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あからひく  作者: 藤野纏
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泥水

泥水


私は、珈琲が嫌いだ。

あの何とも言えない独特のにおいがおのれの拙さを思い起こさせるようで。

艶めいた泥水みたいな色も嫌いだ。黒なんだか茶色なんだかわからない不透明さでそこにある。底知れない色だ。あんなものはうつろなブラックホールだ。あの中にならどんなに苦しく、つらい思い出を混ぜ込んでも見えないだろう。珈琲色だなんてよくもまあずうずうしく言ったものだ。あんな色は珈琲以外には存在しないのだ。そんな色彩はこの世から消し去ってしまったらいい。珈琲の色が虹色だろうがピンクだろうが青色だろうが、どれだけ荒唐無稽な色だろうが、珈琲愛飲家というものは気にしないだろう。もともとあんなものを飲んでいるのだから、そんな些細なことは気にならないに違いない。味も最悪だ。形容しがたい。そう、それは簡単に言うならば苦い、なのだろうけれど。その苦みが絶望的に舌先から這い上がってくる感覚。あれはそう、たとえるなら、青春の終わり。

……なんて、担当に話したら笑われた。

「よくもまあ、嫌いなものに対してそんなにすらすらと言葉が出てきますね。流石作家先生というか」

秋色の濃くなるころ。外は夏をこえて木々にあかるい色が付き始めた。。今日は風が少しだけ冷たい。羽織物を脱ぎながら、二人同時に席に着いた。

「なに、悪い?」

「いえ。(あり)明惑(あけまどい)先生の珈琲嫌いは承知してますとも。そう言われるのはわかってましたよ。

あ、もしかしてカフェで打ち合わせしましょうって言ったから怒ってます?」

彼の態度はしばしば軽薄でいけない。ぱちんと顔の前で手を合わせて、すいませんっ、と、ちょっと申し訳なさそうな顔をした。この男はそういう愛嬌しぐさで生きてきたのだろう。

確かにカフェで打ち合わせをするというのは、私たちの間で限って言えば珍しかった。理由なんて単純だ。私が珈琲嫌いで、ただカフェによりつかないからそんな発想がなかっただけの話である。そう考えれば、普段いかない場所への取材を兼ねているいうことでこの担当の事を許してやってもいいかもしれない。

このカフェはパンの持ち帰りや豆の販売もやっているようで、珈琲の香りに交じって焼き立てのパンの香りもする。あ、くるみの香りが店内にふわりと広がった。さっき焼けたのはくるみパンのようだ。木目調のアンティークテイストな内装に、店内BGMはゆったりと窓辺に腰掛けるようなジャズがぴたりと当てはまっている。マグカップを持って、夜風に当たりながら暖かいミルクでも飲みたい気持ちになるジャズだ。そこにコーヒーミルで豆を砕く音やカチャカチャと皿が鳴る音や人々のおしゃべりがかさなって、まるで店内は一つの演奏をしているみたいだ。珈琲の苦い香りが鼻をつくこと以外を除けば、最高の物語の舞台になるに違いなかった。

「いや。ただ、よくもこんな悪い思い出ばかり煮詰めたような臭いが充満する場所にいられるな、と思っただけ」

私はため息交じりにつぶやく。

「まあた、そんなこという」

担当は苦笑いでメニューを開く。ほら、惑先生。なんてまるで赤子をあやすが如くたしなめる

ので、私のへそは曲がりに曲がっていく。

「だいたい、なんだい。キリマンジャロだの、アメリカンだの気取った名前をつけて。どれも同じ泥水だろう」

「せ、先生?飲食店で泥水というたとえはよろしくないかと?」

「ふん。珈琲党のやつにそんな細やかなことを気にする精神性を持つ奴などいないだろうさ」

そこまで言われるとは思っていなかったのか、慌てる担当を尻目にメニューに向き合う。ぱらぱら、とページをめくるスピードが速いのは、自分でもすこし言い過ぎた自覚はあるからなのだが。咳ばらいをして目だけで周囲を見渡すと、誰も気にしちゃいない。ほ、と胸をなでおろす。やはり珈琲党のやつに神経の細かいやつなどいやしないのだ。

