愚か者の絶望
東館3階の東南の角部屋が俺の研究室なのもあと少し。
結局、研究室とは名ばかりで、この1年は単にシャルの勉強部屋と化していた。
「彼女、無事に課題は終えたようだね」
クリスが、まだ片付けずに残してあるティーセットを用意しながら、そう言った。なるほど昨日まで参考文献の山が崩れそうだったシャルの机がきれいに片付けられている。
今日は休むと言っていたのはそういうことか。このところ根を詰めていたからな。期末課題は他人が手伝うと即座に落第なので、一切干渉できないから、そっとしていたが、これで明日からまた練習が再開できるのは喜ばしい。
俺はポットの湯を適温に調整して、慎重に茶を煎れた。ヨシ。
この研究室は世間にはなんの成果も提出していないが、俺の茶の腕は確実にここで磨かれた!
「君は卒業したらどうするつもり?」
「今更なんだ。どうするもこうするも、前々から言っている通り王城の魔術師の塔に入って王家直属の魔術師になる」
つまらない仕事を押し付けられたら辞めるつもりだが。
「そうじゃなくて、彼女のことだよ」
「シャルか?別にこのまま……」
「そういうわけにはいかないだろ?この部屋は君のものではなくなるし、生徒の身内以外は学院に立ち入り不可だ」
「むむ。では登校前と帰宅後に会えばいいのではないか?」
「彼女、魔法専科に進むんだろう?そうしたら授業時間も増えてほぼ寮生になるのは確定だからこれまでのように毎日会うのは不可能だよ」
「俺は家から通ったぞ」
「君は授業の大半を免除されていたからね!」
「お前も随分暇そうだったじゃないか」
「要領良くサボってたの!」
彼女はそういうことができないだろうと言われて、納得した。
「では俺が寮に通えば……」
「バカなの?女子寮に日参する気?それこそ異性なんて父兄か婚約者以外取り次いですら貰えないよ!」
「そうか。では婚約すればいいんだな」
「はあっ?!」
「うんうん。なかなかいい考えだぞ。それならばなんの不都合もない」
「ありまくりだよ!どうかしてるとは思ってたけどそこまでバカなの?!」
「まあ、落ち着け」
俺だってなんの考えもなくこんなことを言い出しているわけではない。
「先方の親御さんにはきちんと説明する」
「なんて」
「魔法の指導を続けるための便宜上の婚約なので、そちらの都合でいつでも解消していただいて構いません。その場合は世間的にはこちらの一方的な瑕疵による解消だとして、賠償金もお支払いします……でいいんだろ」
「バカ!アホ!マヌケ!!自分の身分考えろ!お前んち、平民がハイそうですかと婚約解消言い出せる相手か?!大体、親に説明って何だよ。彼女自身にはなんていうんだ」
「……同じだ」
「便宜上の婚約なので、いつでも解消していただいて構いませんって言うのか?」
「ううむ……そうだ」
だって、俺は別にシャルを口説いて恋人にしたわけでもないし、アイツが少しでも嫌だと言ったら無理強いはする気はない。
「彼女に好きな人ができたら、どうぞって言って手を引いて、支度金を渡して結婚を祝福してあげるつもりなのか?!」
アイツが世界を滅ぼさないように見守るのが目的なので、そばにいられるなら、名目はなんでもいいのだ。別にアイツが他の男の妻になろうがそんなことは……。
「おい、君のカップの中身、煮えくり返ってるぞ」
クソっ。ちょっと温度が気に食わないなと思ったが、クリスが余計なことをゴチャゴチャ言うせいで調整をミスった。
俺はカップの中の煮えたぎった茶を捨てた。
「女の子の気持ちは、煎れ直せばいいお茶じゃないんだ。君はもう少し自分のそばにいる女の子がどんな気持ちで君を見ているのかを考えたほうがいいよ」
「うるさい。俺は魔法より複雑な問題は手に負えないんだ!」
俺はクリスの顔を見る気になれなくて、部屋を飛び出した。
女の気持ちなんて、そんな理論も体系もなくて、数値化もできない上に解析も不可能な代物、わかるわけがないだろう!
