これは餌付けではなく特訓だ
シャロン・テンプテートという今世をかけた目標に対する熱意をごっそり失った俺は、その代償行為として、ヒヨコの育成に熱中した。
ヒヨコは危なっかしいド素人で、魔術に関する知識はほぼゼロ。物覚えは悪く、注意力散漫で、ドジでノロマで、目を覆わんばかりに粗忽だったが、俺のオーダーに応えようという熱意と根性には溢れていた。
そして、俺から見れば前時代的で迷信と誤謬に溢れたこの時代の変な魔法教育に染まっていないまっさらな弟子というのは、非常に教えがいがあった。
「基礎体力向上と身体づくりは魔術の第一歩だ。朝のランニングと柔軟体操は手を抜くな」
「はいっ」
「ほら、もう一度やってみろ」
「あたたたた」
「身体がかたい奴だな」
「すいません。……あうっ」
「おいおい。そんな無理をすると筋を痛めるぞ。ああもう、そこに座れ。マッサージしてやる」
「確かに明日までに覚えてこいとは言ったが、誰が徹夜をしろと言った。頭が悪いやつが寝不足で魔術など使えるものか。睡眠はキチンととれ!」
「はいっ」
「いいから今日はもうここで少し寝ていけ」
「ええっ?!それは流石に……」
「やかましい。《眠れ》」
「忙しいからといって食事を抜くな!」
「はいっ。すいません」
「栄養バランスを考えろ」
「はいっ」
「わかっているのか?栄養バランスとは何か」
「ええっと……わかりません」
「ええい、面倒な。わかった。これから朝食は俺が用意しておく。朝練の後でここで一緒に食え。そのときに順番に教えてやる」
「最大の成果を引き出すためには、水分と糖分を適切に脳に与えろ」
「はいっ」
「というわけで、お茶にする」
「わーい」
「……順調に餌付けしてるよね」
失礼極まりない感想を述べたクリスを俺は睨みつけた。
「俺は魔術の指導をしているだけだ」
「明らかにここの部屋にストックされている茶葉とお茶請けの種類とグレードが上がっているんだけど」
「ハーブティーは精神統一とリラックスに効果があるんだ。それに……」
「それに?」
「呼吸法の訓練のときに、あいつが全然集中しないから」
あのヒヨコときたら、正面にいる俺に自分の呼気があたると思うと気になってしかたがないとか、たわけた理由ですぐに息を詰めようとするのだ。息が当たったらどうだというのだ?!俺の息が臭いと遠回しに敬遠してでもいるのか?
おかげで練習の前には二人ともしっかり口内を洗浄して、ハーブティーかハーブキャンディを嗜まざるをえなくなったのだ。
「え?呼吸法の訓練って、お互いの息がかかるほどの距離でやるものだっけ?」
「ああ。呼吸法と同時に体内魔力の制御のトレーニングもやっているんだ」
と言っても、ヒヨコのやつはド素人だから、体内魔力の感知なんてまったくできない。だから、俺が感知してそれをビジュアルなイメージに変換してリアルタイムで幻視させてやるんだと説明すると、クリスは目をパチクリさせた。
「えーっと、なんだか高度な魔術の組み合わせ過ぎてどうやって実現しているか想像がつかないんだけど、そんなことできるの?」
「できる。ただし、俺も魔力感知は得意とはいえ、他人の体内魔力を、循環に影響を与えずに詳細に観測するのはいささか難しいし、相手と同調する必要がある幻視は不得手だからな」
こう、互いの指を交互に組むように両手をしっかり合わせて、至近距離で向かい合わせになって、額を付けないと上手く伝達できない。そう説明して、実演してみせようとすると、クリスは奇声を上げて飛び退いた。
「君、マジでそんなこと、毎日やってるの?」
「面倒だが、仕方ないだろう。あいつがなかなか上達しないのが悪い」
息を止めるのはやめたものの、ヒヨコは最初のうちは全然呼吸が整わず、とにかくソワソワと挙動不審になって、まったく練習に集中してくれなかった。
「いいからお前はまず目の前に俺がいることに慣れろ」
「手のひらを合わせて指を組むだけで緊張するな」
「魔力が視えんし、ビジョンが渡せん。俺の魔力を拒むな」
「俺は絶対にお前に危害を加えん。俺を受け入れろ!」
口を酸っぱくして言い聞かせ、何なら呼吸法の訓練時以外でも、手を繋いだり、近くに座らせたりして、俺という存在に慣れさせる努力を地道にして、最近ようやく、訓練がまともにできるようになってきたのだ。
「始めるぞ」
というと、ちょこちょこと俺の前に来て、両手を広げて目を閉じ、顔を軽く上向かせて待つヒヨコは、かわいい。
俺の呼吸に合わせて、息を吸ったり吐いたりしながら、一生懸命、魔力を感じようとして意識を集中しているヒヨコを見守りながら、幻視を共有していると、二人の魔力と意識が混じり合って蕩けるような良い気持ちになる。
少し続けると、ヒヨコの膝の力が抜けて、カクンと腰が砕けたように崩れ落ちてしまうので、間に講義を挟みつつ休み休み何度かに分けてやっているが、確実な成果を出すには、できるならもうちょっと長時間行いたい訓練だ。
「そうだ。次の長期休暇に奴をうちに来させよう」
「ええっ?!ちょっと、何、無茶いってんの!!」
「宿泊研修みたいなものだ。うちはヒヨコの一人ぐらい泊められる部屋はいくらでもあるし、俺に予定もない。授業がないから朝から晩までしっかり特訓できる。いい事づくしじゃないか」
「いや、ちょっと!若い女の子が親族でも婚約者でもない男の家に泊まりがけで、ありえないでしょう。親御さんが許さないよ」
「男の家って、お前。一人暮らしじゃあるまいし、うちはれっきとした侯爵家だぞ。使用人だらけで男もへったくれもあるもんか。第一、俺とヒヨコの関係は師弟だ。男だとか女だとかそういう下世話な見方で見ないでくれ」
「お、おう……そうか。すまない」
「でも、そうだな。確かに親御さんの許可はいるだろう。今日、あいつが来たら話をして、明日か明後日にでも一度挨拶に行っておこうかな」
三日後。
学院の帰りに侯爵家の馬車で乗り付けた俺を見て、ヒヨコのご両親は卒倒しそうな顔をしていたが、そこでヒヨコの名前が”シャロン・テンプテート”だと知った時の俺も、相当ものすごい顔をしていたと思う。
侯爵家子息の超絶美男子が、キスの3秒前みたいな距離で「全身で俺を感じて受け入れろ」と甘々な声でささやいて迫ってくる
という壮絶体験に慣れろと言われる不条理。シャロンがんばれ!
どう考えてもパワハラでセクハラですが、受け手がハラスメントと思っていないのでノーカウントです。