序
蝶になりたかった。
どこまでも遠く、青い空を舞う、美しい蝶になりたかった。
あなたは蝶。
でも、ぼくは……蝶にはなれない。
*
夏の稽古場は暑い。既に、兄さんもぼくも汗だくになっている。
こんな日は稽古をさっさと終わらせて、涼しい縁側でアイスクリン(※1)でも食べたいところだが、そうはさせてくれないのが、ぼくの兄さんだ。
――暑いからと、稽古を休んでいい理由にはならない。そんなことを言っていると、今に下のヤツに抜かされるぞ。
というのが、兄さんの持論である。悔しいけれど、至極真っ当な意見だ。
師匠や他の兄さん連中との合同稽古が終わっても、兄さんは、自宅の稽古場で稽古に励む。兄さんにすれば、それは『当たり前』で、特別なことでもなんでもないんだそうだ。
――うまくなりたきゃ人一倍、それも自主的に稽古をしてこそ技術も上がるってもんだ。
いつしか、そんな兄さんに憧れて、ぼくも稽古に付き合うようになった。
少しでも、憧れの兄さんに近づきたかったから……。
兄さんといっても、彼は、ぼくの実の兄ではない。
ぼくは、歌舞伎の名優、山科蝶三郎の弟子で、彼はその兄弟子。より正確に言えば、兄さんは蝶三郎の嫡子で跡取り息子、ぼくはその弟弟子だった。
本当のところを言うと、ぼくは、歌舞伎の家の子どもではない。
幼い頃、母に連れられて観に行った歌舞伎の舞台。
あのとき、舞台の上で、優雅な藤の精を演じていたのが、ほかでもない、今の師匠である山科蝶三郎だった。
端的に言って、蝶三郎の『藤娘(※2)』は、美しかった。
この世のものとも思えないほどに、美しかった。
この人は本当に藤の花の精霊で、ある男女の仲を取り持つために、地上に降りてきたのではないかと思えるほど、美しく、異彩な空気を放っていた。
公演が終わった瞬間、ぼくは母にこう言った。
「ぼくも、あの舞台に立ちたい。ぼく、歌舞伎、やってみたい」
もともと歌舞伎好きだった母は、喜んで、ぼくを歌舞伎の子役養成所に入れた。
そこで、憧れの山科蝶三郎に会ったのである。
ぼくの舞を見た蝶三郎は、すぐに、ぼくを弟子にしたいと言ってくれた。ぼくは、もちろん受け入れた。
母は、まさか息子が、歌舞伎役者の弟子になるとまでは思っていなかったようだけれど(子役養成所の件も、ピアノやバレエと同じく、子どもの習い事くらいに考えていたらしい)最終的には、ぼくが蝶三郎の弟子になることを認めてくれて、「息子をお願いします」と師匠に頭まで下げた。
今は、少しでも稽古の時間を確保するため、親元を離れ、師匠の家に寝泊まりさせてもらっている。
寂しくないと言えば嘘になる。けど、ぼくはあのとき、決めたのだ。
いつか、師匠のような――山科蝶三郎のような、立派な歌舞伎役者になってみせると。
山科蝶三郎の屋敷に世話になっているうち、蝶三郎の嫡子である、藤吉兄さんとも接する機会が多くなった。
兄さんは、運だけで歌舞伎入りしたようなぼくのことを、とても可愛がってくれた。
自分が出ている舞台に(ぼくは出ていないけれど)芝居の勉強のためだと連れて行ってくれたり、時間の空いているときには自宅で自主稽古をつけてくれたりもした。
ぼくは恵まれている、と思った。
最初に、歌舞伎の子役養成所(※3)に入れてくれた両親にも。弟子にしたいと言ってくれた師匠にも。それから、なんやかんやと面倒を見てくれる兄弟子にも。
だけど……歌舞伎の才能にまで恵まれているかどうかは、分からない。いや、もしかしたら、ぼくには歌舞伎の才能なんて、これっぽっちもないのかもしれない。
周りの人たちに恵まれすぎてしまったから、才能には恵まれなかったのだと、最近では思うようにしている。
兄さんは、すごい人だ。きっと、父親の跡を継いで、すばらしい役者になると思う。
