の形をして胸をついた。


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