メニューの終いのページにはデザートのセットが載っている。デザートセットには見ただけでずっしりと重たいのがわかる、艶やかな断面のチョコレートケーキや、りんごを煮詰めた飴色のうつくしいタルトタタン。分厚いクッションのようなふかふかのパンケーキ。抹茶、お芋、オレンジピールの三色のマドレーヌに、パフスリーブのような生クリームを冠みたいに真ん中に乗せているプリン・ア・ラ・モード。秋限定の栗たっぷりモンブランも食欲をそそる。

どれも魅力的だが、今回は仕事で来ているのでオレンジジュースを一つ頼むことにする。グラスにオレンジの三日月がひっかかっている、果物感を意識したオレンジジュースだ。片手をあげて店員を呼ぶ。

やってきたのは、バイトリーダーだろうか。愛想がよく、仕事が出来そうな優男だった。

「ご注文をお伺いします。」

「あ、じゃあ僕はタルトタタンと珈琲のセットで」

「君まで!」

なんと嘆かわしい。自分の担当がよもや珈琲党だったとは。それにしても面と向かってあれだけ私が罵詈雑言を並べ立てていたというのに珈琲を注文する図太さと、仕事の最中だというのに菓子を頼む度胸は称賛に値する。

「先生もいかがです?ここのお菓子はどれもおいしいですよ」

「君、仕事中だというのを忘れてないかな」

「楽しく仕事するのも人間大切ですよ」

なんて言って、本当は自分の欲を優先しただけのくせにいけしゃあしゃあと。

私が片方の眉をあげると、担当は良いことを思いついたといった様子でにまにまと笑い出した。

「そうだ、先生も千秋さんにお勧めしてもらえばいいじゃないですか。きっと好きになりますよ。珈琲」

「……何?」

「いやあね、僕も実は珈琲苦手だったんですよ。でも千秋さんがお勧めしてくれた珈琲を飲んだらハマっちゃって」

ねえ、と担当は店員に目配せをする。恐縮です、と店員は愛想よく笑った。店員の名前を覚える程通っているのか。だから今度の打ち合わせは出版社の近くの『autumn』でどうですか、なんて言い出したのだ。

「……まさか、私の珈琲嫌いを克服させようと?」

「あは」

向こうから店を指定するなんて珍しいと思ったらこれだ。

「公私混同も甚だしいね、君」

「まあまあ、そういわずに。いつも出先で珈琲ばかり出されて苦労されてるでしょう?ここで克服するのも悪くはないじゃないですか」

それはまあ、そうかもしれないけど。

腹立たしいことだが、私という人間は珈琲を連想させるらしい。きっちりと切りそろえた黒髪に黒いスーツがそうさせるのか、それとも私の書く文体か。何がそうさせるのかはわからないが、どこでも「惑先生は珈琲でいいですよね、」と言われてしまう。

珈琲党というのは何故相手が同類だと思うのだろうか。それともいわゆる大人の世界がそういうものなのか。失礼にならないように毎回少しだけ口をつけてはみるが、飲み下すのが苦痛なほどの苦みに、顔をしかめるのを我慢するのにもすでに飽き飽きしている。

「ということで、千秋さん。先生に飲みやすい珈琲をひとつお願いしますよっ」

そういうと彼は気安く、“千秋さん”の腕を小突く。

「はは、でも、そちらの“先生”がよろしければ、ですけど。」

ぱちり。そして初めて“千秋さん”と目があった。清潔感のある茶色の短髪。しわ一つない制服と同じように、彼の背筋もしゃんとしている。そして印象深いのは、彼の眼はふかい珈琲色をしていることだった。だというのに不思議と不快感はなく、そのひとみはすべてをやさしく包み込むような陰りを帯びていた。彼は目を細めて、私に笑いかける。ああ、彼と目があった時の感情はまるで、まるで。つぼみからゆっくり時間をかけて咲く途中のアネモネとか、よく晴れた日の三日月とか、焼き目のついた菓子に粉砂糖が降りかかるさまとか。そういう、日常のうつくしいものを見たときのような高揚感に似ていた。

