たったそれだけのこと
「ウィル様」
目をパチクリさせている彼女を見た瞬間に、俺は立ち上がった。
「どうした。今日は登校しないと言っていたではないか」
「……ウィル様」
俺は階段を急いで降りて、彼女の前に駆けつけた。
「何かあったのか?目元が……赤くなっているぞ。泣いたのか?《治癒》ほらもう大丈夫だ。誰に泣かされた?俺がそいつをとっちめてやる。さぁ、何があった。何でもしてやるから、わけを話せ」
「ウィルさまぁ」
彼女の大きな目が潤んだところで、俺はハッとした。
なんとしたことだ!
もうやるまいと思っていた過干渉をあまりにもナチュラルにしてしまった。
「あ、や、その……お前が話したくないなら、別に……」
小さな両肩を掴みかけていた手を寸前でむりやり止める。不自然に手を広げた俺を揶揄するように、メッセンジャーエフェクトの蝶がヒラヒラと俺の周りを飛んだ。
「なんで、俺の蝶が?」
軽く触れると、魔力でできた蝶は金色の光の粒になって消えた。
「ウィル様、私……私、もう、どうしていいか分からなくて……お守りのハンカチに頼ったら、うっかり中の紙を落としちゃって……そしたら、ウィル様のちょうちょが、ウィル様のところに案内してくれて……」
「待て。お前は相変わらず要領を得ん話を」
「助けて、ウィルさまぁ〜」
「任せろ!!」
100万の軍勢を相手取っても勝つ自信はある。
「課題の提出用紙を無くした?」
聞き出してみれば拍子抜けするような話だった。
「書き直せばいいだろう」
「でも、貰った用紙はあれ1枚なんです」
「そんなもの担当教諭に事情を話してまた貰えばいい」
「えっ?」
その足で二人で担当教諭のところに行き、書き直し用の用紙を貰った。
今の学院長のシンボルである鳥がモチーフに使われている学院の紋章が入った紙だ。正式文書用のもので、期末課題程度のものだけではなく、学院が公表する論文などにも使用される。
あっさり手に入った用紙を手に呆然としている彼女を連れて教諭の研究室を出たあとで、俺は気になった点を確認した。
「シャル。ひょっとして、無くした用紙の方は、名前の部分を修正しようとしたんじゃないのか?」
「うぇっ?は、はい。なんでご存知なんですか?綴りの途中でインクが滲んじゃって、名前が読みにくくなっちゃったから、記名ミスで落第になったら嫌だと思って、少し削って書き直そうと思って……こんなに簡単に用紙が貰えるなら、記名を失敗した時点で書き直せば良かったです」
「そうやって安易に失敗するやつを出さないために1枚ずつしか配られないんだ。バカ者」
「はぁぃ……」
しょげかえった彼女を「過ぎたことをクヨクヨするな。次は一発で完璧に書き直せ!」と叱咤すると、彼女はいつも通り「はいっ!」と気合の入った返事をした。うむ。よろしい。
それでこそお前だ。
…………じゃない。これは俺が彼女に強制してやらせている習慣だ。俺が一緒にいる限り、彼女はこう振る舞わざるを得ないのだ。
俺は一歩後ろに下がった。
「後は一人でできるな」
「はいっ!」
頑張ります!と言って去っていく彼女を、俺は笑顔で見送った。二度と会わないなら、最後ぐらい笑顔で別れておきたいじゃないか。
……キチンと笑えていたかどうかは自信がない。
俺はその足で学院内の図書館に向かった。
顔馴染の司書に一言ことわって、地下の積層書庫に入らせてもらう。ここにあるのは貸し出し頻度の少ない古い本だ。
閲覧のしやすさよりも保管効率を優先した書棚の列の間を歩いて、目当ての本を探す。
前世で世界の崩壊のきっかけとなった魔導書。
「やはりな」
俺が転生してこの学院の図書館に入れるようになってから、何度となく確認してきたその本が、前回見たときとはわずかに違う位置に納められていた。
「世界の中心は虚数」
大層なタイトルの割に、特にたいしたことは書いていない退屈な魔導書だ。
俺は大判の革表紙の本を手にとって、ページをめくっていった。
……あった。
シャロン・テンプテートの課題用紙はすぐに見つかった。
世界を滅ぼした魔法陣を発動させないように、俺は慎重に用紙を本の間から取り出した。
一体どんな術式なのか。
俺が禁呪に手を出してまでこの時代に戻ってきたのは、世界を救うためというよりも、この術式がいかなるものであったか知りたいという欲求があったからだと思う。
暗く静まり返った地下の積層書庫内で、俺はわずかな明かりを頼りに、真剣に魔法陣を解読した。
「これは……魔術士が魔力を供給しなくても、周囲に存在する微量の魔力を調達して常時稼働する式なのか?」
魔導具用動力に応用すれば、魔法が使えず、魔道士を雇う程の資金的余裕もない平民家庭でも、魔導具を使用できる可能性が広がる。ローコストで常時稼働できるので公共地の常夜灯などにも使えるだろう。
それほど複雑な機構ではないが着眼点が素晴らしい。これが学院高等部1年生の期末課題だとは!やはりシャロン・テンプテートは天才だったのだ!!
常識に囚われない構成で、恐ろしく読み解きにくい配置で各処理が複雑に連動しているが、それにしても、こんなにシンプルな魔法陣で、よくぞこれほどの機構を……。
「ん?」
俺はシンプルすぎる魔法陣を凝視した。おかしい。絶対にあるはずの術式の記述がない。
上限値の判定はどこだ?
なぜエラー時の処理が見当たらないんだ。絶対に必要な安全回路はどこに行った?
これでは魔力の入力が一度閾値を超えると、周囲から魔力を取り込み続けて、行使半径が無限遠まで拡大し続けるではないか。
俺は黒い半球が周囲を飲み込んでいく光景を思い出してゾッとした。
いや、だがおかしい。
これは、ごく僅かな出力の、小さな明かりを灯す程度の効果の魔法陣だ。たとえ暴走してもあのようなすべてを無に還元する惨事を引き起こすとはとても思えない。
俺はもう一度、魔法陣を精査した。
「シャ〜ロ〜ン・テンプテート〜ぉっ!!貴っ様〜!」
俺は虚空に向かって吠えた。
「0で割る式をたてるな~っ」
凡ミス入りのバグった魔法陣を俺はぐしゃぐしゃに握り潰した。




