終章
公演が終わって訪ねた藤乃ぼっちゃんの楽屋には、既に、先客がいた。
別に、盗み聞きをするのは趣味じゃなかったけれど、出ていくタイミングを見計らっていたら、聞こえてしまった。
若いふたり。相手のほうも、どうやら役者らしい。互いに切磋琢磨し、同じ志を持ってひとつの夢に向かう姿が目に浮かぶようだった。
わたしにも、そんな時代があったものだと、ふと思い出す。
何度も辞めようと思ったあの頃。
わたしは、ひとりの青年に出会った。
春のひだまりのような “お兄ちゃん” ……本当は、お兄ちゃんですらなかったのだけれど。
*
その昔、ある男が、蝶の夢を見た。
蝶となって美しい空を舞い、どこまでも遠く、どこまでも高く、飛んで行く夢。
そうして目が覚めたとき、いつもと変わらぬ人間の姿の自分に安心した。
だが、ふと思ったのだ。
これは、人間の自分が、蝶になった夢を見ていたのか? それとも、自分は、本当は蝶で、いま、人間の姿になった夢を見ているのか?
夢か現か。どちらが本当の私なのか。
しばらく考えた末に、あっと気付く。
どちらが本当か、なんて、そんなのはどちらでもいいのだと。
蝶であった私も、人間の姿の私も、どちらも『わたし』であることに変わりはないのだから。
*
女でありながら、男の格好をして、舞台に立っていたあの人。
それでも、あの人の演じる『男』は、かっこよくて、魅力的で、日本中の――いや、世界中の人たちを魅了した。
わたしは、本当は男の身でありながら、女の格好をして、『女』を演じている。
だけど、時々分からなくなる。
わたしは本当は男なのか、それとも女なのか。どちらが夢で、どちらが現実なのか。
そうして自問した末に気付く。ああ、そんなことはどちらでもいいのだ、と。どちらが本当か、なんて意味のない質問だ。
男のときのわたしも、女の姿のわたしも、どちらも『わたし』であることに変わりはない。真実の、わたしの姿なのだ。
人生というのは、儚いものだ。
わたしも、七十数年の人生を生きてきた。残された時間は決して長くはないだろう。
だけれど、こうして未来を繋いでいくであろう若者の姿を見ていると、このまま彼らにすべてを託して逝くのも悪くはないと思えてくる。
わたしは彼らに何かを遺してきただろうか。何を伝えられるだろうか。
一羽の蝶が、そんなわたしを慰めるように、ふと、目の前を掠めた……気がした。
*
そして月日は流れ――。
いよいよ明日、歌舞伎座のこの舞台で、かつては山科鯉三郎を名乗っていた男の、山科蝶三郎襲名披露公演の幕が開ける。
演目は、枝垂屋に代々伝わる人気の演目、『藤娘』。
ひとりの女形が、今宵、美しい藤の精に生まれ変わる。
蝶になりたかった。
どこまでも遠く、青い空を舞う、美しい蝶になりたかった。
あなたは蝶。
そして、わたしも……いま、蝶になった。
作中のある男のエピソードは、荘子による説話『胡蝶の夢』より。
※胡蝶の夢・・・現実と夢の区別がつかないことのたとえ。また、人生のはかないことのたとえ。