けど、ぼくは……。
ぼくは、たぶん、兄さんみたいにはなれない。
*
その人と出会ったのは、ある、よく晴れた春の日のことだった。道端にはスミレが咲いていたし、花壇には、バラもパンジーも咲いていた。
初めて会った瞬間に、春のひだまりの中のスミレのような人だと、体じゅうが感じていた。
「ぼうや、どうしたんだい?」
やや掠れ気味の、耳心地の良い、低い声。くっきりと意志の強そうな目元に、短く切り揃えられた髪、よく磨かれた革靴と、オシャレなストライプ柄のスーツを身につけている。
美しい人だ、とぼくは思った。
男のようであり、はたまた女のようでもあり、どこか不思議な人だった。
けれど、美しかった。性別という概念を超越した魅力、とでも言おうか。とにかく美しい人だった。
呆然としているぼくを尻目に、その人は言う。
「わかった――おとうさんか、おかあさんと、はぐれたんだね。それで、探しているんだろう。よし、僕が一緒に探してあげよう」
笑って右手を差し出すその人に、ぼくは、そうではないのだと、言えなかった。
あなたに、春のスミレに引き寄せられたのです、と言うことができなかった。
ぼくは、導かれるままに、その手を取った。
まるで春のひだまりのような、不思議なお兄ちゃんの手は、あたたかいおひさまの匂いがした。
ふたりで手を取って。
あてもなく歩いて。
それは、まるで夢のようで。
ずっと、この時間が続けばいいなんて思っていた。
けど、夢はいつか醒めるものだ。
「こゐちゃん、困るで、主役がこんなところに居ちゃあ」
向こうから近付いてきた黒いスーツの男性を見て、ふと、お兄ちゃんの体が強張るのが見えた。
こゐちゃん? 主役? いったい何のことだろう。そして、この男の人は誰なんだろう。このお兄ちゃんと、何の関係が……。
「もうすぐ本番なんよ。相手役の女優も、2番手も、みんな、こゐちゃんが来ぉへんと始まらへんって、ピリピリしとる。お客様やって楽しみにしてくれはってるんやから、なあ、頼むで」
お兄ちゃんは、男の人をきつく見据えると、唇を堅く引き結んで言った。
「そう、かっか、かっか、するんじゃない。私は、今、本番前の全神経を集中させててるんだ。ちゃんと本番までには戻るから、みんなにも、そう伝えておくれ」
「そやけど、こゐちゃん……」
「うるさいねえ。おまえがいると気が散るから、さっさと消えとくれ」
わかりました、と男の人は去っていった。
チッと舌打ちをしたお兄ちゃんが、ぼくを振り向いて、笑顔を見せる。
「おっと、恥ずかしいところを見せてしまったね、ぼうや。さあ、行こうか」
そう言って、ぼくの手を引く。でも、ぼくは足が進まなかった。
――だって、気付いてしまったから。
「……行けないよ。本当は、お兄ちゃんも、舞台に出るはずだったのでしょう? それで、本番の前に、楽屋に行くはずだった。なのに、ぼくに付き合って、ここにいる。それは、よくないことだ」
子役として、まだ見習いながらに舞台に立つ身なら分かる。舞台がどれだけ大事か。そして、舞台の前に、出演者が楽屋に集まるということが、どれだけ大事なのかということを。
「ぼうや……」
「ぼくのことは気にしないで、お兄ちゃんは、舞台に行ってください。お願いします」
ぼくは、繋がれた手を離し、お兄ちゃんに頭を下げた。
頭を下げ、視界の端でお兄ちゃんが去るのを待ち……待ち……それなのに、視界の端に映るお兄ちゃんの影は、いつまで経っても消えてくれない。
「お兄ちゃん?」
堪え切れずに顔を上げると、そこには、ぼくをじっと見据えるお兄ちゃんの姿があった。
「ぼうや、聞いてくれるか」
ぼくの答えを聞かずに、お兄ちゃんは話し始めた。
