8.恋の手習い
◆◇◆
天城戀。
大日本帝国少女歌劇団(現、帝国女子歌劇団)の元主演男役スター。のちシャンソン歌手。
大正XX年、静岡県の伊豆に生まれる。
芸名である「天城」も、この故郷の天城峠に由来。
音楽好きの父親の影響で、幼少期から歌うことが好きな少女だった。
その歌唱力の高さに加え、背が高かったことから(公称160cm。当時の成人男性の平均身長が同じくらいと考えると、中学3年生の少女の身長にしては十分高身長といえる)中学の教師に養成学校への受験を勧められて帝女を目指す。なお、入学時の成績は最下位だった。
劇団への入団後も最下位と後ろから二番目の成績を行ったり来たりしていたが、昭和XX年、ソロ歌唱シーンに抜擢されたことから注目を浴び、主演スターに上り詰める。
主演スターに就任後も、独特の色気と表現力豊かな歌声で人気を博した。
しばしば、帝女の伝説のスターといわれる。
昭和XX年に劇団を退団したあとは、シャンソン歌手として活躍。
私生活では、昭和XX年に作曲家・ピアニストの男性と結婚した。子どもはなし。病気のため、昭和XX年死去。
◇◆◇
パソコンの画面には、確かにそう映し出されていた。
帝国女子歌劇団。帝女。はる乃さんがいる劇団の名前である。
天城戀は、はる乃夢の、そしておばあさま――吉野雪の大先輩だったのだ。
うちにある、おじいさまの書庫にも、天城戀を取り上げた書籍はたくさんあった。昭和の演劇界のこと。歌謡界のこと。歌舞伎の世界にも影響を与えたと、そういった本まであった。
けれど、そのどれにも、鯉三郎姐さんとのエピソードを語ったものはなかった。
当然といえば当然だ。
姐さんは、その胸の内に秘めた想いを、これまでどこにも打ち明けたことがなかったのだから。僕だから教えてくれたと思うとくすぐったいが、とにかく、このことは誰もまだ知らないのである。
生涯をかけた、秘密の恋。
結果は、苦いものに終わったけれど。
僕の脳裏に、姐さんが最後に言ったあの言葉が蘇る。
――あなたが心から愛している人はいますか。
その人を大切にしなさい、と姐さんは言った。
でないと、後悔することになるから、と。かつての、わたしのように。
愛している人と言われても、すぐには浮かんでこない。
高校生だった頃は人並みに恋をして、恋人のひとりやふたりだっていたこともあったけれど、大学に入ってからは、歌舞伎がまず大事で、恋なんか二の次だった。
では家族か友人か、と訊かれると、そうでもない。
おじいさまのことも、おばあさまのことも好きだし、もちろん尊敬もしているけれど、姐さんの言う『愛している』とは、ちょっと次元が違う気がするのだ。
愛している人。僕が、心から愛している人……。
何度考えてみても、何時間考えても、まだ答えは出なかった。
そして、姐さんが「後悔している」と言った、その理由も。
*
ある日の休日。私は、葉名咲スミレに誘われて、東京の劇場近くの花屋までやってきていた。
目的は、ただひとつ。
相手役の娘役への、日頃の感謝の気持ちを込めた花束を買うためである。
気持ちのこもったプレゼントは、相手役との信頼感を高めるためにも効果的だと、葉名咲はそう言った。
「お花は、相手役に贈るにはもってこいのプレゼントだと思うわ。男役から娘役だと、特にね。あまり大きくないものなら化粧前にも飾れるし、そしたら、いつでも私のことを思い出してもらえるでしょう。男役は案外ロマンチストなのよ」
さくらに贈るとすれば、やっぱりコスモスよね、と葉名咲は笑う。
劇団の出版部で発行しているタレント名鑑にも、秋乃さくらは秋桜が好きだと書いてあった。葉名咲は、もちろんスミレだ。私の場合はカサブランカ。いばらは……なんだろう。芸名からすると、赤いバラかな、とも思うのだが。
だけど、花屋に行った私が思わず手に取ったのは、赤ではなく、白のバラだった。
純真無垢な白いバラ。可憐で、はかなくて。いばらの雰囲気によく似ている。
「あら、バラ。いいじゃない。バラは愛の象徴だものね。それに、白いバラの花言葉は『私はあなたにふさわしい』なのよ」
あなたにふさわしい――。
はて、自分は、いばらにふさわしい相手役だと言えるだろうか?
このあいだのミス。キスシーンひとつ、まともにできなくて。いばらや、他のみんなにも迷惑をかけた。こんな私が、本当に、いばらにふさわしい相手役なのか?
「まあ。見て、つぼみ」
葉名咲の声に気付いて花を見ると、白いバラの花瓶の中に、ひとつ、まだ咲き始めたばかりのつぼみがあるのに気付いた。
「知ってる? 白いバラのつぼみには、『恋をするには若すぎる』って意味があるのよ。ふふ、いまのあなたにピッタリね」
私は笑って流したが、それでも、どこか心の奥で引っかかっていた。
恋をするには若すぎる。
いばらとのことも。藤梧とのことも。
いつかは答えを出さねばならない。たとえ、いまはもがき苦しんでいたとしても。
*
気付いたら、何かに誘われるように、ここに来ていた。
帝国女子歌劇団、帝国大劇場の展示室。
いま、私の視線の先には、かの伝説の大スター、天城戀の姿がある。
初めは成績が悪くて、『落ちこぼれのスター』とも呼ばれた天城。だけど、瞬く間に人気のスターとなって、いまでは知らない人はないほど有名なスターになった。
落ちこぼれだった私にとって、まさしく希望の星みたいな人だった。
いつかは、私もスターになれるかもしれない。彼女のように、涙ぐましい努力を続けていれば……。
私も、彼女のようなスターになりたかった。でも、きっとなれないだろう。
私は天城戀ではない。どうあがいたって、天城戀にはなれるはずもない。
「この方が、天城戀さんなのですね」
ふいに声がして、現れたのは、藤梧だった。
藤梧がなぜここに……?
いや、全部は訊くまい。彼もきっと、何かに誘われるようにして来たのだろう。
私と彼は『同じ』だから。同じ、ひよっこ同士だから。
藤梧とふたり、並んで肖像画を眺めながら、ふと思う。
――私はあなたにふさわしい。
――恋をするには若すぎる。
白いバラの、そして、白いバラのつぼみの花言葉。
恋をした方がいい、と葉名咲は言った。
ヴィクトルの気持ちを分かるようになるためには、それが一番いいのだと。
私は、たぶん、恋をするには若すぎた。藤梧への気持ちが、恋なのかはわからない。でも、そばにいてやりたいと、守ってやりたいと、そう思う。
守る? そんな必要ないだろう。藤梧は『同志』で『仲間』だ。それに、私が守ってやるほどか弱くもない。本当に守ってやらなきゃならないとしたら、それは、いばらの方だ。
あのとき、いばらは泣いていた。
わたしのことが嫌いなのかと。なにか気に障る事でもしてしまったのではないか、と。
それで、ようやく気付く。
私がいま、大切にすべき人は――。
「ごめん、用事を思い出した」
「すいません、用事を思い出して……」
私と藤梧の声が重なる。
私達は一瞬、顔を見合わせたあと、くるりと踵を返して別々の方向へと歩き出した。
そうだ。私には帰るべき場所がある。そして、藤梧にも。