The Prologue
世界は人類が考える以上に広大で、そして矮小である。
二XXX年、主観的に人類の母である地球と、父である太陽とその子供たちで構成された太陽系、その外縁部を越え、宇宙往還機による他の星系──アルファ・ケンタウリ星系という名の深淵──との往復を目指すタルタロス計画が告知された。かつての技術力では移動中に想定外のアクシデントが発生しスペースデブリとなってしまう可能性や、そもそもその移動を行なうためのエネルギーの確保方法、そして搭乗員の精神的、生理学的な負担などといった現実的、非現実的含むさまざまなリスクから何度も計画されては却下あるいは白紙化されてきた新たな人類の夢。そこから二十年という歳月を得たことによって生まれた若き天才たちによる新たな技術の開発や既存の技術の改良などによって、アルファ・ケンタウリ星系への到達、そしてそこからの帰還の現実性が大きく飛躍し、計画は関係者一同による成功への絶対的な確信を得た状態で承認され、そして着工した。告知から更に二十年の間に更に増えた天才たちなどによる影響によって人類の文明レベルは再び大きく進歩し、更に計画の現実性が増した。所々で修正を入れながらも、無事に計画は始動した。
一年後、予定通りの日程に地球を出発したキュクロプス号は順調に暗黒の海を泳いでいた。やがて暗黒の海は巨大な氷海が浮かぶ極圏へと移り変わり、キュクロプス号に搭載された高性能な人工知能による自動航海は氷海に衝突しないルートを算出し、快適な船旅を搭乗員の二人に提供していた。搭乗員の片割れは百八十センチほどの白衣を纏った成人男性であり、そこそこの長さに伸ばした茶鼠色の髪を背もたれに掛け、金色の視線をもう一人に向けながら、ペンを手帳に走らせていた。男の視線の先にいたもう一人の搭乗員である少女は男の十センチ下にも満たない高さに、同じく茶鼠色の髪を少女らしい服の上に被せ、窓の外の海を眺めていた。
「相変わらず氷製天体ばっかり、ずっと見てると飽きちゃうよ」
彗星の素となった天体群を透明な壁越しに観察しながら、少女が不満を漏らす。
「今はどのくらい進んだの?」
「僕たちは五万天文単位付近の座標にいるらしい。予想ではオールトの雲は十万天文単位にまで広がっているはずだから、あと一年はこの極海で氷の星々を眺める覚悟をするといいよ、ステラ」
キュクロプス号に乗り込んだ搭乗員の片割れ──ステラ・B・W・アーノルトに向けて、男──アートマン・S・アーノルト博士は言外に飽きたなら観察を止めておけとステラに伝える。
「今は本を読んだりゲームをしたりする気分じゃないの。博士もたまに好きなことでもやる気が起きないことがあるでしょ」
父親でありタルタロス計画の最高責任者でもあるアートマンに向けて、同僚や同級生と話すような口調で少女は現在の精神状態を言葉にして投げ返す。彼女はアートマンの実子ではあるが、家族として接することはタルタロス計画で多忙なアートマンと、生来の才能から最も優れた搭乗員になると見込まれ、勉強──ほとんどの内容は──に明け暮れる日々を送ってきたステラでは、互いの心の内を知りつつも家族としてコミュニケーションを取ることが上手くできなかった。アートマンは親として、ステラは子供としての在り方を知らなかったからだ。もちろんアートマンはそれを非常に後悔しているし、それはステラも把握している上に、勉強漬けの日々という子供らしくない生き方を選択したのもステラ自身なので、アートマンに不満を覚えておらず、むしろ感謝していた。
「それで、どれくらいこの名画を鑑賞しているつもりなんだい?」
「……一日中?」
「つまりは無計画ということか、君らしくない」
「そうともいう」
少女は自慢するように胸を張り、一般的にドヤ顔と呼称される表情を作りながら返答する。
「やれやれ……勉強してきたらどうだい?十分も頑張ればいつの間にか集中しているはずさ」
ステラは勉強をする気分ではなかったが、こうまで言われると勉強をしなければならないという妙な方向の対抗心を燃やし、勉強用の部屋に向かう。何を勉強するかを考えながら移動するステラを、アートマンは静かに見つめ、そして再び手元に視線を戻した。