家は末代、人は一代(後編)
代役の公演が終わった次の日から、わたしは、きっぱりと歌舞伎を辞めた。
父とも兄とも離れたくて、田舎の祖父母の家で暮らし始めた。
学校も、転校して祖父母の家から徒歩30分の村の学校へ通うようになった。
仲が良かった東京の友達とは離れ離れになってしまったが、それでよかったのだと思う。
あのまま、父や兄のそばにいたら、わたしはもっと辛い思いをすることになったと思うから。だったら、いっそのこと、忘れてしまえばいい。辛い記憶も、楽しかった思い出も、全部。まるで最初からなかったみたいに、綺麗さっぱり忘れてしまおう。そして、『歌舞伎の娘』じゃない『普通の女の子』として生きるのだ。
一度そう思ってしまえば、生きるのは簡単だった。
「羽佐間さんは特別なおうちの子だから」
東京で、幾度となく言われてきた言葉。あの頃は、誰もがわたしやわたしの親に気を遣っていたのだと思う。親が有名人だから、と。
それがどうだ。
こっちでは、わたしの家柄や親の職業のことであれこれ言われることなんてない。「えいちゃんのお兄ちゃん、またテレビに出てたね」とからかわれることもない。
「えいちゃんは特別でもなんでもありゃあせん。極々普通の子だあよ」
そう言った祖母の言葉が、『特別』に慣れすぎていたわたしの耳に、どんなに嬉しく響いたことか。
おばあちゃんは強い。
あの完璧主義者の母のことも「小梅は昔っから愛想がない」と笑うくらいだから、大したものである。
「だから嫁のもらい手がないんじゃないかって、父ちゃんも私も心配しとったのよ。まさか、あんないい旦那が現れるとはね……もう村じゅうビックリしたもんだよ」
真面目で誠実だし、何より男前でねえ。あんなにいい男は、この村じゃあ、他にいないよ。
ばあちゃんの口から語られる父の人柄は、どこか別の人のようで、本当にそれは父なのかと疑いたくなるほどだった。
だから、訊いてみたくなった。
「ねえ、ばあちゃん、『揚本芋四郎』って、知ってる?」
「いンや。何だねそれは。新しいジャガイモの品種かえ?」
それを聞いて、一気に、肩の力が抜けていくのを感じた。
ジャガイモ。そっか、ジャガイモか……。
「ちがうよ、ばあちゃん。歌舞伎役者の名前。有名な俳優さんだよ。この辺にも地方公演とか……ああ、来るわけないか。ここには、大きな舞台ができるようなとこ、ないもんね」
「ごめんねえ。ばあちゃん、芸能人とか、とんと疎いもんで」
仮にも一人娘の嫁いだ相手だというのに、よくもまあ、こう無頓着でいられるものである。それとも、父が歌舞伎役者であると知らずに結婚を承諾したのだろうか?