「自己紹介が遅れてしまい申し訳ありません。初めまして。赤坂千秋と申します。惑先生がよろしければ、先生のお好きな珈琲を見つけるのに協力させてください。」

とろり、ととろけるような耳心地のいいあまい声。すべらかな乳白色を連想させるそれは、ちょうど珈琲の上をくるくるとまわるミルクのよう。だというのに、彼の話し方には自然と句点がうってあるみたいで、空間の中で存在がはっきりしている。その在り方は周囲の有象無象が(かす)むようだ。

これが彼の第一印象であった。それは今でも揺らぐことはない。彼との出会いで揺らいだものと言えば珈琲への印象だ。彼はあの後、見事私の珈琲への苦手意識を取り除くような品を出してみせた。確かグアテマラという名前の種類の豆だ。それは苦みが少なく甘い香りのする珈琲になるのだという。鼻から抜ける香りは確かにほのかにあまかった。

砂糖とミルクをいれてしまうと、もうおのれの拙さを思い出させるような苦い香りもうつろな珈琲色もどこかへ消えてしまって、どこか恐ろしいほどだった。惑先生は珈琲の苦みが苦手なようだから、苦みの少ないものを選ばれるといいですよ、と千秋さんは人を安心させるような笑顔でわらう。珈琲なんぞはただただ苦く、飲むのがつらいだけのものだと思っていたから、中には苦みが少ないものがあるだとかちっとも知らなかった。そうして、このようにその苦みを和らげることができることも。他にもいろいろな飲み方やアレンジがあるんですよ、と千秋さんは笑ってみせた。

千秋さんはどうしてこのようなものを飲み下す方法をこんなにも知っているのだろう?私は千秋さんの話を聞きながら、うすぼんやりとそんなことを考えた。

あの日から私も千秋さんの親しみやすさや珈琲の知識をすっかり気に入ってしまった。今まではあまり待ち合わせ場所を固定してこなかった担当と私たちの集合場所はいつしか『autumn』になった。

「やっぱりそうやって珈琲を飲んでる先生、サマになってますよ」

「そうかい?」

「そのカップの中身が角砂糖三つにミルクたっぷりであることを除けばね」

「……いいじゃないか。飲み方は人それぞれだと千秋さんも言っていたよ」

キャラメル色になったコーヒーカップの中身をすする。苦みの抜けた珈琲の口当たりはやわらかで、まるで千秋さんみたいだ。

その彼はというと今は他の接客中だ。その懸命に働く姿を見ながら口にする珈琲は、砂糖やミルクとはまた別の甘い味がする。

またカップに口を近づけると、酸味の抜けた香ばしいかおりが鼻に抜けていく。

「それにしてもすごいですよね、千秋さん。ほんとに先生の珈琲嫌いを克服させちゃうなんて」

そして千秋さんと先生を引き合わせた僕はもっとすごい!と言いたげに胸を張っている担当は

置いておくとして。

客と会話中の千秋さんを盗み見る。彼は今日も変わらずあまい笑みで客の注文を取っている。

時にはおすすめを聞かれたり、たくさんある珈琲の中から客の好みの豆をすすめたりと忙しそうだ。人の好みを的確に捉えて、そのニーズに合った珈琲を選びだせる千秋さんの知識量は相当なものだ。彼は相当な珈琲愛飲家なのだろう。

珈琲は豆の種類だけでなく、焙煎の違いやブレンドでも飲んだ時の印象がかなり異なるらしい。珈琲のうつろな色を思い出す。すべてを覆い隠してのみこむような、あの色。それを飲み比べて正確に記憶しているなんて、好きでもなければやっていられない。苦みなんてどれも同じだろうとしか思えないが、きっと私にはわからない違いがあるのだろう。現に、私が飲める珈琲と飲めない珈琲が存在しているのだから、そうにちがいない。私は変わらず、ここではグアテマラを愛飲している。

