問われて名乗るもおこがましいが(2)
はる乃夢が来ている、と聞かされたのは、自宅の稽古場で次の公演の自主稽古をしていたときのことだった。
どうして。約束の日付は、まだだいぶ先だったはず。
そもそも、銀座の近くの例の喫茶店で待ち合わせする約束だったじゃないか。
「大奥様のお知り合いなんですってね。いま、応接間の方でお話していらっしゃいますわ。大奥様のお知り合いは、かっこいい方が多いですけれど、まさか、あんなに若い方がいたなんてね……まだ24,5歳くらいですかしら」
大奥様、つまりおばあさまの知り合い?
いつ知り合ったのだろう。いや、確かに、はる乃さんは、おばあさまがかつて在籍していた劇団の後輩ではあるのだけれど。
でも、おばあさまが在籍していたのは、もう50年以上も前。はる乃さんとは直接の関係はない。何の面識も脈略もないはずなのに、どうして、『知り合い』として訪ねてくる理由があるだろう――それも、僕には内緒で。
考えられる理由が、ひとつ。
はる乃さんは、僕に、これ以上ないほどのビックサプライズを仕掛けようとしている。僕には内緒で、おばあさまにコンタクトまで取って。おばあさま経由で自宅を訪ねて、なぜあなたがここにいるのかと、僕に言わせようとしているのだ。
会いに行くべきか?
このまま、本当におばあさまに会っただけで、帰してしまってもいいのか?
気付けば僕は、はる乃さんの姿を探して、応接間に向かっていた。
わずかに開いた襖の陰から、出て行くタイミングを窺う。はる乃さんが視線を動かす。目が合った。目が合って、挑戦的な笑みを向けられた。
――試されている。
出てこいよ、藤梧と。出てきて、ちゃんと説明したらどうなんだ、と。
――おまえは、ただの永山藤梧ではない、歌舞伎役者の山科藤乃だったのだろう? なぜ、黙っていた? なぜ、嘘をついたのだ?
僕は、急に怖くなった。
どうしよう。はる乃さんに、嫌われてしまう。たぶん、嫌なヤツだと思われた。もう二度と会ってくれないかもしれない……。
「藤梧、いるの? そんなところにいないで、入っていらっしゃい」
部屋の中から、おばあさまの声がした。まずい。おばあさまにまでバレている。
僕は観念して、襖に手を掛け、ゆっくりと開けると、二人の前に出て深くお辞儀をした。
「はる乃さん、こちらが、先日お話した、わたしの孫なの。あなたの大ファンなのよ――藤梧、ちゃんとご挨拶なさい」
重い頭を持ち上げ、真っ直ぐにはる乃さんを見る。はる乃さんもまた、僕の方を真っ直ぐに見据えていた。
「お、お初にお目にかかります。永山静の……、 “吉野雪” の孫の、永山藤梧と申します。はる乃さんのことは、祖母に連れられて観た舞台で、何度も拝見しております。ただ、ほんとうに、かっこいい方だと……」
初めてお互いを認識してから、はる乃さんに向かって、改めてこんなことを言う機会なんてなかった。来るとも思わなかった。
まさか、本人に向かって、「あなたは、かっこいい人だ」なんて言う日が来るなんて……。
もう、顔から火が出るかと思った。
できることならば、いますぐにここから逃げ出して、いま言ったことすべてを忘れてしまいたかった。
「……ごめんなさいね。藤梧は人見知りなの」
「いいえ、私は気にしませんよ」
はる乃さんは笑って、よろしくね藤梧くん、と言った。
よろしくも何も、前から会っているでしょう。やっぱり何か裏があるのだ。
――まさか、何かの仕返し? でも、何の?
いま、はる乃さんと二人っきりにはなりたくなかったが、おばあさまは、気を利かせたつもりなのか、用があると言って席を立ってしまった。
あとには、どこか気まずい空気を流したままの、はる乃さんと僕だけが残される。
「はる乃さん……?」
僕を見つめたはる乃さんの顔から、サッと笑みが消えた。そして、言った。
「さあ、説明してもらおうか」
「な、何をですか……?」
「とぼけても無駄だ。分かっているんだろう。さっさと白状したらどうだ」
「は、白状!?」
何を言っているんだ、この人は!!
