4.問われて名乗るもおこがましいが(1)
藤梧が去ったスタジオは、まるで、この場所全体が生気を失ったかのようにシンと静まり返っていた。
今日、初めて連れてきたはずなのに、もう何年もずっと前からここにいたかのような、不思議な安心感があった。
藤梧という人は、まったく、不思議な人だ。今日だって知り合って一週間も経っていないのに、もう、二十年来の親友みたいな気持ちでいる。
舞台をやっているというのが、まさか日本舞踊のこととは思わなかったけれど、彼の舞う姿は、それはもう美しかった。どこか妖艶で、誘惑されている気にさえさせた。
“それ” に気付いたのは、もう一度自分ひとりで通し稽古をして、そろそろ帰ろうかと戸締りをしかけた頃のことだった。
部屋の片隅にある、グレーの男物のハンカチ。
新人公演の稽古をして汗だくになっていた私に、藤梧が、汗を拭こうとして貸してくれたものだ。断るのも面倒だからと使っていたが、返すのをすっかり忘れていた。
次の休み、必ず返しに行こう。私は藤梧にメールを入れる。
藤梧からは、すぐに返信がきた。いつでもいいですよ。また、こないだの喫茶店で会いましょう。
ああ、あの喫茶店か、うまかったな。
そうしよう、また君とあの店に行けるのが楽しみだよ、とニヤつく笑みを抑えながらメールを打つ。早くも次の約束ができてしまった。
まさか、その約束が前倒しになるとは思っていなかったけれど。
*
見覚えのある顔だ、と思って立ち止まったそのとき、疑惑は確信へと変わった。
藤梧がいた。正確に言えば、藤梧の顔写真が載った、出演舞台のポスターが、そこにあった。
けど、そこに記されていた名前は『永山藤梧』ではなくて、『山科藤乃』と書かれていた。ポスターの中心には、歌舞伎の名優、山科長五郎が映っている。いま、テレビドラマで人気の、井原興之助の姿も。
(どうして……)
考えられるのは、ただひとつ。藤梧が実は、歌舞伎役者だったということ。単なる日本舞踊の舞台などではなく。
(藤梧が、私に、嘘をついたということ?)
だとしたら悲しいが、いずれにしても、永山藤梧という役者については、詳しく調べてみなければならない。
帰ってから自宅のパソコンで検索をかけてみると、やはりというか、永山藤梧は山科藤乃に間違いなかった。
◆◇◆
歌舞伎俳優名鑑・山科藤乃(初代)。屋号、枝垂屋。
本名、永山藤梧。
四代目山科藤五郎の長男。祖父は六代目山科長五郎。
平成X年、初代山科藤乃を名乗り、5歳で初舞台を踏む。
近年は祖父の長五郎との『娘道成寺』が評価され、今後の活躍が期待される次世代の若女形である。
◇◆◇
(若女形……若い女の役、ということか。初舞台が平成X年って、私より、ずっと先輩じゃないか)
検索して見つけた、別のページ。そこには、こうも書かれていた。
◆◇◆
山科藤乃。祖父は山科長五郎、祖母は吉野雪。都内の○○大学在学中。
◇◆◇
(吉野雪? 吉野雪って、まさか……)
どこかで聞いたことのある名前だ、と思った。
迷わず、「吉野雪」で再検索をかける。結果は、予想していた通りだった。
◆◇◆
吉野雪。本名、永山静。
大日本帝国少女歌劇団(現、帝国女子歌劇団)出身の元娘役女優。
15歳で養成学校に入学し、1年後に初舞台を踏む。
芸名の由来は、本名の「静」から、静御前が詠んだ「吉野山 峰の白雪 ふみわけて…」(※)の歌より。
昭和XX年、三代目山科藤五郎(現、六代目山科長五郎)との結婚を機に、5年間在籍した劇団を退団。長男は四代目山科藤五郎。初代山科藤乃は孫。
◇◆◇
間違いない。吉野雪、彼女はうちの劇団の大先輩だ。
養成学校に入学して1年で初舞台を踏んだというのも、その時代の人間らしい。昔は、2年制ではなくて1年制だった。芸名も、本人が憧れの先輩や好きなものなどから自由につけるのではなく、先人が詠んだ古い和歌にちなんでつけるのが古い時代の習わしだったのだ。
まさか、吉野雪、彼女が永山藤梧の実の祖母だったとは。
藤梧に会わなくては、と思った。会って、直接確かめねばならない。なぜ黙っていたのかということも、きつく問いたださなければ。
次の休みまで待てない。
それに、場所も、人目のある喫茶店では不都合だ。私の父が借りているスタジオ。いや、藤梧の自宅まで行こう。こっちだって驚いたのだ、突然押しかけてビックリさせてやろう。
問題は、どうやって藤梧の自宅を特定するか、だが……。
考え抜いた末、私は、祖母の吉野雪からアプローチをかけてみることにした。
自宅まで行くのに、ただ、山科藤乃のファンとして近づいたのでは、怪しすぎる。下手をすれば、門前払いを食わされてしまう可能性だって高い。
けれど、永山藤梧の『知人』としてなら……。
幸いにも、吉野雪は、うちの劇団の卒業生だ。劇団の関係者ならば、彼女の居所を知っているんじゃないか。そう思ったのだけれど、少し甘かった。