そうだ。珈琲といえば、私の方にも進展があったのである。珈琲の苦み自体に多少慣れたのだろう。完全な克服とはいかないが、どのインスタントでも砂糖とミルクがあれば困らないくらいには珈琲がのめるようになった。これでどこでも多少の格好がつく。大人の世界では珈琲がつきものだから、これは本当にありがたかった。ついでに「グアテマラを愛飲している」なんて言おうものならツウぶれるというおまけつき。これも千秋さんのおかげである。グアテマラをもう一口飲む。口の中でふんわりと広がる珈琲の香りを感じながら、私は担当の話を聞き流していた。


  ●

季節が移りかわるのは早い。特に秋はそれを実感せざるを得ないように思う。女心がうつろいやすいのと同じように、秋はつれなく過ぎ去っていく。今日は服装に失敗したかな、と腕をさすりながらヒールを鳴らす。日はとっくに暮れて夜の緞帳はしばらく上がりそうにない。

「あれ、惑先生?」

「……千秋さん?」

「はい、『autumn』の千秋ですとも。奇遇ですね、こんなところで会うなんて。」

出版社に呼び出しをされた帰り。『autumn』の隣を通りかかると、ちょうど千秋さんが戸締りをしているところだった。夜も遅く、普通の飲食店ならばとうに店を閉めているだろう時間なのに珍しい。

「今お仕事帰りですか?」

「ああ、はい。まあ」

そういえば、と括っていた髪をほどく。ふわ、と甘いシャンプーの香りが花ひらいて、疲れがどっと噴き出た。お疲れですね、と彼はリラックス効果が期待できそうな笑顔で無邪気そうに笑った。

「そうだ、先生の本読みましたよ。『かすみの丘に』!あれ、映画化するんですよね。もしかしてその打ち合わせ、とか。」

「よくわかりましたね。そうです」

「ぼく、好きなんですよね。『桜がこんなにきれいなのにさ、終わらなきゃいけないんだね、わたしたち』ってセリフ。」

彼はこの店のパンケーキのように甘く、ふうわりと笑った。その笑顔に見合わない台詞だ。それよりなにより、私は初めて私の書いた文を他人に声に出して読まれたのだが、この心地は案外悪くない。感情のふちを人差し指で、つ、となぞられたようになって、この人がよんでくれるなら満足だなとなんとなく浮ついた気持ちになる。

「めずらしいですね。担当にはなんでこんな悲しい事言わせるんですかってぷんすかされたんですが」

ぷんすかって、と今度はふきだした。よく笑う人だな、と思った。

「いいじゃないですか、自分たちは終わるのに、終わらない世界への恨み言みたいで。」

「恨み言がいいんですか?」

「あ、今変だって思ったでしょう。」

「まあ。そこそこ」

千秋さんは愛嬌のある笑顔で笑いながら、入ります?とカフェのドアの鍵を開ける。

「え、でももう店じまいなんじゃ」

「いいんです。惑さんだから。それにこんなところで立ち話も冷えますし。」

ね、と珈琲色をした双眸に見つめられると、どうにも断る気になれなかった。それに、今はここの珈琲がのみたくて仕方がない。仕事終わりの一杯、というと酒が連想されるが、珈琲でそれをやりたい気持ちだ。

じゃあ、お言葉に甘えて、と私は店の中に足を踏み入れる。明日に向けて清掃済みの店内はしん、としていて、普段のあかるい静けさとはちがってどこか無機質に響き渡る音を持っていた。

「珈琲でかまいませんか。」

「あ、はい。いつもので」

「ふふ、かしこまりました。」

彼は慣れた手つきで珈琲を淹れていく。ミルメーカーで豆を挽く。ふわ、と珈琲の香りが広がって、ああ、いつもの店内の香りだ。おのれの拙さを思い出させる苦い香りにも、もう慣れた。ごり、ごり、と、豆を挽く音の合間に彼が問いを投げる。

「そういえば気になっていたんですけど、どうして有明惑ってペンネームなんですか?」

「ああ……、それですか。人は『或るひとつの下心』から行動を起こして、『惑う』んです」

「なるほど、言葉遊びですか。」

こくり、とうなずく。

これは私の考えのひとつでもあった。ここでいう下心とは一般的な意味ではなく、心の奥底に隠した感情の事である。人は本心を隠しているものだ。それをさらけ出して生きていくというのは、本当に難しい。本当に強い人か、よほどのバカでなければそんなことはしやしないだろう。

