さなぎの女
7月某日。夏風に背中を押されて、俺は部長に退部を申し込んだ。
風が運ぶ汗のにおい。のどが渇く。うまく息が吸えなくって、それでも視界だけはぱっと開けて。
足が、向こう側へ急げ急げと叫ぶ感覚。渇きだ。どうしようもなく渇く。
その先へ、その向こうへと求める渇きだ。
今まではそのどれもがいとおしかった。
腕を伸ばして、肩や二の腕の筋肉が伸びる感覚。
指でふちをなぞるように、それでいて離さないようにと、ぐ、と力が入る感覚。
湿った掌に収まる、なにかを包む感覚。
ゴールテープを切って腹に巻き付くそれを振り払う余韻と、はくはくと酸素を求めて走る鼓動。
それすらも無意味な動作として、生活をむしばんでゆく感覚に変わったのはいつからだろう。
俺はまるで死にかけのセミのようであった。
か細い声をあげながらただもがく。
天寿を全うする前に何か無遠慮で大きなものに踏みつぶされる。
そんな予感を、只毎日うっすらと感じている。
俺は陸上部のエースだった。
走ること自体に鬱憤だとか不満だとかそんなものはみじんもなかった。
ただ、なんとなく練習に行きたくなくなって、部活をさぼってゲーセンへ行ったり、見たくもない映画を見に行ったりした。流行りの映画などわからない。馴染みのない写真とイラストのポスターが立ち並ぶ。泣ける。笑える。驚く。そんな文言の入っていない、ひっそりと終わりかけている映画を選んだ。
学生割引。1200円で俺は2時間分の世界を買った。
眠りはしない。ただぼんやりと画面を眺めた。
見たことのある顔の女優が男の言葉に泣いていたのが妙にエロかった。どんな話だったのかあまり覚えていない。ただ女の泣いていた姿だけが頭にこびりついていた。
映画の余韻が偏頭痛みたいに残っている。カラになったコーラのカップを捨てる。
じゃら、と音を立てる氷。映画の後味を喧騒で穢す甘い声。寄り添う男女。タバコの匂い。
そうして、香水と、少しの汗の匂い。ただなんとなく、部活へはいかずに遊びというには楽しさのかけらもない動作に日々を費やしていた。
ユーフォ―キャッチャーのクレーンの動きをじっと見る。軽快な音楽と、目の前に横たわったぬいぐるみを、透明な箱から救い出す行為にいったい何の意味があるのか。
特に取りたくもないそれを、横倒しにしたりななめにしたりした。3000円あまりの虚無感。やっぱりこの行為に意味が見いだせず、家に帰った。
家に帰ると誰もいない。
ひどく喉が渇いたので、コップに注いだ冷たい麦茶を飲み干す。
渇きは癒えたが、何となく後ろめたくなった。机の上に出した携帯のバイブレーションが鳴る。
部長からだった。メッセージを読んだ。
いつもと違う語尾は昨日、ゲーセンの前でうろついていたのを見つかり、その勢いでやめますと言ったからだろうか。もう一度きちんと話をしましょう、という内容だった。
話す内容なんてこれっぽっちもないのだ。俺は、なんとも形容しがたいこの無気力を青春らしい叫びにすらできない。こんなことは言い訳にすらなるはずがない。かといってほんとうにやることがないので、俺は自転車に乗った。
ぬるま湯から顔を出す。羊水の中で揺蕩う俺は、いったい、これから何になるのだろうか?
