3.知らざぁ言って聞かせやしょう(1)
彼と再会したのは、たまたま稽古が休みの日で、散歩がてら街を歩いていたときのことだった。
二人、何となしに目が合って、お互いに、「あっ」と声を上げた。
「君は、確かあのときの……」
「はる乃夢さん、ですよね」
短く刈り上げたブロンドの髪、170センチ近い長身、そして中性的にも見える整った顔立ち。
それは、紛れもなく、僕がおばあさまと舞台観劇をしたあのとき、ショーの途中で目が合ったと思わせたあの男役だった。
「……知っていたのか」
彼は驚いている。まさか、入団7年目の若手の自分の顔を覚えている人間がいるなんて、とでも言いたげな顔だ。
「調べましたから。プログラムの配役と顔写真を見れば、あれがあなただってことがすぐに分かりますよ」
あの劇団が公演ごとに販売している公演プログラムには、公演のあらすじはもちろん、配役や、各場面の出演者も事細かく載っている。そして、出演者の名前は、主役から、まだ役のつかない新米役者まですべてひとり残らず、芸名とふりがな、顔写真がセットになって掲載されるのだ。
「参ったな。まさかそこまでバレていたとは」
はる乃さんは、照れくさそうに頭を掻く。その姿がまた、様になっている。
「君には恥ずかしいところを見られてしまったからね。いやあ、まさか、私もあんなところで転ぶなんて……」
実は、お芝居でのミスも見てました、とはさすがに言えない。
あのときは主演スターの葉名咲スミレがとっさの機転を利かせたおかげでなんとかなったようなものの、僕みたいに少しでも舞台に通じた人間の目から見れば、あれが演技上のミスだったとはっきりわかってしまう。ミスを起こした当人にとっては、できれば触れてほしくない話であることは間違いなかった。
「君は、この近くの人?」
「いえ、今日は仕事が休みなので、買い物でもしようかと銀座をぶらついていたところだったんです」
いわゆる、『銀ブラ』だ。まあ、銀座は “職場のひとつ” でもあるのだけれど。
幼い頃から、父や祖父のおまけで歌舞伎座に出入りさせてもらっていた僕は、プライベートで遊ぶときも、いつも銀座周辺が多かった。中学の頃、初めて女の子を街に連れ歩いたのもこの銀座だ。だから銀座は、僕にとって、第二の我が家みたいなものだった。
「ふうん……」
「はる乃さんは、今日も公演中ですよね?」
帝国女子歌劇団における一作品の公演期間は、概ね1ヶ月。1回の公演時間は2時間から3時間程度。それは歌舞伎と一緒だ。
ただ、歌舞伎の場合は、昼の部と夜の部で違う演目を上演することが多く、昼夜ともに出演する場合もあれば、昼の部か夜の部どちらか片方だけの出演という場合もある。
はる乃さんの劇団は、開演時間によって、1日1公演の日と、2回公演がある日とがある。そして、2回公演の日でも、歌舞伎のように、早い時間と遅い時間で上演内容が違うといったことはない。まあ、これは、この劇団に限らず、日本のほとんどの演劇がそうだろうと思うが。
面白いのは、この劇団が、1ヶ月の公演を、関西と東京で続けて上演するということだ。関西で1ヶ月、東京で1ヶ月。歌舞伎は1ヶ月公演をやったら、そのあとはまったく違う作品に出るか、あるいは次の公演が決まるまでずっとお休みなので、そんなところも違うなぁと思わされるのである。
「昼公演が終わって、夜公演が始まるまでしばらく休憩しているところだ――とはいえ、ずっと部屋の中にいるのも息がつまるから、こうして散歩がてら街を出歩いていたんだよ」
はる乃さんは笑って言うけれど、それって大丈夫なんだろうか。
入団7年目、業界ではまだまだ若手とはいえ、見る人が見れば分かってしまう。
それに、はる乃夢といえば、現在公演中の作品で、入団7年目までの若手だけを集めた『新人公演』の日に待望の初主演を務める人物でもある。それだけ期待の人が、こうして街を歩いていたら……見つかるのは時間の問題だった。
「あの、どこか店の中に入りませんか。この近くに、僕の行きつけの隠れ家的なカフェがあるんです。そこなら誰にも見つかりませんよ」
目の前にいるこの美しい人を、早くどこかに匿わなければ。そうでもしないと、誰かに連れ去られてしまうような気がして、僕は気が気でなかった。
誘っている、と思われただろうか?
けど美しい人は、軽く微笑み返して「いいよ」と頷いた。
人目を盗むようにして狭い路地に入り、そこの突き当たりにある、僕の行きつけのカフェへと入る。
あまりに辺鄙な場所にあるので、ここに来る客は、よほどの常連か、誰かの紹介でないとやってこない。そういう面では、僕みたいに身内に少し有名人がいる人間は、休日に気兼ねなく過ごす場所としてとても都合がよかった。
「……なかなかいい店じゃないか、マスターもいい人そうだしね」
席に着くなり、店内をぐるりと見渡した彼がポツリと言う。メニューを手に取って、アイスカフェラテとハンバーグライスを、と頼んでいる。
「君はもう決まった?」
訊ねられて、僕も慌ててメニューを開いた。まさか、あなたに見惚れていました、とは言えない。
「そうですね。では、ブレンドコーヒーをひとつ」
「マスター、ブレンドコーヒーひとつ!」
……もう! コーヒーを頼む仕草ひとつとってもかっこいいとかなんなんだ、あなたは!!