そしてその本心の手綱を握ることは、それ以上に難しい。思った通りにはいかないことばかりだ。人はその心に惑わされ、迷い、決断して生きていく。そんなものを書きたくて、私は作家をやっているのだ。

「本名は有明誠といいます」

「誠さんですか。良いお名前ですね。新選組を思い出します。」

「そこで新選組の名前が出てきますか」

「出てきますね。」

「……」

「あ、また変だって思った。」

彼の人懐っこく甘い笑みがこぼれる。そんなに顔に出ているだろうか。むにむにと頬を揉んでみるがよくわからない。

「別にいいんですけどね。変だろうがなんだろうが。ぼくがそう思ったんで。」

「批判してるわけではないのですが」

「わかってますよ。」

サイフォンで珈琲が淹れられていく。

とぽぽ、とかわいらしい音を立てながらひとときの幸福と労いが白いカップに溜まっていく。

「はい、お待たせいたしました。」

「ありがとうございます。まさか、私が珈琲を好んで飲む日がくるなんて思わなかったな」

珈琲の味に浸りながらひとりごちる。砂糖をひとつとミルクをすこし。白い液体はくるくると水面をすべりながら純粋な珈琲色を濁らせていく。ふう、と息を吹きかけると水面がゆらいだ。

まだ苦みの強い珈琲は苦手だが、もうこんなにも珈琲を拒否感なく飲めるようになった。

千秋さんのブレンドのおかげである。

それ以外にも、だ。彼の手元を見る。節くれだった指が慣れた手つきで後片付けをしていて、それがどこかリズミカルだ。彼が淹れる珈琲はどこかあまく、うつくしく、やさしい。カップを両手で包むように持って、外の冷気でひえた指先をあたためる。