ただ、夏を愛していた。肌をうっすらと焼くような痛み。汗のにおい。
そして、常に襲い来る渇き。うだるような暑さの中で走ると、冴えた一点が見えてくる瞬間。
それがたまらなく好きだった。それが疎ましくなったのは、いつからだったろうか。
輪郭のないものに囲まれて、それに抵抗できないまま日々が過ぎていく。
下駄箱の前で靴を履き替える。なんとも言えない湿った匂いと、砂っぽい空気。
かきん、と鉄の音。歓声があがったところを聞くに、野球部のエースがホームランを打ったらしい。男の声ばかりが響く。上履きを履いて来客用の玄関口から運動場を覗くと、美術室で見たデッサン人形みたいな人影が、番号を背負ったユニフォームをきて運動場を駆け回っていた。俺はしばらくその人形劇を眺めた。オーライ。叫びながら、ひとりが球をとった。また別のひとりが走って、砂埃をあげる。歓声が上がる。勝敗が決まったらしいが、どちらが勝って負けたのかなんてわからなかった。
陸上部の部室へ向かう。行ってどうするのだろう。何も考えちゃいないが、足が勝手にそちらへ向いていく。向こうからやってきたまたべつのデッサン人形が視界に入ったから、道を開けて大声でこんにちは!を言う。校則で決まっているこの挨拶はとっくに形骸化していて、誰も驚かないし反応しない。
何の意味があるだろうと問うても誰も答えてくれやしない。大柄のそれが通り過ぎるのを待って頭をあげる。どこもかしこも決まりきったシルエットの中で、俺は時々誰が誰だかわからなくなる。
きっと、そのうち、俺自身も。気分が悪くなったので俺は何も考えないように努めた。
部室の前までたどり着く。さび付いた引き戸は思ったより引っ掛かりながら嫌な音を立てて開く。俺は呼ばれたから来ただけだ。そうして、ここまでくると俺に選択肢などはないのだった。だから選ばないだけなのである。
勢いでやめますといったけれど部長はやめさせてはくれない。理由をつけて、「何事も辛抱だ、頑張れよ、岸」というのだ。それがすべてだ。もう決まり切っていることを、ご指導ありがとうございます頑張ります、と言いに行く。俺の反抗や意思なんかこんなものだ。絶対的な何かが存在している場所であがくほど、俺は頭が悪いわけじゃない。俺は大変あきらめのいい男だった。
「夏休みが終われば秋の大会が目の前だ。今回も期待しているぞ、岸」
はい、と俺は短く返事をした。期限日だけがおぼろげなかたちの俺をまだここに引き留めている。夏休み明けの宿題の提出期限。
もうじきある文化祭の準備日。
2学期の開始日。
そして、秋の大会。
それ以外のすべてが曖昧だ。俺の顔色が悪かったのか、今日は帰っていいと言われた。失礼します、と大声で頭を下げ部室を出る。
秋の大会。俺は学生手帳をひらけてみる。日程表をぱらぱらとめくると、最後のページにかっちりとした黒い詰襟に、短く切りそろえられた黒髪の、眼付きの悪い男の写真がそこにある。
服屋にあるマネキンを思い出して俺はなんだか気分が悪くなった。生徒手帳をポケットにしまう。
家に帰ってもやることはないし、このまま帰るのも非常に気が引けた。かといって練習する気にもなれず、俺は陸上部に見つからないように運動場を眺めることにした。廊下の窓を開けて、遠くから豆粒を眺める。どうせ向こうからは俺だとわかりゃしない。ぬるい風が俺の顔に吹き付ける。目を細めて空の境目を見る。遠く、遠く、あの先へがむしゃらに、何も考えないで走っていけたらどんなに良かったか。
「おうい、岸。またサボりか?暇ならこれ、手伝ってくれないか」
ふいに後ろから声を掛けられる。アルトサックスみたいな響きの声の、針金細工みたいな男。
「セイブツのホシノ」だ。あだ名は「さなぎ」である。由来はいつも集会で「君たちは可能性のさなぎだ」と語るから。長い手足を振り回して、君たちは可能性のさなぎだ!とにんまり笑うのである。クラスでの物まね名人のイマダが、よく黒板の前に立って「君たちは可能性のさなぎだ」と語るせいもあって、彼の印象はますます「さなぎ」に落ち着いている。ぼさっとした、おさまりのわるい天然パーマと、いつもちょっとずれてかかっているメガネはよりいっそう彼をだらしなく見せる。余った手足の丈を折り曲げるようにして歩くせいでひどい猫背に見える。それもきっとこの学校の中でのこの男の異質さを表しているのだった。