でも、こうして、大好きな『帝女』の未来のスターと、1対1でコーヒーブレイクをしているなんて夢のようだ。いや、夢じゃないだろうか? ほっぺたをつねってみる、痛い。じゃあ、やっぱり夢じゃないんだ!
「君は、おもしろい子だね」
はる乃さんが笑う。ああ、またその顔。なんて魅力的な笑顔なのだろう! まさに王子様スマイル。
「うちの芝居では、男性のお客さんは少ないから、すごく印象的だった。それも、君みたいに、若くて、ハンサムな男の子だと特にね」
そう言ってウィンクまで飛ばしてくる。
でも確かに、男性のお客さんは少なかった。帝女のファン層といえば、若い人から年配の人まで幅広くいて、時にはまだ小学校に上がるか上がらないかくらいの小さな子もいるけれど、そのほとんどが女性なのである。劇団の名物でもある『男役』は、女性にとっての男性の理想化、ともいうからそれも当然なのかもしれない。
「いつも観に来ているの?」
訊かれて、僕は頷く。
「ええ。祖母が『帝女』の大ファンなもので……」
本当は、昔、その『帝女』にいたからだけれど、とは言わずにおく。過去がどうであれ、今はただのファンであることは事実だ。
「そう。おばあさまが……」
ひょっとして隣に座っていたのがそうか、と訊かれてまた頷く。
「ああ、あの素敵なマダムか。よく見かけるよ。こないだは、和服を上品に着こなした、年配の男性と一緒に観に来られていた」
「それは、たぶん祖父です。よく夫婦で観劇に行っているので」
素敵なおじいさまとおばあさまだね、と言われて、ちょっと照れくさくなる。
そんなはる乃さんが、突然、「そういえば」と前置きしたので何事かと思った。
「まだ君の名前を聞いていなかった。私の名前は知っているよね、はる乃夢。みんなには、『はーちゃん』とか『ゆめ』と呼ばれている」
「僕? 僕は……」
一瞬、ためらう。僕には二つの名前がある。歌舞伎役者としての名前と、普段、大学や友人の前で過ごすときの本名と。
迷った末に、僕は後者を取ることにした。
僕は今、『歌舞伎役者』ではない、『本名の永山藤梧』として、ここにいるのだからと。
「永山藤梧といいます。友達には、トウゴって呼ばれることが多いですね」
「藤梧か、いい名だ。じゃあ、私もそう呼ばせてもらおう」
また会えるかな、藤梧、と言うので、たぶん会えるでしょう、と答えた。
「といっても、今みたいにカフェに入ってお茶することはないと思いますが、僕は、これからも『帝女』を観に行くつもりですので」
はる乃さんが、舞台の上から観劇する僕を見つけることくらいはできるかもしれない。
「……でも、舞台の上から、見えますかね?」
「見えるさ。私は目がいいんだよ」
そんな話をしているうちに、コーヒーとアイスカフェラテ、ハンバーグライスがやってきて、はる乃さんは夢中でごはんを食べ始めた。
あらかた食べ終わったところで、彼が、ポツリと話し始める。
「……私はね、出来損ないの落ちこぼれなんだ。君も見ただろう、芝居でもショーでも失敗ばかりさ。いつかは主演スターになりたくて頑張ってきたけれど、やっぱり、私には向いていなかったのかもしれないって時々ひどく落ち込むことがあってね」
舞台の上とは違う、ひどく悲しそうな姿に、ドキリとした。
私は出来損ないの落ちこぼれ……。
あのはる乃夢でもそう思うのかと、少し意外だった。なんだ、結構人間らしいところもあるじゃないか、とも。
「僕も……僕も同じです。僕にも憧れる人がいて、その人みたいになりたくて頑張っているんですけど、どうしてもなれなくて。そんなときに、やっぱり僕には向いていなかったんじゃないかって、そう思うんです。このまま、続けていてもいいのか、とも」
僕は、歌舞伎役者の息子だ。祖父も曾祖父も役者で、普通ならば、継ぐのが当たり前である。だけど、その息子には歌舞伎役者としての素質や才能がなくて、これはどうしようもないと分かったら、歌舞伎役者ではない道もあるんじゃないのか。
歌舞伎としての家は才能のある弟子が養子に入るなりなんなりして継いで、才能のない僕は、歌舞伎とは関係のない、一般企業に就職して働く。そんな未来もあるんじゃないのか。
「……きみ。きみは、まさか」
バレたかもしれない、と思った。でも、幸いなことに、 “まだ” バレてはいなかった。
「君も役者なのか? どこの劇団? 今度、観に行くよ。そうだ、連絡先を交換してもいいかな?」
連絡先を交換するだなんておこがましい、と思う。相手は未来のスター、僕が気安く話しかけていい相手ではないのだから、と。
だけど僕の手は、知らずのうちにスマホを取り出して連絡先を交換していた。
「この近くに、私が父親のツテで借りているスタジオがあるんだ。よかったら、今度、君も来ないか」
「い、いいんですか?」
僕なんかがお邪魔しても?
「当たり前じゃないか。君も、私も、同じ『演劇』の道を行く、ひよっこ同士。ひよっこはひよっこらしく、共にはばたく練習をしようじゃないか」
僕は、ひよっこ。そして、あなたも、ひよっこ。
僕達は、よく似ていた。
お互いに役者をしていることも。それが、同性の役者しかいない極めて異質な世界で、互いに、異性の恰好をして異性の役を演じているということも。
この人がいれば、僕は歌舞伎の世界でもうまくやれるような気がした。
はる乃夢が『帝女』の主演スターになることができたなら、僕は、おじいさまやひいおじいさまにも負けない、立派な歌舞伎役者になれるような気がしたのだ。