「千秋さんが淹れる珈琲はおいしいです。やっぱり、珈琲好きの淹れる珈琲だからでしょうか。魅力をよくわかってらっしゃる淹れ方だと思います」

「あ、ぼく、珈琲苦手なんです。」

「え、」

「苦手だから、研究しました。」

「……」

「また変だって思ったでしょ?」

「思ってないです」

「顔に書いてありますよ。」

そんなにわかりやすいだろうか。ふむ、と息を吐いて「苦手なものをわざわざ研究しようと思うんですね」と言ってみる。

「克服しようと思ったんです。」

「克服」

「そう、克服。今のところ失敗ですけど。」

失敗。彼は困ったように眉を下げながら、隣の席へと座った。カウンター席の椅子は少し高い。

千秋さんは片足を子どものようにふらつかせながら、ちょっとだけ口をとがらせる。

「お客さんは喜んでくれますが、実はぼく、珈琲が苦手なままなんです。」

内緒ですよ、と千秋さんは人差し指を唇にあててとろりとあまく笑った。

「そう、ですか」

「意外でしたか。」

「随分お詳しいから、愛飲家なのかと」

「ふふ、全部ぼくの努力の賜物ですよ。」

彼は力こぶを作ってみせた。私は飲みかけの珈琲を吹き出しそうになりながら、必死にこらえる。

「まあ、それもいつかは無駄になるかもしれないんですけどね。」

「無駄、とは」

「ぼくは妹のカフェを少しの間だけ手伝わせてもらってる身なので。」

そういえば、女性の店員がいた気がする。小柄でかわいらしい、髪の長い女性だ。あれがここのオーナーだったのか。

「じゃあ、いつかは……」

「そういうこともありえるかなあ、なんて。」

彼はもう一度笑ってみせた。彼の存在が一瞬かすんだような気がする。ぱちぱちと瞬きを数回すると、そこにはいつもの千秋さんがいた。

「それでも、克服したいと?」

「はい。できたほうがいいと思ったので。」

にっこり。そんな効果音が付きそうな笑みで、その努力は計り知れないだろうに、彼はそれが何でもないことの様に笑っている。

「誠さんも同じでしょう?」

「それは、そうですけど。でもそこまでして克服しようとは思いませんでしたよ。だから、千秋さんはすごいです」

苦手なものを克服するというのは難しい。時間が解決してくれる場合もあるが、基本的に苦手意識と言うのは本当に厄介で、いつまでもおのれに付きまとう。理由の分からぬまま苦手なこともあるそれを、千秋さんは「できたほうがいい」のそれだけで、できるようにしてしまったのだ。確かに彼が働いているこのカフェではそう言った知識が必要だろうし、大人の世界には珈琲がつきものである。けれど、あのおのれの拙さを思い起こさせるような苦い香りに、うつろな珈琲色。それと彼は何度向き合ったのだろう?どうして、わざわざここを手伝おうとおもったのだろう?苦手なものと向き合うという事は精神的にひどく疲れる。それに向き合い続けた彼の忍耐と得た知識は、それこそ努力の賜物だ。

「……わかって、くれますか。」

「ええ、わかります」

その時、珈琲色のまなこがゆら、と揺れた。ありがとうございます、という声が震えて聞こえた気がした。

「……千秋さん?」

「いえ、なんでも。やっぱり珈琲が苦手な者同士、わかりあえることがあるなあって思っただけです。あ、誠さんは元、ですけど。」

あはは、と彼は頭を掻きながら笑ってみせた。そして、カウンターに肘を置いて、じい、とこちらを見つめる。

「ねえ、誠さん。世界の終わりっていつだと思います?」

「世界の終わり、ですか」

唐突に問いかけられて戸惑う。しかしこれは『かすみの丘で』のワンシーンだ、と気づいた。男女が暗い部屋の中で紅茶を飲みながら夢想するのだ。子どもじみた空想だと知りながら『世界の終わりはいつだろう』と、肌と肌をよせて温め合いながら。

「ぼくね、思うんです。いっせいのせ、で終わったら唐突で面白そうじゃないですか?」

「はは、それじゃまるで打ち切りになった物語みたいだ」

彼はカウンター席で足をぶらつかせて、子供っぽいいたずらな笑みを浮かべていて、私が飲んでいるのは珈琲だ。再現には程遠い。それでも、なんだか自分の作品の中に入ったような気持ちになった。

「打ち切りかあ、誠さん的には縁起が悪いですよね。でも、僕はそれでもいいんです。」

「その理由は?」

「きっといい未来があるって、期待し続けるって、疲れるじゃないですか。」

彼の声が急にしゃがれて聞こえた。驚いて顔をそちらに向けると、彼はいつものように微笑みながら、どこからか垂れた水滴をつい、と人差し指でテーブルに引いて遊んでいる。

「だから、みんな一緒に終わるんです。いっせのせ、で。誰も置いていったりしない終わりですよ。」

「それはとてもいいかもしれませんね」

珈琲を一口飲む。いつもより苦みが強調されたような気がして、顔をしかめた。その時、彼は机に突っ伏していたから私の表情なんかわかりはしないだろう。

「ぜんぶが星のまたたきのようにおわったら、どれだけうつくしいんだろうな。」

彼は口の中でとくべつ大切な飴玉をころがすがごとく、いとおしげにつぶやいた。彼は机に突っ伏しているから、私にも彼の表情はわかりはしない。けれど、それは、あまりにさみしい響きを持っていた。

「でも、いっせいのせ、で終わったら美しいと感じる暇もないかもしれませんよ」

私は彼の後頭部に言葉を投げかける。彼はゆっくりと体を起こして

「それは……、すこし、残念かな。」

と、つぶやいた。その横顔からはうまく表情が読み取れなかった。

私はカップで温まった手を彼の手の上に重ねた。ふ、と千秋さんがこちらを向く。その珈琲色の眼は陰りを帯びていて、まるでふかい、ふかい海の様だった。なんとなく、このカフェの近くの浜辺を思い出す。この時間帯になると海は暗く、まるで黒いひとつのかいぶつのようになって、ざざ、ざざ、と砂浜をなめるのだ。

