間違いは訂正すればいい
<基本5か条>
・睡眠不足で作業をするな
・脳には適切な栄養を与えろ
・疲れたときに結論を出すな
・人間は間違える生物だと思え
・提出前にもう一度見直せ
<最も大切なこと>
・一番冴えていた瞬間の自分にしか理解できない成果物を世に出すな
俺は仕事のクォリティを維持するために最低限守るべきことを手紙にしたためて、従者に命じてシャロン・テンプテートの家に送り付けた。
彼女はなんとか期限内に課題を提出し、ぎりぎりで魔法専科に進級できたらしい。あのあと家に籠もって学校に顔を出しもしなくなった俺に、クリスが手紙で知らせてくれた。
これでめでたしめでたしだ。
世界は破滅の道を免れ、シャロン・テンプテートは学院で地道に魔法を学んでよい魔術師となるだろう。
くだんの魔法陣は、彼女の心の闇から出たわけではなく、馬鹿げたうっかりミスの産物だった。彼女は危険人物ではない。
俺はシャロン・テンプテートという呪縛から開放されて、後はこの人生を好きに生きればよいだけだ。
俺は何もする気が起きず、漫然と虚空を見つめた。
好きに生きると言っても、何をすればよいのだ?
「結婚……家庭……」
前世でも結婚はしなかったが、今回も縁がなさそうだ。さんざん予習した"男が女のためにすべきこと"のすべての記憶がシャルに直結している。他の女を相手に何一つできそうにない。女というのはその種の手続きなしでは、結婚してくれない生き物らしいので、俺は金輪際、結婚は無理だろう。
「だとしたら……静かなところで誰にも邪魔されずに過ごしたいな」
この家ではダメだ。この家の居間も食堂もテラスも庭も図書室も、自分の部屋さえも彼女との思い出に満ちている。
「どこかご希望の場所はあるのですか?」と従者に尋ねられて、思い浮かんだのは前世で住んでいた塔屋敷だった。
あの何もない生活を思い出す。
誰とも会わない、誰とも話さない、静かで単調な日々。
さして大きくもない石造りの一軒家は人里離れた郊外にあった。あの屋敷は今でもあるのだろうか。
「郊外の……小さな家で…塔があるんだ」
ポツポツと、あるかどうかもわからない家のことを呟いて、そのまま黙ってしまった俺を残して、従者はメイドたちと一緒に部屋を出ていった。
俺は何もする気が起きなくて、ただ虚空に視線を漂わせながらぼんやりとして日々を過ごした。
ずっと引きこもっていたいのは山々だったが、学年代表としての責務はある。
俺は卒業式に向けて必要な仕事はこなし、式当日にはキチンと正装して、打ち合わせのために早めに会場入りした。
教授連や運営スタッフと、式の進行や段取りの最終確認を行い、にこやかにお祝いの言葉を交わして準備室を出ると、講堂の廊下にアイツがいた。
「一年生がこんなところで何をしている。在校生は最高学年のみ出席だぞ」
「あの……せ、専科生は、出席していいんです」
久しぶりに見る彼女は、顔色が悪かった。体調が悪いのだろうか。無理をせずに家で休んでいたほうがいいのではないのか。
「来る必要などないのに」
「でも!」
《治癒》
少し彼女の頬に血色が戻る。
そうそうお前は元気でいてくれなくては。
「私、ちゃんと最後に挨拶をしたくて」
「そうか」
"最後"だと聞いたら、一瞬、息が詰まった。でも大丈夫。どんなときでも呼吸を整えられるのは魔術師の基本技能だ。
「本当に……本当にこの1年間ありがとうございました」
大丈夫だ。俺は笑顔でいられる。
「頑張れよ」
「ウィル様……私……わた…し…」
彼女の目が潤んだ。
「私、一人じゃ頑張れません!」
「何を言っているんだ。君は今まで一人で一生懸命やってきたじゃないか」
「一人じゃないです!ずっとウィル様が支えてくださいました。私、ウィル様なしでは頑張れません!」
何を言い出すんだ、こいつは。
「ごめんなさい。こんなことご迷惑だっていうのはわかっているんです。でもダメなんです。私、ウィル様がいないと何もできなくて」
俺もだ。だがそれは間違っている。
「すまない。それは俺が君に与えてしまった悪影響だ。暗示のようなものだよ。そんなことはないんだ。君は自分自身の力で十分にやっていける実力がある」
俺がいないといけないなんてことは、全然ないんだ。
「君はもう俺という枷を忘れていい。俺が作ってしまった鳥籠から出て自由に飛び立っていいんだ」
「私は金糸雀じゃありません!」
彼女は小さな手をギュッと握りしめて叫んだ。