「そんなんじゃありませんよ! ただ、僕は……」
はる乃さんの遠慮のない視線が、痛いほどに突き刺さる。下手な言い訳など聞かせてくれるな、とでも言いたげに。
「言えなかったんですよ……。だって、あなたは!!」
あなたは、僕が大好きな『帝女』のスターで、将来は主役を担う人になるかもしれない人で。だけど僕は、ただ歌舞伎の家に生まれたというだけの、ひよっこで。
比べられたくなかった。
そうだ。僕は、僕が歌舞伎役者の山科藤乃であることを、はる乃さんには……はる乃さんにだけは、知られたくなかったのだ。
「私は君がうらやましいよ。歌舞伎の御曹司として、幼い頃から先輩方に囲まれて、早くから期待も尊敬もされている君がね」
はる乃さんは、気分が悪くなったので帰る、と言って出て行ってしまった。
去り際、僕を見るその目は、冬の凍てついた朝のように冷たかった。
「いまの青年は、誰かね」
気付くと、おじいさまが後ろにいた。
「初めて見る子じゃないか。これまた、随分と男前だね。藤梧の友達かい?」
「え? ええ……」
なんだか自分が褒められているみたいでくすぐったい気もしたけれど、悪い気はしない。
「街で偶然知り合ったんです。僕と同じ、演劇を志しているっていうんで、それで気が合って……」
「街で偶然ってことはないだろう、それも人見知りのおまえが」
「それは……」
ちょっと無理があっただろうか。なら、本当のことを話す?
彼女が、おばあさまが昔いた劇団の現役の女優で、客席に下りてきたところを、たまたま近い席で観劇していた僕と目が合ったこと。休演日に銀座周辺を歩いていた僕と、東京公演の合間に街に出てきた彼女が偶然居合わせて、それから親しくなったこと。カフェでお茶したことも、ふたりで個人レッスンしたことも、全部、話さなくてはいけないの?
困っていると、おばあさまがやってきて、口添えしてくれた。
「わたしがいた劇団の後輩なの。はる乃夢さん、というのよ。とってもかっこいい方でしょう。わたしのお友達なのよ」
いつ友達になったのか。ついこないだまで、はる乃夢には見向きもしていなかったくせに。
「ほう、シズさんの友達か。それにしては、やけに親しい様子だったじゃないか、藤梧」
「え、っと……それは……」
まずい。勘付かれたか? はる乃さんとのことを、変に誤解されたくない。
「まさか、藤梧の恋のお相手かしら? あらやだ、あなた、いつの間にあの方と親しくなったの!」
恋! そんな、とんでもない!
「ちがいます、彼女はただの友人です!!」
それは大きな誤解だと言ったのに、おじいさまもおばあさまも、すっかり浮かれてしまって、聞き入れようとはしなかった。
「ただの友人には見えなかったなあ。それにしては、親しすぎた」
「やっぱり、恋のお相手なのね。すばらしいわ。歌舞伎の世界に生まれたあなたと、『帝女』の女優であるはる乃さんが、出会って、恋! いいわね、昔を思い出すわ。おじいさんとわたしも、そうやって出会ったのよね」
「そうさなあ。あのときのばあさんは、可愛かった……いや、もちろん、いまでも十分に素敵だけれど」
「いやだわ、おじいさんたら。わたしなんて、もう、70過ぎのおばあちゃんですよ」
孫の目も気にせず、盛大に惚気始めるふたり。いい加減にしてくれ。
「はる乃さんは、とてもかっこいい方だから、いいわね。それに、わたしの後輩で、お友達よ。きっと、うまくやれると思うわ」
友人を褒められるのは悪い気はしない。でも、それとこれとは訳が違う。
「やめてください。本当に、そんなんじゃありません!!」
恋人なんかじゃない。
あの人は憧れのスターで、同じ演劇の道を志す『同志』で、恋人だなんてとんでもない。
ただの友達。いや、もう、友達ですらないのかもしれないけれど。