「……はい」
そしてこの男は一言多いんだよな、と思いながら、針金細工の抱えるノートの一部をもってやった。
そんないきさつで、俺は生物準備室でジュースを飲んでいる。
一度と言わず二度三度断ったが、思ったよりしつこいさなぎはついに自分のマグカップと、来客用の紙コップどちらにもジュースを注いで、挙句の果てに強制的に乾杯をさせてきた。
これで共犯友達だ、と笑うさなぎのマグカップに入っているジュースの方が多く、結局この男は自分がジュースを飲みたかっただけなのだろう、と思う。白い紙コップに満たされたうすいオレンジをしばらく眺めて、ちら、とさなぎのほうをうかがうと清々しいほどの勢いでマグカップの中を干していた。生き返るねえ、なんて悠長なことをいっているが、この学校の校則の厳しさを知っての行為ならば、さなぎはちょっと馬鹿なのかもしれない。
さなぎはもう一杯オレンジジュースを飲み干してから、メダカに餌をやり始めた。
俺は空調のきいた部屋の窓から見える運動場の、数学的で形式的な美しさを鼻で笑う。
どこを見渡しても、同じ髪型。同じ丈のスカート。誰も規範からははみ出ない。転校してきた当初、席順が男子と女子できっぱりと別れ、教室を真っ二つにする性別に驚いたものだ。そして俺は、その中に放り込まれた虚数の様だった。
ふ、とさなぎの手元に目をやる。水槽の中には草が植えられており、さなぎは何かを熱心に見つめていた。何かの繭のような、蛹のような。
「これはね、蝶の蛹さ」
「へえ。」
「興味ない?可能性のさなぎがどんな形をしているのか」
ちょいちょいと手招きしてくるさなぎは、これまた何が面白いのかにっこりと笑っていた。いつまでもその場で突っ立っていると、ほら、と腕を引いて俺をその水槽の前に立たせる。
そこには木の枝で体をそらせている形の蛹があった。
「もうすぐなんだ、羽化するの」
そいつは細い一本の糸でつながれていた。葉を折りたたんでかぶせたような形をしていて、全体的に茶色っぽい。逃げることも、周りを見ることも一切を捨てて、自分を変えるために、一度中で自身をドロドロに溶かすのだそうだ。
自分の境界すら曖昧になって、それでも最後はきれいな蝶に成るのだという。
「これは何の蝶になるんですか」
「さあ。可能性のさなぎだからね」
可能性のさなぎ。この男の代名詞として学校中で笑いものにされている言葉である。
まさかそんなことを本気で信じているのではあるまい。幼虫の頃からどんな蝶に成るのかなんて決まっているし、俺たちの未来は大体行き先が決まっている。
良いところに就職する様に頑張って、何の変哲もない大人になるのが関の山だ。さなぎはどうせ、いつか君たちは大きく羽ばたいていくのだ、と言いたいのだろう。今時どこのドラマもそんな手垢のついた言葉なんかいいやしない。だから笑われるのだ。
絶対的なものの前では、可能性も、不可能も、すべて無意味だ。
なのに、こんな場所に可能性なんかあるだろうか。
可能性のさなぎなんか生まれるだろうか。
みんなそう感じているから、可能性を歌うあんたなんか、裸の王様なのだと。
ならば、それに抵抗しようとする俺はいったい何なのだろう。
夏休みも半ば。あの日から、俺はさなぎを手伝っている。ごく自然に「じゃあまたあした」なんて言われて戸惑ったものの、その後取りつくしまもなく職員会議に行ってしまったさなぎを待ち続けることもできず、翌日強く抗議することもできないで、俺はただ何となく毎日学校へ来て、さなぎを手伝う羽目になったのである。
俺にも自分の時間が必要だ、なんていってみようと思ったこともあるが、家にいてもソワソワと落ち着かない。それに、さなぎの手伝いをしている間は部活の事を考えないですんだ。