なぜ、自分がここにいるか。スーツの人に呼ばれても舞台に戻らず、こうして、ぼくの『両親探し』に付き合っているのかを。
私は落ちこぼれだった、とお兄ちゃんは言った。どうしようもない落ちこぼれだった、と。劇団の養成学校のお成績は、いつもビリ。自分でもよくここまで来られたものだと、お兄ちゃんは笑う。
「でも、今は主役なのでしょう」
「ああ、まあ、主役だけれど。それも、たまたまだよ。私を使ってみようと思った奇特な先生が、私をぜひ主役にと薦めてくれてね。その先生がいなければ、今頃……」
お兄ちゃんが、そこで言葉を切る。ぼくには、なぜか、その言葉の先が想像できてしまった。
先生がいなければ、今頃。
今頃……。
「役者を続けてなかった?」
お兄ちゃんが、小さく頷く。
「でも、いまは」
「今は、分からない。本当に、私が主役で良かったのか。他にも適役はいるんじゃないか。私は、このまま役者として舞台に立っていていいのか、とも」
寂しそうなお兄ちゃんの横顔に、ふと、現実のぼくがリンクした。
ぼくは、このまま子役として、歌舞伎の舞台に立ち続けていてもいいのか。こんなぼくが、立派な歌舞伎役者になれるのか。師匠や兄さんに恥じない、いい演技ができるのか。
「ときどき思うんだよ。もしかしたら私は、役者に向いてないんじゃないかってね」
それは紛れもなく、今のぼくの心の声だった。
そうだ、ぼくは気付いていたんだ。もしかしたらぼくは、役者に向いていないんじゃないか、って……。
気付いていたのに、気付かないふりをしていた。そう認めてしまうのが怖かった。
「ぼくは……ぼくは……!」
悔しくて、苦しくて、息が詰まりそうになる。
そんなぼくに、お兄ちゃんはこう続けた。
「でも、ぼうやに会ったら、それも間違いじゃないかって思えてきたよ。不思議だね。ぼうやのキラキラした瞳を見ていたら、私にも、夢に向かって、もがいていた時期があったってことを思い出した」
君のおかげだよ、と彼は言う。
「私も、もう少し頑張ってみようと思う。ここが踏ん張りどころだね。いちかばちか、やってみるよ。ぼうやも……」
お兄ちゃんは、そこまでしか言わなかった。けど、次に続く言葉がなんなのかは、聞かなくても分かっていた。
――ぼうやも、『役者』なのだろう?
――だったら、どうするか。わかっているね。
ぼくはお兄ちゃんに向かって、力強く頷いた。
「ぼくも、もう少し頑張ってみるよ。ぼくたち『子役』は、まだまだこれからだもの。いちかばちか、やってみなければ分からないものね。だから、お兄ちゃん……」
いつか、ぼくが立派な役者になったら。
そしてそのときに、お兄ちゃんがまだ役者を続けていたら。
「ぼくと、一緒に舞台に立ってください」
お兄ちゃんは、笑ったまま、何も言わなかった。
でも、ぼくは信じて疑わなかった。お兄ちゃんが言うように、役者を続けていれば、いつかは……。
ぼくと、お兄ちゃんでは同じ舞台に立てるはずがないと分かったのは、もっと、ずっとあとになってからのことだった。
※1 アイスクリームのこと。
※2 歌舞伎舞踊『藤娘』 女形中心の舞踊劇なので、「女方舞踊」とも呼ばれる。藤の絡んだ松の大木、松が男で藤が女。松の大木の前に、藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊る。やがて酒に酔い、興にのって踊るうちに遠寺の鐘が鳴り夕暮れを告げると、娘も夕暮れとともに姿を消す。
※3 歌舞伎の子役には、俳優の親族・部屋子(弟子)の他、一般の児童劇団に所属する子役や関係者の紹介などで選ばれた子役の中から選考を行って指導を受けた子役が出演することもある。また、子役に対してのみ、男の子だけでなく、女の子が出演することができる。