「ねえ、お父さんのこと、どう思ってる?」
「男前な人だねえ。見た目はもちろんだけど、なんていうか、心意気だね。あれが東京モンなんだって、ビックリしたもんだよ。小梅を嫁にほしいって言ってきたときだってねえ……」
「うん。もういいよ」
もう、十分にわかったから。
ばあちゃんは『揚本芋四郎』も『揚本芋太郎』も知らない。肩書や家柄だけで判断できるような人じゃない。
だから、わたしのことも、ごく普通の、ばあちゃんの孫娘の曳子だと扱ってくれる。
それで十分だ。
*
兄が、『揚本芋五郎』を襲名すると知ったのは、村の中学に入ってすぐのこと。
芋五郎は、父が若い頃に名乗っていた名前である。
芝居小屋のないこの村では縁のないことだけど、中学生になった兄は、名子役として名を馳せ、順調に歌舞伎役者としての道を歩いているらしかった。
もちろん、こんなこと、ばあちゃんの前で口に出したりしない。
ただ、ふとした拍子に「藤薫も東京で元気にしとるかいね」などと言うので、「元気でやってるみたいよ」とだけ言う。
藤薫は、兄の本当の名前だ。羽佐間藤薫。いかにもお堅い軍人みたいな名前だが、藤は我が家の家紋でもあり、『薫』の名は父の…いや、父の父の代から受け継がれてきた大事な名前でもある。兄が、羽佐間家にとって…そして歌舞伎の名家『堅上屋』にとって…大事な、大事な存在だから。
時々、兄のことを思い出す。
幼い頃、近所の公園で一緒に泥んこになって遊んだこと。歌舞伎の発声がうまくできないわたしに、遅くまで付き合って稽古をつけてくれたこと。毎日一緒に学校へ通ったことも、机を並べて宿題したことも。あの頃は、すべてが楽しくて、ずっとこの時間が続けばいいのにとばかり思っていた。
でも……今は……。
わかってる。
兄は、歌舞伎役者としての将来を約束された『我が家の宝』で。
わたしは兄にとって『邪魔な妹』にしかならないってこと。
だから遠ざけた。
兄が嫌いだったわけじゃない。
兄を……兄と、兄が大切にするものを守りたかったから。
母がいつも、口癖のように言っていた言葉。
――家は末代、人は一代。
堅上屋は、江戸時代から400年近く続いてきた由緒ある家系だ。何度も代替わりを繰り返して、時には遠縁の役者を養子に迎えたり、逆に嫁に出したりして、今日までやってきた。
そうだ。代わりの人間なんていくらでもいる。
だけども、『家』はこれからも続いていくのだ。わたしが、大好きだった歌舞伎のお稽古を辞めて辺鄙な田舎へ移り住んだとしても。
「せまじきもの(※1)は……兄の代役、かな」
あのとき、わたしが代役を引き受けていなかったら……?
そしたら、いま、こんな気持ちになることもなかったんだろうか。
兄への劣等感と、みじめさと。
誰も知り合いのいない田舎で『普通の女の子』として暮らすことの開放感。
それでいて、ひとたび、兄の噂が耳に入れば、今頃どうしているのだろうと、恋しい気持ちが芽生えてくる。
にいになんて、大嫌いだったはずなのに。
ととにも、にいににも、もう二度と会うものかと思っていたはずなのに。
なぜだろう。
いまは、会いたくてたまらない。
会って直接言いたい。
おめでとう、と。
おめでとう。またひとつ、夢が叶ったね。
*
ずっと大丈夫だと思っていたのに、また、振り出しに戻ってしまった。
ばあちゃんは、学校から帰ると部屋にふさぎ込むわたしをひどく心配した。
「どしたん、えいちゃん。学校でいやなことあったんか?」
「何もないよ。いまは誰ともいたくないだけ」
「それがおかしいじゃろうて。なんや、お友達とケンカでもしたんか? それとも先生にいやなこと言われたか?」
「どっちでもない。もう、放っておいてったら!」
なんでわかってくれないのかな。ばあちゃんだって、たまにはじいちゃんと離れてひとりになりたいときって、あるよね? それと一緒だよ。
「でも、えいちゃん――」
「ああ、もう、うるさいうるさい!! ばあちゃん、気が散るから、あっちへ行って!!」
しつこく聞いてくるばあちゃんを追い出して、ひとり、部屋にこもった。
ばあちゃんの顔も、じいちゃんの顔も見たくない。
もちろん父や兄の顔だって見たくない。