「吉野雪に会うて、どうするん? ファンでした、とでも伝えるわけ?」
「そ、それは……」
「吉野雪も、いまは引退して『普通の人』や。辞めて何十年も経ったいま、自宅までファンに押しかけられて、あまりいい気はせぇへんやろ。まあ、それは、君も同じやとは思うがね」
確かに、ファンといえ、自宅にまで知らない人が押しかけてきたら、奇妙に思うだろう。だけど、それなら、藤梧にはどうやって会ったらいいのだ。
早々に行き詰ってしまった。もはや、これまでか、と思ったそのとき、私に女神が微笑んだ。
「あら、お呼びになりまして?」
ふいに背中から聞こえてきた、品の良い老女の声。
ハッと振り向けば、そこには、噂の当人、吉野雪の姿があった。
「お静さん……」
「お久しぶりね、サブちゃん。奥様とお嬢さんたちはお元気?」
「え? ええ……まあ、なんとかやってますよ」
どうして吉野雪がここに。いや、なんてことはない。卒業生が後輩の様子を見に楽屋へ挨拶に来るなんて、いつものことだ。
「それより、さっき、わたしの名前が出ていたようだけれど。何か、わたしにご用事?」
「それが、こちらの生徒が、急に吉野雪さんに会いたいとか言い出しましてな……」
困った生徒ですよ、と明らかに迷惑そうなサブちゃんである。
しかし、吉野雪は、興味深そうに目を光らせて私を見た。「まあ、こちらのお嬢さんが?」
予想に反して吉野雪が興味を示したので、挨拶しなさい、と言われて背筋を正す。
「大阪府出身、はる乃夢です!! 好きな食べ物はタコ焼きです! よろしくお願いします!!」
「誰もそんなこと訊いてへんがな……」
サブちゃんが呆れているが、吉野雪は、笑って聞いてくれた。
「ふふ…。とてもおもしろい方ね。まだ入団して4、5年くらいかしら?」
「今年で7年目になります! 先日、お恥ずかしながら、初めて、新人公演の主役というものをさせていただきました!」
吉野雪が、あっと声を上げた。
「ああ、思い出したわ。こないだの本公演で、主役のヴィクトルの仲間の、ヘクター役を演じていらした方ね? 確か、お芝居の途中で剣を取り落とした……」
そんなところまで覚えられていたとは、いかにも恥ずかしい。でも、そこまで深く印象に残る役だったのなら、却ってよかったのかもしれない。
「うちの孫、男の子なのだけれど、あの子もあなたのことを気に入っていたわ。とてもかっこいい方だって。本当、そのとおりね。あなたのような方は、きっと、将来大物になるわよ」
孫――藤梧のことだ。
藤梧が、私のことを「かっこいい」と? 本当だろうか。
「あなたさえよかったら、今度、ぜひうちにも遊びに来てもらいたいわ。孫も喜ぶと思うの。もちろん、わたしと主人もね」
ああ、運命の女神よ! やはり、女神は私を見捨ててはいなかったのだ!
「……いいんですか?」
「もちろんよ。わたしは、お世辞でこんなこと言っているわけではないのよ。ああ、そうだ――紙とペンは持ってる? うちの住所を教えるわ。これで信じてもらえるでしょう。あなた、うちには、いつでも遊びに来て構いませんからね」
まさしく幸運!
だけど、もともと反対していたサブちゃんからしたら、これはちょっとおもしろくない出来事である。
「ちょっと、お静さん、困りますわ……」
「何が困るの。彼女は、わたしの後輩でしょう。後輩を自宅に招くことの、どこがいけないの」
「いやぁ、でもねぇ……」
相手は、吉野雪に会いたくて自宅まで追いかけようとするような子だよ、と言いたいのを必死で飲み込んでいるのが見て取れた。
確かに、私の動機は少々不純すぎたかもしれない。でも、吉野雪本人が、こう言ってくれているのだ。なら、それを利用しない手はあるまい?
「いやだなぁ、大先輩の吉野さんに、おかしなことなんてするはずないじゃないですか。先輩がこう言ってくださっているんですよ、断る方が失礼ってもんでしょう」
「そうよ、サブちゃんに何の断る権利があるって言うの?」
吉野雪にそこまで言われたら、さすがのサブちゃんも、ダメとは言わなかった。
「お静さんがそこまで言わはるんなら僕は止めへんけど、くれぐれも、大先輩に失礼のないようにな。わかった?」
「ええ、ええ……わかってますとも」
少し時間はかかったけれど、これでひとつ問題はクリアした。あとは、吉野雪から、孫の藤梧の自宅を聞き出すだけ……。
「あなたが遊びに来てくれたら、きっと孫も喜ぶわ。あなたの大ファンなのよ」
「お孫さんは、いつもご自宅に?」
「ええ。3世代で暮らしているの。いまどき、珍しいでしょう。でも、古い家だから仕方ないわね」
いつでも来ていい、と言うので、早速明日にでもお邪魔しますと約束した。
待ってろ、藤梧。この落とし前は、きっちりとつけてもらうからな。
※「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」(静御前)