アイツが俺をどんな風に見ているかなんて……。
俺はこれまでの自分の行いを、この時代の常識に照らし合わせつつ、客観的視点から冷静に再評価してみた。
俺は独善的で、強引で、身分にものをいわせて、彼女の意見なんて聞かずに、非常識な無茶苦茶を要求して、無条件に従わせて悦に入っていたクソ野郎だった。気弱な彼女が従順であるように仕向け、好き勝手に干渉し、彼女を呼びつけ続け、その自由時間を一欠片も残さず搾取し、彼女が築くはずだった交友関係を破壊して、この一年間、輝かしくあるべき彼女の学院生活を台無しにしてきた。
「お……おぅ………」
俺は階段の手摺に掴まって崩れ落ちるように膝をついた。
圧政暴君も真っ青な最悪の外道じゃないか。こんな俺を彼女が実際はどのように思っていたか、想像するだに恐ろしい。
いや、恐ろしいなどという言葉で誤魔化してはいけないだろう。クリスが言う通り、俺は彼女の気持ちを演繹し、きちんとシミュレーションしなければならない。
認めよう。彼女はきっとこの俺を心の底から嫌っている。憎悪していると言っていいかもしれない……ぐ、そう考えるだけで何やら凄まじくつらいが、まずその事実と向き合うところから始めねばならん。
シャルは……いや、シャロン・テンプテートは、俺が嫌いだ。
俺の支配から解放されることを望んでいる。
彼女の才能は本物だ。魔術の国際親善試合で周辺諸国の並み居る天才を下して優勝を掻っ攫って来るほどの実力の持ち主で、学院長推薦枠で魔法専科に飛び級が決まった優等生だ。
魔術以外の一般教科もまんべんなく優秀で、もはや俺の家庭教師など全く必要ない。
俺のせいで学院生活の初めには陰湿ないじめを受けていたこともあったようだが、本人の持ち前の人柄の良さと人間的魅力で、今は周囲の有象無象どもからも、もてはやされているようだ。
……学業の妨げになるからと睨みをきかせて追い払ってきていたが、ちょっかいを出そうとする男は無視できない数存在した。
俺が手を引けば、彼女は良い友人達と充実した学院生活を送り、誰だかは知らないが、性格が良くて良識的で優しい身分が釣り合う男と、こ、恋に落ちて、順調に普通に常識的な交際をしたあと、婚約をするだろう。
間違いない。アイツは性格が良くて、素直で、可愛いから、途中で捨てられるとかは絶対にない。どんな奴だって、一度、アイツを恋人にしたら、浮気したり、手放したりなんてバカなことはするわけがない。
それにアイツはあれでなかなか賢いし、俺より人を見る目はあるから、浮気をしたり、女を騙したり、喰い物にしたりするような下郎は寄せ付けないはずだ。
……俺ぐらい強引な腐れ外道以外は。
俺は階段に座り込んで、頭を抱えた。
心臓が痛い、視界が霞む。なんだ?死にかけているのか俺は?
ひょっとして禁忌の魔術を使って逆行転生した報いが来たのだろうか。
そうだ。俺は世界を滅ぼした魔女シャロン・テンプテートを止めるために時を遡ったのだ。
だが、なぜシャロン・テンプテートは世界を滅ぼすような呪詛の魔術を作り出したのだ?
俺はこれまで考えなかったアプローチで、状況を再考した。
シャロン・テンプテートはああいう個性だ。つまり、素直で可愛くてお人好しでちょっと抜けたところがあって頑張り屋だ。
俺が逆行転生しなかったとしても、彼女が世界を呪う動機がない。むしろ俺がいなければ、彼女は素晴らしい学院生活を送り、世界に認められて、誉れ高い魔術師になっていただろう。
だが、俺の前世での歴史に魔術師として彼女の名は残っていなかった。それは不自然だ。
であれば、俺が逆行転生すること自体が織り込み済みであったとしたらどうだろう?
俺が逆行して彼女に干渉することで、あの悲劇が起こったのだとしたら……。
俺のせいで、彼女がこの先に得るはずだった栄誉が失われ、彼女の精神に鬱屈が溜まり、彼女がこの世界なんて滅びてしまえば良いと考えるに到った可能性はあるのではないだろうか。
悪逆非道で横暴な貴族にずっと粘着されて、思うように生きられないとしたら、若い娘が世をはかなむのは無理もない話だ。
俺は知らず知らずのうちに、善良な彼女を世界を滅ぼす魔女に追い詰めてしまっていたのでは?
自分が彼女に与えたかもしれない絶望と拒絶のあまりの深さに、俺は目の前が真っ暗になった。
なんということだ。
世界を滅ぼしたのは俺自身で、彼女は被害者だったのだ。
「謝ろう……これまでのことを全部謝罪して……二度と干渉しないと……以後はけっして近付きもしないと誓っ……」
ぐ、胸が、心臓が痛い。呼吸ができない。前が見えない。
《治癒》
なぜ回復魔法もきかんのだ。
こんなに、こんなに苦しいのに。
これまで、彼女のことを考えたり、彼女の姿を見たりするだけで、どんな不機嫌も体の不調も綺麗サッパリなくなっていた。だが今は彼女のことを考えただけで……これ以上関わるべきではないと思うだけで、身が裂けそうに苦しい。禁呪の反動か?
彼女が俺がいないせいで幸せになっている未来を想像すると死にそうな気分になる。
何だこれ。目が熱い。
俺は……泣いているのか?
霞んでよく見えない視界の端に、キラリと光るものを感じて、俺は顔を上げた。
目の前に俺の魔力で出来た金色の蝶がヒラヒラと舞っていて、その後ろに階段の踊り場からびっくり顔でこちらを見上げているシャロン・テンプテートがいた。