そんなことだから、罪悪感をスポイトで吸い取って日々の上に垂らしつづけるようであったことに知らないふりができた。
断続的に続くそれは、無自覚に、そして確実に濃くなってゆくのに、俺はそれに気づけないでいたのだ。
俺の愚かさはいっそかわいらしくもあっただろう。その上に重ねる愚行は、一体どこまで積みあがるのか。
夏休みをさなぎの手伝いに費やしていると、わかってくることがあった。
さなぎは毎日、水槽の中身を大切そうに順繰りに眺める。
メダカ、キンギョ、ザリガニ、それに、蛹。
特に、蛹の水槽はじっくりと眺める癖がある。そんなに見つめても昨日と何も違わない蛹がそこにあるだけだというのに、やつは長い手足を折り曲げて、じいっとその水槽を眺めている。
メダカやザリガニの水槽を眺めていた方がよっぽど退屈しのぎになるだろうに。
餌がもらえると勘違いしたメダカが、ほら、水槽の前を通ったさなぎを追って泳いでいる。
俺の方を向いてはさみをふりあげるザリガリなんかも、かわいらしいじゃないか。
「蛹のなにがそんなにいいんですか」
「うん?」
さなぎはこちらを振り返る。ふわ、と柔らかい髪がゆれた。しぱしぱと目を瞬かせて、
「何がいい、か……」
さなぎは蛹の入った水槽を眺める。しばしの思考。そして、
「幼虫と成虫では形が大きく異なる。まったく別の形になるその途中の輪郭だ、と考えたらいとおしくならないかい?」
と、やさしい横顔で笑う。
「蛹なんか、どれもおなじ形じゃないんですか」
「それでも、その幼虫が懸命に作った形さ」
さなぎがこちらに視線をよこす。夏の日差しで照らされた彼の目が、少しだけ茶色く見える。
「蛹にはね、すこしでもふれたらいけないんだ。見た目よりよっぽどもろいのさ」
俺は強固にみえたその鎧をまじまじと見た。さなぎは俺に水槽の前をゆずって、とん、と水槽のガラスを長い人さし指で叩く。
「世界と自分の間に境界線を引いて、押しつぶされないように閉じこもって、綺麗な蝶になろうとしているんだ。それって、うつくしいとおもわないかい?」
一緒にのぞき込んだ水槽の中には、じっと我慢強く耐えている蛹がひとつ。
こいつも、なにか無遠慮でおおきなものに踏みつぶされそうな心地になった事があるだろうか?
「中身が、もとの自分とわからないまでにドロドロになっていても?」
俺の声が震えている気がした。手の中にじっとりと汗をかいている。水槽のガラスに反射する俺は不安げな表情をしていた。
転校してきてすぐに校則通りに切りそろえた髪に、飾り気のない、無駄な折り目ひとつない白いシャツ。切り取り線に沿ったように無駄な部分を切り落とした無個性なかたちの俺は、学校のパンフレットにでも載っていそうな風貌で、はたして、これは本当に俺だろうか?
「そうさ。それは在りたい姿になろうとしている過程なのだから」
過程。俺はさなぎの後を追うようにつぶやく。
おまえはいいよな、自分の輪郭があって。部活に行かなくなったせいで父親に殴られた頬に手を当てた。さなぎが、お茶にしようか、と俺の頭を撫でて笑う。節くれだった大きな手だった。校則違反ですよ、という憎まれ口すらうまく出てこないで、俺はさなぎの手伝いをした。
俺の陸上部生活は、ちょっとやそっとの年数ではない。小学校の時から走るのが好きで、俺はずっと駆け回っているような子どもだった。
小学校、中学校ときて、高校二年の夏。ふとやめた陸上部生活の間に入り込んだのが、この生物準備室での日々だった。
ちょっとたてつけの悪い引き戸をひいて、メダカやキンギョやザリガニに餌をやり、蛹を眺める。
さなぎがやる気になったら、授業の準備の手伝いをしたりする。
内緒だぞ、と節くれだった人差し指を唇に当てていたずらっぽく笑って、お菓子パーティを突然開催したり、ねるねるねるねは知育菓子だから実験で、これは授業だと言い出すさなぎの無茶苦茶な暇つぶしに付き合ったりした。俺も俺でなんだかんだ順応して宿題を持ってきて、さなぎが採点をしている隣で宿題をやった。