そんなとき、ふと、自分が世界にひとりぼっちなんじゃないかという妄想に陥ることがある。
遠い未来。人類はみな滅亡してしまって、地球上にわたしたったひとりだけ。
そう。たったひとり。
『歌舞伎役者の娘』だと好奇の目で見てくる人もいない。
わたしより兄を優先したがる両親も、お稽古ばかりでちっとも遊んでくれない兄だっていない。女の子なのにかわいそう、と哀れみの目を向ける姉たちだっていない。
文字通り、わたしひとりだけの世界だ。
わたしが何をしたって許される世界。
そんなものが、本当に存在していたとしたら――。
……歌舞伎のお家のお子さんといっても、女の子じゃ、ね。
……お兄さんは大事なお稽古があるんですからね。邪魔をしてはダメよ。
……ああ。曳子が、男の子だったらなあ。
……えいちゃんは女の子だから役者にはなれないよ。
ほんとうは、わたしも、お芝居が好きだった。
だけど子役を卒業したら二度と舞台には上がれないと言われて、怖くなった。
舞台に上がれなくなって、そのまま、好きだったはずのお芝居まで嫌いになってしまう気がして、怖かった。
わたしが、もし、女の子じゃなかったら。
歌舞伎の家に生まれた男の子だったとしたら。
トゥルルル…。
電話が鳴っている。
この家には、電話は茶の間に置いてあるひとつしかない。いつもじいちゃんとばあちゃんと談笑している部屋。いつもなら2コール目が鳴ったあたりでばあちゃんが受話器を取るはずだけど、おかしいな、今日は4コール目が鳴っても電話に出ない。
「ばあちゃん? 電話鳴ってるよ?」
ひょっとして、居眠りでもしているのか。声を掛けに行こうと部屋を出たが、そこには誰もいなかった。
「ばあちゃん?」
トゥルルル…。
電話は相変わらず鳴っている。
「ばあちゃん? 出るよ?」
しびれを切らしたわたしは受話器を取った。わたしだって、もう、中学生だ。電話に出て伝言を預かることくらいできる。
「はい。もしもし……」
〔その声。曳子か〕
ビックリして、受話器を取り落としそうになった。
この声。おとうさん?
〔ちょうど良かった。おまえに話したいことがあったんだ〕
「話したい…、こと?」
なんだろう。兄さんの話じゃないよね。
〔おまえ、役者の仕事に興味はないか〕
「えっ!」
たったいま、自分がお芝居を好きだったことを思い返していたばかりだったから、その父の言葉にドキリとした。
〔曳子、芝居、好きだったろう〕
まるで、わたしの心の内を見透かしたかのようなその言葉。
そうだ。わたしはお芝居が好きだ。
兄と一緒に歌舞伎のお稽古をしていたときも、初めて『歌舞伎役者の娘』として舞台に上がったときも、兄の代わりに舞台を務めたときも、そうだった。いつもある兄への劣等感の傍ら、どこかで、わたしはお芝居が好きなのだという気持ちに心を揺り動かされていた。
〔私の知り合いで、映画監督をやっている男がいるんだが、彼の映画に出てくれる中学生くらいの女の子を探していてね。どうだ、やってみないか〕
映画。お芝居。中学生の女の子。
舞台でも歌舞伎でもないが、兄の『代役』ではない、わたしへと直接あてがわれた初めての仕事だった。
「やる! やるよ、わたし。お父さん、わたし、やる」
これは一種のチャンスかもしれない、と思った。
わたしが、わたしらしく生きていくための。
この映画が成功したら、わたしは、今度こそわたしらしい未来を勝ち取れるのだ。
〔そうか。そう言ってくれると思っていたよ〕
話はとんとん拍子に進み、翌日には、わたしは荷物をまとめて東京へ向かっていた。
そして件の映画監督との打ち合わせ。父の紹介もあって、監督もわたしの出演をぜひにと勧めてくれた。また、出演の際に、本名の『羽佐間曳子』では目立ちすぎるからと、芸名を授けてくれた。
女優・行ひく子の人生は、思えば、この瞬間から始まったのだった。
13歳で鮮烈な銀幕(※2)デビューを果たしたわたしは、その後も、映画にドラマにと出演オファーが殺到し、学業のかたわら、1年に2~3本くらいの間隔で映像の仕事を引き受けた。
高校は芸能科のある学校へ進学、大学も演劇の分野を専攻して、舞台以外の道もいいなぁなんて思っていた矢先のことだった。
舞台に出てみないか、と言われた。