「私はヒヨコです!どこかに飛んでいったりできないんです!手を離されたら落っこちちゃうんです。途中で手を離さないでください!」
彼女はおずおずと両手を俺の方に差し出した。
それはかつて毎日やっていた呼吸法の訓練のときと同じで……。
俺は彼女の手に自分の手を重ねて、指と指を交互に絡ませた。
彼女がこちらを見上げて、ゆっくり目を閉じた。溢れかけていた涙がこぼれて、つ……と彼女の頬を伝った。
どうしよう。息の仕方がわからない。
こんなのは間違っている。
俺は彼女の師匠なのに。
俺はそっと屈んで、彼女の額に吐息がかかる程の距離で囁いた。
「シャル……」
式の開始を告げる鐘がなった。
俺は彼女に何も言えないまま、卒業式に出席し、壇上で卒業生代表として挨拶をした。
正直、半分上の空だったが、途中で爆笑と喝采が3回起こり、最後で女子の8割が泣いていたので、まぁまぁのスピーチだったのではないだろうか。
壇上から在校生の専科生の席を見たが、彼女の姿はなかった。
式が終わって、講堂の外に出ると、そこには式に出席できなかった在校生や父兄以外の親族、卒業生の就職先の関係者などが詰めかけていてごった返していた。
在学中、ろくな交友をしていなかったのに、なぜか俺の周りにも後輩や同級生が押しかけ、凄い人集りだった。誰が誰だかよくわからない相手から、口々にお祝いと別れの言葉をかけられながら、俺は社交の講座で練習した通りの返答を、笑顔で返し続けた。
式は公的行事だ。
俺は卒業生の代表だ。
私的なことは控えて、無難に責務を果たし切らねばならん。
そう己に言い聞かせ続けた俺の背中を、誰かがバシンと叩いた。
「痛ってぇ!クリス?何だ一体」
「あそこ」
我が悪友は、人垣の向こうのちょっと外れた一角を指さした。
そこに、彼女がいた。
俺は自分のこれまでの過ちを悟った。
「シャロン・テンプテート!」
俺は日頃鍛えた腹筋と肺活量で、あらん限りの大音声で叫んだ。
「結婚してくれ!」
向こうでアイツが口をパクパクさせたのが見えた。
ええい、返事が聞こえん。
声量が足らん。修行がなってないぞ。
返事は!返事はどうした!
彼女が手を空に向けた。
青空に光が一筋、高く打ち上がって弾けて広がった。
『はい!』
落書きみたいな花飾りで縁取られた特大の文字のイリュージョンだ。俺が国際親善試合の晩に祝勝会で打ち上げた術式の劣化版だが、見様見真似でこの出来なら及第点だろう。
あとから周りで見ていた奴に聞いたところによると、このメッセージを見た瞬間に、俺の身体から満開の花々が吹き上がったらしい。キラッキラに輝く魔力でできた無数の花は、くるくる回りながら、周囲に拡散したんだとか……大規模な集団幻覚魔法を無意識、無詠唱でその精度で発動するとはさすが俺。
とにかくその時は、他の何もかもどうでも良かったので、俺は飛行魔法で一気に跳躍して、歓声を上げる有象無象の頭上を飛び越えて、シャルの前に降り立った。
「シャロン・テンプテート」
「はいっ」
「すまん。訂正させてくれ」
「ええっ?!」
「順番を間違えた」
「はい?」
俺は彼女の手を取って、その場に跪いた。
「シャル。君がいないと俺は呼吸の仕方もわからなくなってしまう。君が望んでくれるなら、どうか俺を君の側にいさせて欲しい」
すまん。メイド達。昔、練習したカッコいいあれこれは全部どこかに飛んでしまった。今は思いついたこの今の思いを言葉にするだけで精一杯だ。だから。
「愛している。俺にとって君のいない人生なんて生きる意味がない。結婚してくれ」
どうだ!「愛している」とも告げないで結婚を言い出す男は最低だと言われたのはぎりぎり思い出したから、即座に訂正したぞ。これでいいだろう!
あんな場所であんな風に突然ド派手にプロポーズするなんて、段取りも常識も何もかも無視しきっています。とあとから従者には叱られたが、メイド達は及第点をくれた。票が割れたときに男の意見なぞきかん。
シャル本人が、それはもう幸せそうに「はい」と言って肯いてくれたから、それでいいんだ。
この男、冒頭の原則を座右の銘にするぐらい失敗を重ねて「実行する前にそれで良いか冷静に考えろ」と叱られ続けた天才です。思考が早すぎて行動力がありすぎるせいで、発案→検証→実行のスパンが超短い。
思いつきで勢いで行動する癖を直せ。
(昔よりマシになってコレ)
次回、エピローグ