俺の日常の中に、いつのまにかそんな日々が入りこんでいたのだ。そんなことをしていたら、上手く説明できないが、ふ、と気づいたときには、俺はもうさなぎを目で追うのが、さなぎを探すのが癖になっていた。そのきっかけの瞬間は夏のどこかにあるはずなのに、散らかったさなぎの机みたいにごちゃごちゃで、いまだ見つけることができないでいる。いつのまにか、とある事実だけが俺の中に居座っていた。
鼻歌が絶妙に下手で、古い曲ばかりを口ずさんでいることや、着ている服の系統がいつも同じことに気づいてしまったのも、それがこいつのずぼらからくるものであることに気づいたのも。ゆるりと指に巻き付く、おさまりのわるい髪をくしゃくしゃにかき混ぜるのが癖であることを知ったのも。片付けをやらない、だらしないさなぎ。俺が行かなければきっと今頃資料の山の中に埋もれて、助けて岸~、なんて情けない声をあげているだろう、さなぎ。
そうやって気にかかるすべてが何を指すのかを、俺は両手で包むようにして優しく閉じ込めている。それはまるで蛹のような形をしていた。
ああ、これが俺の蛹なのだ、と思った。その中身を知りたいと思ったのは、はたしていつからだっただろうか。俺はその蛹が壊れぬように動かないでいようと思った。その蝶が羽化して、どんな姿をしているのかを見たかった。これは俺の抵抗なのかもしれなかった。なにか無遠慮でおおきなものに対する、抵抗。俺は何になりたいのだろう。何に、なれるだろう。この蛹の正体がわかれば、
なにかわかるのかもしれなかった。
「おお、岸。おはよう」
がら、とちょっとばかり引っ掛かりのある引き戸をひくと、いつものようにさなぎが、ホシノが、そこにいる。
今日は曇りだからか、柔らかい髪はいつも以上にぼさぼさで、ちょっとだけくるりと巻いている。しばらくはそんな天気が続くらしい。それを一度笑ったら子どもの様にひどく拗ねられ、本当に面倒くさい思いをしたから、努めて笑わない。
「お、はよう。ホシノ」
なんとなく、初めて、ため口を使ってみた。
心臓はばくばくと音を立てている。叱られる、という緊張と、あとは、なんだろうか。
その答えはどこにあるだろう。ついこのあいだ気づいたばかりの蛹の中になら存在するだろうか。ホシノは少しだけ目を見開いたが、
「先生、だろ」
と笑って、俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
なんだ、許されるのか、と内心胸をなでおろす。
「約束の時間から5分遅れてるぞ。ちょっとは急ぐ素振り見せてくれよ~」
「……はあ、」
そもそも夏休み中の生徒を呼び出して手伝わせている身で何を言っているのやら。遅刻くらい勘弁してほしいものである。俺のため息にも、ホシノは柔らかにうねった髪をかき混ぜながら笑っていた。今日は特別手伝ってほしいんだ、なんて、いつも言ってる癖に白々しい。今度はプリントを数えてほしいのだという。
新品の紙は手を切りやすいから気を付けて、といいながら、ホシノは指サックをこちらによこした。古びたラジオから流れるニュースをBGMに、紙をめくる音だけが聞こえる。少し湿気を含んだ紙はどうにもめくりづらい。二枚ひっついてめくれてしまった紙に舌打ちをしながら、何度か数を往復する。それを仕分けて、ホシノがホチキス止めをする。かち、かち、とリズムよく進んでいた作業だったが、あるニュースを境にぴたりと音がやんだ。
「……どうかしたのかよ」
「ああ、いや。……そうか、久方が」
ヒサカタ。それは最近よくニュースで聞く名前だった。
「あの、最近亡くなった宇宙飛行士の?」
「うん、俺の教え子でね。最初に担任したクラスの子だから、印象にのこってて」
それは意外な接点だった。最年少で宇宙飛行士になったらしいヒサカタさんとホシノが知り合いだったなんて。
「……やっぱり、高校時代からすごかったんだろ。ああいう人って」
俺はもうじきある進路調査を思い浮かべながら自嘲的に吐き捨てた。一年のときに書いた進路調査票には、俺は何と書いたのだろう。そんなこともとうに忘れて、俺は今何をしているのだろう。走ることもやめてしまって、こんなところで。