子役とはいえ、もともと舞台出身の人間であるから、当然といえば当然なのだが、もう舞台関係とは縁がないと思っていただけに正直驚いた。
それも、ストレートプレイ(※3)ではなくて、ミュージカルだというのである。
「行さんの声は、歌向きだと僕は思うんです。なんて言うのかな、声質? いい声をしてらっしゃいますよね」
まさか、お芝居をずっとやってきて、声を褒められるとは思っていなかった。
「でも、わたし、歌なんてやったことないですよ。子どもの頃に幼稚園で歌ったことがあるくらいで」
「それはこれからどうとでもなります。舞台には、歌唱指導の先生もいらっしゃいますから」
「本当にいいんですか?」
「プロデューサーの僕が言うんですよ。いいに決まってるじゃないですか」
なら、やってみようか。ミュージカル。歌。いいじゃないか。
慣れない歌は最初のうちは苦戦したけれど、徐々にコツをつかんできて楽しいと思えるようになった。
映画からはじまり、ドラマ、ミュージカル、ストレートプレイ、時にはCMやバラエティ番組まで幅広くこなした。
いまでは『歌舞伎役者の娘』なんて呼ぶ人間はひとりもいない。
わたしは必要とされている。
父や兄のオマケじゃない、わたしという人間を必要としてくれている人がこの世にはいるのだ。それが嬉しかった。
そして――
また、数年のときが流れた。
父は、揚本白芋の名を襲名し、芋四郎の名は現在、兄が引き継いで舞台に上がっている。
そんな兄も、いまは結婚して2児の父だ。
長男のほうは既に初お目見えを済ませ、初舞台も済ませて、当代の揚本芋太郎を名乗っている。
わたしはというと、35歳にして、新たな人生の岐路に立ったところだった。
「…もう!何、緊張してるの!お父様に会って話すんでしょう?」
わたしの隣にいるのは、あの日、わたしに歌への可能性を示してくれた人。当時の舞台プロデューサーだった。
彼とはあの後も何度か仕事を重ねる縁があり、いつしか、わたしたちの仲は単なる仕事仲間という以上の絆が芽生え始めていた。
「だ、だって、大切なお嬢さんをいただくんですよ? いや、行さんは『モノ』じゃないけど。それくらいわかってるけど」
彼は、わたしが揚本白芋の娘であることを知っている。
知った上で、それでもいい、と言ってくれた。
「僕は、君が揚本白芋の娘だから、好きになったわけじゃないんだよ」
わかってる。初めて会ったときだって、わたしは歌舞伎役者の娘であることを隠して生きてきたのだから。
いまは隠してはいない。
歌舞伎の名門に生まれたことも、その家の女の子として生まれたことも、舞台が好きでお芝居が好きなことも、全部、ありのままを受け入れて生きている。
「曳子、改まって話というのはなんだ?」
父がわたしたちの目前にやってくる。唇をきゅっと引き締めて、いかにも厳めしい風だけれど、どこか緊張しているように見えるのは気のせいかしら。
「ね、言うんでしょう。例のやつ」
隣の彼にそっと目くばせをする。わたし、一度でいいから言われてみたかったのよね。
「え…、えぇ?言うの?いま?」
「いま言わなくて、いつ言うのよぅ」
彼は改めて姿勢を正すと、父に向かって言った。
「お嬢さんを……曳子さんを僕にください!!」
わずかな沈黙のあと、父が遠い目をして言う。
「そうか。曳子も、もうそんな歳か。寂しくはなるが、娘を頼みます。こう見えても大切な末娘なのでね」
深々と頭を下げる父。「ばっかもーん。娘はやらん!」なんて怒る父を少し想像してはいたけれど、そんな風に言われるのも悪くはないと思った。
そして、ようやく気付いた。
父は初めから、わたしのことを『ちゃんと』見てくれていたのだと。
いらない子なんかじゃなかった。
わたしは父に大切にされていた。わたしの大好きな、そして誰よりも尊敬しているお兄ちゃんと同じように。
※1 『菅原伝授手習鑑』四段目・切「寺子屋」より、有名なセリフ。「せまじきものは宮仕えじゃのう」(意訳:宮仕えなんてものはするもんじゃねえな)
※2 映写幕、スクリーンのこと。転じて、映画そのもの、または映画界のことを指す。
※3 ミュージカルやオペラなどに対して、音楽などのない劇・芝居のこと。セリフ劇。