そしてその近くにはぽつんと一つだけの街灯があって、羽虫がその光に吸い寄せられている。

私もそのうちの一匹みたいに、彼に引き寄せられていく。なんとなく彼の手を取って指を絡めた。

彼の手は先ほどまで水滴で遊んでいたからちょっと冷たくて、そして、私の手を覆うほど大きい。千秋さんはからめた指を珈琲色のひとみでじっとみて。

私たちは触れるだけのキスをした。彼の金木犀の香水の匂いがほのかにただよって、私の飲んだ珈琲の味が彼の唇にうつる。それだけで、よかったんだとおもう。

「……苦い」

「……ですね。」

唇が離れていく。やはり、ふたりともその苦みを平気だとは思えない。そんなことに、どこか安堵している。世界から必死に隠した秘密が、ようやっとお互いにだけ通じ合ったような気さえした。 

お互いに唇をぬぐい合いながら、それがなんだかおかしくて、ふたりでくすくすと笑い合った。


  ●

それから、千秋さんとはたまにカフェの外でも会うようになった。

私と彼の関係のかたちは、世間で言う所の恋人に近かったのだと思う。「だと思う」というのは、私たちは友人以上で、恋人未満な気がしてならないからだ。

ただ、私たちの間には世界から見つかってはならない二人だけの秘密があって、それを言葉で表すには寡黙過ぎたのだ。だから、どちらからともなく手をつないで、どちらからともなくキスをした。それが二人の秘密を世界から守る手段だとでもいうように、ひそひそと耳打ちをする幼子のように、ひとりとひとりが存在することを証明するかのように。

「千秋さん」

「はい。誠さん。」

彼が柔らかい声で相槌を打つ。珈琲の色をした二つのひとみがこちらを見ていた。秋晴れの中、日差しをうけてそのひとみがすこしだけ明るく見える。私たちはまた手をつないで、そこにある温度を確かめ合った。びゅうびゅうと風が吹きつけても、その温度は確かにそこにあった。

それだけがすべてで、それでよかった。

 

冬もそろそろ重い腰を上げてやってくるころ。彼がどんどん元気をなくしてゆくように見えた。まるで憂鬱を背中に背負っているみたいだ。

「実家に、一度帰ってこいと言われまして。」

たびたび、彼と私はそのような話をすることがあった。彼はとある理由で前いた会社を辞めていて、それをご両親に言い出せずに妹さんの経営するカフェで手伝いをしているらしい。そんな話をするとき、彼のひとみはいつも以上に陰りを帯びた濃い珈琲色になる。会社を辞めた理由がよっぽどひどいのか、彼はその話をするときは決まって手が震えていた。生真面目な彼のことを、きっとご両親は心配しておられるだろう。

そんなことを考えていたら、閉店も間近。客は私一人しかいない。砂糖もミルクも入れないブラックの珈琲を飲み干して、いそいそと荷物を片付ける。会計を済ませて店から出ると、千秋さんが後を追いかけてきた。

「誠さん。」

「あれ、私、忘れものとかしてましたか」

「あの。」

噂をすればなんとやらだ。彼はもうエプロンをしておらず、私服だった。

視線をさまよわせて、何やらもじもじとしている。それを訝し気に見つめていると、彼はうつむいたまま、手を差し出してくる。

「誠さん、ぼくと一緒に来てくれませんか。」

遠くのさざ波にまぎれそうな声で、彼はそんなことを言った。私はとっさに言葉が出ずに、息をのむ。

そのひとみは、いつも以上に陰りを帯びた珈琲色をしていたからだ。深く煎った珈琲豆のように暗く、あるいはタナトスのささやきのようにあまいニュアンスを匂わせながら。潮風が体を覆って、苦いにおいがする。彼はどこへ行くつもりなのだろう。

「どこへ、」

千秋さんは黙りこくったまま、手を差し出している。カフェの近くの海がざざ、と鳴く。夜の海は不気味だ。波が陸に這い上がろうとする怪物のように押しては返していて、ぺたり、ぺたりと