「そうだなあ、」
やけに含みのある相槌だった。それは否定の様にも聞こえたし、何かを考えこむようでもあった。
「なんだよ」
「確かに、とびきり優秀だったよ。ほとんどなんでもよくできた。でも、なんていうんだろうなあ」
彼は特別跳ねあばれている毛先をくしゃくしゃにかき混ぜる。
「彼は、ただまっすぐ恋をしていただけなんだと思うよ」
何が言いたいのかよくわからない。ホシノは曖昧に笑って、蝶の蛹の入った水槽をぼんやりと眺めた。俺はその横顔をじっと眺めている。窓から差し込んだ光が、ホシノの輪郭をゆるりとやさしく撫でているのを、見ている。
ゆる、と空気を吐き出す。ため息にも似たそれが、後悔のいろをしていた。
「何に」
「そりゃあ、自分のとびきり愛するものに」
その横顔があまりに寂しそうだったから、
「じゃあ、そんなものがない俺はふらふらしてて無様だな」
「はは、そんなことはないさ」
そんなすねた自虐しか、出なかった。話題を自分に向けることでしか、この空気をかえることができなかったのだ。
「岸はまっすぐ飛ぶ蝶をみたことがあるかい」
ホシノがこちらを向かないまま、目を細めて言葉だけを投げかけた。なんて横着な奴だ、と思いながらも今のホシノに文句を言う気にもなれなくて大人しく記憶をたぐる。
「……ない」
「それはなぜだと思う?」
「……そんな蝶はいないから?」
「そうさ。答えは簡単。蝶はまっすぐとべないんだ」
ホシノは柔らかい髪を混ぜていた手を止める。
「翅が大きいからね、そのまま開いたのでは空気抵抗が大きくて飛べない。前翅と後翅に時差を作り、体を持ち上げるようにひねって飛ぶんだ。あんなに大きくてきれいな翅だけれども、相当な
苦労で飛んでいるのさ」
俺はふ、と蝶を思い浮かべた。クロアゲハ、モンシロチョウ、アサギマダラ、ムラサキシジミ、ルリタテハ。あんまりにもホシノが毎日のように蝶の蛹について語るものだから、蝶に詳しくなってしまった。
「ふらふら飛んでいるように見えても、それが彼らの中で最も長距離、長時間飛ぶための工夫なのさ。それが彼らの懸命な生き方なんだ」
「……何の話なんだよ、急に」
「愛し方は人それぞれ、生き方もそれぞれ。可能性のさなぎの話さ」
また、『可能性のさなぎ』だ。ホシノは体をぐうっとかがめ、蛹の水槽の中をガラス越しにのぞき込む。その時の頬に落ちたやわらかな曲線の影が、癖のある髪とともにらせんを描きながら俺の前へと表れる。
「でもね、宇宙飛行士だけはやめておけ、って言ってやればよかったなと思うよ」
「……あんたはその、ヒサカタさんが綺麗な蝶になってないと思うのかよ」
ホシノは、それには答えないで、ふ、と笑った後に「素敵な蝶になりますように」と祈っていた。
俺の蛹も、できたら、綺麗な蝶だといいなと思った。
夏休みが終わって学校が始まってから、俺は部活の顧問に呼び出された。部長が改めて夏の事を顧問に話したようだった。秋の大会も近いし、そろそろ練習に戻ってくるように、と俺は顧問に半ば怒鳴られるように強く念を押された。
三年の引退が近い。部長の焦りを帯びた目を見ると、二年でエースの俺は、間違いなく次の部長になるのだろう。続けることに意味があるだとか、内申点がどうだとか、根性がどうだとか言われたが、結局は大会で勝つために俺を手放したくないのだ、あいつらは。
そんなものを背負って走るなんて、俺はまっぴら御免だ。俺はコースの上を走る俺を思い浮かべた。風が運ぶ汗のにおい。のどが渇く。視界が開けて。足が急げ急げと叫ぶ感覚。そして、ゴールまで響き渡る黄色い声援。
俺の名前を呼ぶのはそんなものじゃなくて、ホシノだけだったらどんなにいいかな、と思った。暑苦しい声援や厳しい発破じゃなくて、ただ春の午後の様にやわらかな、あの午睡を誘うような声であいつが呼んでくれたらそれでいいな、と思った。俺はその声を聴きながらのびのびと走りたい。そうしたいのだ。俺はおかしくなってしまったのかもしれない。それが事実だとしたら、原因は間違いなくあの夏のせいで、ホシノのせいだ。
