9.あなたこそ我が家(1)
ヴィクトルがロゼッタのもとへ帰ったように、私にも、帰るべき場所がある。
そして、それは、紛れもなく、安華いばらのいるところだった。
遅ればせながらようやく気付いた私は、思い立ったが早いか、アポなしで彼女の部屋を訪ねることにした。
インターホンが鳴り、開いたドアから、怪訝そうに顔をしかめたいばらが現れる。
「はる乃さん……? 急に、どうされたんですか? なにか、困ったことでも?」
私はその問いには答えず、いばらの頬に手を掛けると、夢中になってキスをした。舌を挿し入れて口内をまさぐり、息ができなくなるまでむさぼり合う。『本当のキス』に見えるためのキスシーンをするには、本物のキスを知ったらいいと、そう教えてくれたのは誰だったか。
初めて触れたいばらの唇は、やわらかくて、とても甘かった。
「はる乃さんっ」
突き飛ばされて、ハッとした。俯くいばらの顔は赤かった。
「ごめん……」
なにやってるんだ、と思う。これじゃあセクハラも同然じゃないか。
「なんで謝るんですか。謝ったら、わたしが嫌がってるみたいに見えるじゃないですか。そんなこともわからないんですか」
「え」
ちがうのか。いきなり家を訪ねてきて突然キスされて、嫌がらない女がどこにいる? 女同士とはいえ先輩で。いや、女同士だからこそ、こういうことには余計シビアになるってもんだろう。そうじゃないか?
「わたしが、はる乃さんのことを、嫌だと思うはずなんてないじゃありませんか。初めて、はる乃さんの方から歩み寄ってくれたんです。嬉しくないわけありません」
いばらは、繰り返すように言った。
「わたしは、ロゼッタ、あなたの妻のロゼッタです。あなたを、世界で一番、愛しています」
その瞬間、お芝居の中のロゼッタと、いばらの姿が綺麗に重なって見えた。
そうだ。私はヴィクトルだ。
ロゼッタの夫の、彼女を世界で一番愛している幸福な男の、ヴィクトルだ。
「……ただいま、ロゼッタ」
久しぶりの帰還。会いたくても会えなかった愛しい人の姿が、いま、目の前にある。その姿を目にした瞬間、私は、感極まって彼女を抱きしめた。
「……ヴィクトル」
背中に回される彼女の手。この手は、こんなにもか細く、頼りなかったか?
「会いたかった。君と離れている間、寂しくて悲しくてどうかなりそうだった」
「わたしもよ、ヴィクトル」
彼女の目を見つめ、その小さなあごを持ち上げて、薄く色づいた唇に口付けを落とす。それから、むさぼるようにキスをした。
愛してる。愛してるロゼッタ。世界で一番、君のことを愛している……。
愚かな私は、今になって、ようやく気付いた。
私にとって一番大事なのは、他でもない、いばらだったのだ。
こんなに私を立ててくれて、こんなに私を想ってくれる役者が、他にいるだろうか?
いばらとならば、きっと、いいコンビを築いていける。
「いばら、私の相手役になってくれてありがとう」
「なんですか、急に?」
いばらが目をぱちくりとさせる。そんな顔も、たまらなく愛しかった。
「いいじゃないか、別に。私は、いばらが好きだよ」
「わ、わたしも……はる乃さんが、世界で一番、好きです。はる乃さんが、わたしの初めての相手役でよかったと、心から思います」
「私も、いばらが相手役でよかった」
それからは、二人で貸しスタジオの方へ移動し、じっくりとキスシーンの練習をした。鏡で確認して、時には、ビデオに録画して二人で見返して。あんまり真剣にやるものだから、気付いたときには外が真っ暗になって、慌てて帰ったりもした。(もちろん、自宅まで送り届けた)
お稽古が楽しいと思えたのは、7年やってきて、初めてのことだった。
*
はる乃さんと別れた僕は、興之助兄さんに会いに行っていた。
アポもなにもなかったが、自宅を訪ねると、運よく、そこにいた。
「僕に稽古をつけてください」
玄関ドアを開けた兄さんに、開口一番、僕は告げる。兄さんは驚いた様子だったが、僕は、譲らなかった。
「いきなり訪ねたりして、迷惑なことはわかっています。だけど、稽古がしたいんです。先日の合わせ稽古のときは、なにもできなかった。でも、いまならできます。お約束します」
しつこく言うと、兄さんは根負けしたのか、しかたねぇなと言うように溜息を吐いた。
「……負けたよ、藤乃くんには。でも、いいんだね? やるとなったら、私は容赦はしないよ?」
「はい。よろしくお願いします!」
覚悟はできていた。
二人で稽古場に移り、改めて向かい合う。
興之助兄さんが、真っ直ぐに、僕の目を見つめた。僕も、同じ思いを返すように、兄さんの目を真剣に見つめる。
兄さんが、ゆっくりと口を開いた。
「命かけても愛したこの恋、どうにも許されぬのならば、いっそふたりでこの身を投げ出してしまおうか。いとし我が君、どうかわたしとともに……」
そして兄さんは、僕の腕を引き寄せる。
僕は、今度は拒むことなく、兄さんの胸に身を投げ出した。
「……あな、うれし」
その瞬間、僕は、完全に、『山科藤乃』ではなく、『藤花姫』であった。
この人と一緒なら、僕は、この先もずっと歌舞伎役者としてやっていける。
いま、はっきりと分かった。
この人が――興之助さんこそが、僕の運命の人なのだと。