すこしずつ、すこしずつ何かを侵食しようとしているかのようだから。

「千秋さん?」

「ずっと、とおくへ。いきたいんです、ぼく。このままじゃ妹に迷惑をかけてしまうから。」

「ずっと遠く、ですか」

これはまた判然としない。てっきり、実家に行くのについてきてほしいというのだと思っていた。

「こんなこと、誠さんに頼むのも変だって思うんですけど、でもぼく、実は一人が苦手で。」

なんてうつむきながら、彼が言った。声が震えているのが、笑っているように聞こえた。

海の近くの街灯が一本、電球が切れそうに点滅している。

「突然言われても……。今ちょっと、仕事で立て込んでて」

困った、と頭を掻く。実家についてきてほしい、という頼みだったとしても、私は同じように頭を搔いただろう。彼の力になりたい気持ちはあるけれど、本当に仕事が忙しいのだ。

「しばらくしてからじゃだめですか」

「しばらくって、どのくらいですか。」

「えっと、仕事が落ち着いてから、とか」

「それはいつですか。」

仕事で忙しい、ということを承知できない彼ではないだろうに、彼は切羽詰まったように言葉を重ねる。その勢いがなんだか恐ろしくて、私は、

「そ、それにしても意外だな。一人が苦手なんて。珈琲のこともあって、千秋さんは努力でなんでもなんとかしちゃう強い人なんだって思ってました」

なんて、ちょっと揶揄ってみる。

いつもの彼なら、努力の賜物です、と得意げに力こぶでも作ってくれると思ったのだ。

暫くの静寂が、いたいほどだった。突然、永遠が訪れたような気さえする静けさだった。

その沈黙が、ばちん、という音でやぶられる。

街灯の光につられた虫がぶつかったのだろう。街灯は音を立てて、それきり付かなくなった。

「……そうですか、そうですね」

彼は眉尻をさげながら、笑っていた。

だというのに、どうしてそんなに悲しげな声で、私を呼ぶのだろう。

彼は手を差し出すのをやめて、私に近づいてくる。後ずさりそうになった私の手を、彼は優しくとった。ぎゅう、と痛いほど握った彼の手は震えている。「千秋さん、」と名前を呼んだ唇は、やさしく唇でふさがれてしまった。触れるだけの、互いの体温がひどくさびしいキスだった。

息がかかる距離。彼の唇は、もう、前ほど苦くはなかった。彼の金木犀の香水が、ふと鼻をかすめた。握った手は離れていく。なんだか、もう二度と彼の名前を呼べないような気がした。


「では、また。誠さん」

彼は手を振って、お気をつけて、と笑っていた。


その日から、私が千秋さんの姿を見ることは二度となかった。


『autumn』はしばらく休業になっていたが、2週間もすると営業を再開していた。

そこに千秋さんの姿はなく、妹さんは彼の行方については何も話してはくれなかった。

「兄さんは、弱い人だったんですよ」

ぽつり。妹さんがそうつぶやいたのが頭から離れない。


店から出て、空を見上げる。はらはらと雪が降ってきた。ああ、千秋さんは、秋を連れて行ってしまったのだ。金木犀と珈琲の香りだけを連れて。たった一人で。

彼もまた惑わされていたに違いない。だというのに、私は気づけずにいた。いいや、いつのまにかあの苦みに私が慣れてしまっていたのだ。世界で二人だけの秘密を、ひとりで抱えさせてしまったのだ。

ふ、と握った手がくうをきる。冷たい温度だ。ひとがひとりぼっちの温度だ。きっと、彼はこの温度に焼かれてきえたのだ。

そう思うといやに腑に落ちてしまって、私は家に帰って、かじかむ手でシャーペンを握った。 

今まで書いた原稿をぐしゃぐしゃにしてゴミ箱に投げ捨てる。

真っ白な原稿に、世界の終わりは唐突だ、と書きなぐった。

せめて、物語の中でぐらい、世界が終わればいい。いっせいのせ、ですべてが終わる、そんな救われた話があればいい。

彼にはきっと届かない。それでも、この世にそんな話が存在する、その事実だけで誰かが救われたらいい。私たちと同じように、世界に二人だけの秘密を背負った誰かへ。

青春の終わり。そんなものに似た珈琲色の苦みを飲み下せなかったあの頃へ。

ふは、と息を吐く。店で買ったグアテマラの粉末で、珈琲を淹れる。砂糖は入れないで、ミルクもいれない。

千秋さんのおかげで飲めるようになった珈琲は、千秋さんがいなくなってもおいしかった。


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