その原因サマは、学校が始まっても休み時間に俺を呼び出しては手伝いをさせた。相変わらず放課後の部活から逃げ回る俺をかくまうように生物準備室にいれてくれるところは感謝しているが、休み時間まで呼び出されてはたまらない。しかしこの男にそんな事は関係ないようだった。
「ホシノは、俺たちの事、『なにか』になれるって信じてるんだろ」
かち、かち。向き合いながら俺たちはまたプリントのホチキス止めをしている。理科の授業はプリントが多くていけない。
夏を超えて、新学期が始まって秋になった。ということはそろそろ三年生へ向けて進路指導が始まる。ホシノの「君たちは可能性のさなぎだ」という台詞は終業式以来だろうか。針金細工みたいな手足をのびのびと振り回して力説する姿は、夏になる前よりは滑稽味が薄れている。
俺だったら、何になれるだろうか。漠然と今まで続けていた陸上関係の仕事を思い浮かべるが、今となっては少し複雑な気持ちだった。
「あのね、岸。勘違いしちゃいけないよ」
ホシノはいつになく真剣な声色だった。へらりとしたいつもの態度も、だらしのない間延びした口調もなりをひそめている。
「さなぎは『なんにでもなれる』んだ。『なんにでもなれる』は『なにかになれる』とは違うよ」
がち、とホチキスの針が詰まった音がした。
「は、」
ホシノの言っている意味が分からなかった。
「いや、だってあんた、俺らの事、可能性のさなぎだって」
「なんにでもなれるんだから、なににもなれないこともあるんだよ」
からん、とホシノのマグカップの中の麦茶の氷が解けて、グラスの中で鳴いた。
ふう、とため息交じりの相槌みたいな音をこぼして、ホシノは続ける。
「いびつな形に成長するさなぎもあるだろう。それもまた『可能性』だ」
そんなのって、そんなのって、あんまりだろう!
「へりくつだ!そんなの!」
「かもね」
そんなこと、教師のあんたが言っていいのかよ、と叫びたくなった。
両手に包んだ中にある蛹が、いびつに成長する可能性なんか考えたくもなかった。
きっときれいな蝶に成長するよ、と言ってほしかった。
大事に抱えてきたこの蛹を、ホシノに抱きはじめた思いを、羽化させていいのだと。
「な、なんなんだよ、あんた」
「岸、」
「こんな自由もクソもないところで“可能性”なんて説くから、お前は何かになれるって言ってくれるって期待したじゃんか、」
そして、たとえこのまま俺が走らなくなっても、きっと何かあるって、まだ何かになれるって信じてくれると思っていた。
「あんたみたいなへんなやつの手伝いなんてもううんざりなんだよ、」
ああ、嫌われる、と思った。
「俺だってこのままじゃだめなんだってわかってるよ、でも、このままでもいいって言ってくれるって思ってた!」
ホシノは、どんな顔をしているだろう。てのひらの中の蛹を外の世界から隠すようにかばう。もはや俺の蛹は俺にしか守れないのだ。でも、もしかしたら、嫌わないでいてくれるかもなんて。
「なあ、なんか言えよ」
それでも、『君は可能性のさなぎだ』と笑ってくれるホシノがいることを、望んでいる。
「……ごめんね、岸」
彼の答えは、それだけだった。
気づけば俺は生物準備室を飛び出していた。
俺の蛹は、一体何になるだろう。何かになれるだろうか。何にでも、なれるだろうか。
あれから一週間が過ぎた。俺は生物準備室によりつかないでいたし、ホシノも俺を呼び出しはしなかった。終わってみれば案外そんなものである。心にぽっかり空いた穴のなかに通り過ぎる風が、蛹に冷たく吹き付ける。それでも、密かに廊下でホシノとすれ違うたびに目で追ってしまうのは、職員室の中にその針金細工のような背丈を探してしまうのは、授業中に彼を見つめてしまうのは、ゆるされるだろうか。祈るように閉じた両手の中に抱えた蛹は、たとえ孵っても掌の中に閉じ込めておくから。
「ホシノ、結婚するんだって」
そんな秘めた誓いもむなしく、自分の呼吸じゃないみたいな音が聞こえた。
まさか、まさかそんなことって。だって、そんなの嘘だろう?
ホシノは俺が嫌になるくらいだらしなくって、ちょっと上から目線で、生徒の俺に頼るくらいなにもかもだめだめで、見本にしちゃいけないような大人だ。
俺が見に行かなきゃ椅子でそのまま寝てたような男だ。なにもかもめちゃくちゃで、こうと決めたら強引で、服を選ぶのが面倒だからって何着も同じような服を持っているくらいずぼらで。
雨の日は大人げなくすこしだけ機嫌が悪くなるし、言葉廻しが妙にきどっていて、セイブツの事しか興味がなくて。
一緒に食べているお菓子の最後の一口なんか生徒の俺に絶対に譲らないし、むしろ生徒の俺の分まで食うような奴だ。ジュースだって自分の方に多く注ぐし。
俺が生物準備室に行かなくなったら自分から話しかけてこなくなるなんてひどいやつで。
そして、なにかわからないけど後悔を抱えてて、それを俺に話してくれないようなあんまりなやつだ。
そんな男が、まさか。まさか結婚だなんて。
俺は教室を飛び出して走った。廊下を走るなと怒号が飛ぶ。
先輩の隣を挨拶もなく通り過ぎる。
岸、岸、岸!と、呼び止めるなにもかもを振り払って、俺は走った。
全部、全部がどうでもよかった。
走る。ああ、のどが渇く。うまく息が吸えなくって、それでも視界だけはぱっと開けて。足が、向こう側へ急げ急げと叫ぶ感覚。渇きだ。どうしようもなく渇く。その先へ、その向こうへと求める渇きだ。久々の、渇きだ。あれだけサボっていたにもかかわらず、俺の脚力はちっとも落ちちゃいなかった。それで、悟ってしまった。俺には、はなから、ひとつしか残っていないのだ。
「お、岸」
生物準備室にたどり着いて、いつものひっかかる引き戸を乱暴に開ける。
ホシノは笑っていた。いつもどおり、笑っていた。
「そんなに急いでめずらしいね」
いつものように髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、ちょっと歪んだメガネに、珈琲のマグカップを抱えるようにもって。
左手の薬指にはナイフのような鋭くつめたい、そして祝福の色が、俺をわらうように光っていた。
ああ、やっぱり、ほんとうに、ほんとうにひどい男だなと思った。
「……先生」
「うん?」
星野先生は首をかしげる。
「俺、また陸上やります」
最初からわかっていたことだった。だから俺は、そうするしかないのだ。
俺は、非常にあきらめのいいおとこだった。
けれど、まっすぐ、ただひたすらまっすぐに、最速で走り抜けるから。
誰にもたどり着けない、追いつけない速度で、ひとりぼっちで、レーンを走るから。
一番見つけやすいように、走ってみせるから。
「どうか、見ててください」
精一杯声を張って、お辞儀をする。
びし、と90度。教わった通りに、深く、深くお辞儀をした。
「……そっか、頑張れよ」
星野先生は、髪をくしゃくしゃにかきまぜならが笑う。
ありがとうございます、と運動部らしい大声で言うその影で、ひきつったような笑みしか浮かべられない俺のてのひらには、ちょうど、何かになりそこなった蛹を握りつぶしたような不快感と汗がにじんでいた。