7.愛の讃歌
わたしは、京都にある古い呉服屋の次男として生まれました。
しかし、生まれつき体が弱く、幼い頃はしょっちゅう風邪を引いて母や女中の手を煩わせていました。
そんなわたしを少しでも丈夫にするためにと母が始めさせたのが、クラシックバレエでした。西洋の音楽に合わせて優雅に踊るそのさまは、それはもう、心地いいものでしたよ。
歌舞伎と出会ったのは、3歳のときです。
父がうちの店の上得意さんから譲り受けた2枚のチケット、それは夢の招待券でした。わたしは母に手を引かれ、初めて、京都南座に足を踏み入れました。
山科蝶三郎の『藤娘』は、美しかった。
この世のものとも思えないほどに、美しかった。
この人は本当に藤の花の精霊で、ある男女の仲を取り持つために、地上に降りてきたのではないかと思えるほど、美しく、異彩な空気を放っていた。
瞬間的に、わたしは、この人の弟子になりたい、と思いました。
もっといろんなことを教わりたい。そしていつか、彼と同じ舞を舞ってみたい。
そのためには、まず、歌舞伎役者にならなくてはいけないと知ったわたしは、どうにかして歌舞伎のお稽古ができないかと、母に頼み込みました。
断られるとは思いましたが、もともと歌舞伎好きだった母は、喜んでわたしを歌舞伎の子役養成所へ入れました。ツテを頼って、蝶三郎本人に会わせてくれたこともありました。
わたしの舞を見た蝶三郎は、すぐに、弟子にしたいと言いました。
当時、子役としては未熟だったと思いますが、バレエの経験がありましたから、きっと伸びるだろうと思われたのでしょう。どちらにしろ、わたしにとっては幸いなことでした。
子どもの習い事くらいに考えていた母は驚いていましたが、最終的には、わたしが師匠のお屋敷へ上がることを認めてくれて、渋る父を説得してもくれました。
歌舞伎としての所作や決まりごとを身につけるため、わたしは幼くして親元を離れ、師匠のお屋敷に居候させてもらうことになりました。
稽古は厳しかったですよ。何度もくじけそうになりました。父や母に会いたいと、泣いて師匠に懇願したこともありました。それでも諦めなかったのは、わたしの心のどこかに、師匠のような立派な役者になりたいという思いが残っていたからでしょう。
そうして、7歳のある日、わたしは師匠から『山科はるよ』の名をもらい、歌舞伎役者としての初舞台を踏んだのです。
初舞台の出来は、まあ、その年頃の子どもにしては、上々といった程度のものでした。むしろこれからが本番なのだ、とも思いました。
わたしは天才子役と呼ばれるタイプではありませんでしたが、良い師匠と良い兄弟子を持ったおかげで子役ながらに舞台の経験を積ませてもらえることも多く、日々のお稽古にも意欲的に取り組むことができました。
それでも、たまにひとりきりになると、落ち込んで考え込むこともありました。
自分はもしかして歌舞伎役者には向いていないんじゃないか、自分はこのままこの世界にい続けていてもいいのだろうか、と。
周りの人たちに恵まれすぎてしまったから、才能には恵まれなかったんだと、そう自責することもありました。
『あの人』に会ったのは、そんなある日の春のことです。
確か、大阪か京都か、関西公演の日だったかと思います。師匠と兄弟子が出演するその舞台に、わたしも、お手伝いのため、そして今後の勉強のためについていったのでした。
その頃、思うようなお稽古ができなくて落ち込んでいたわたしは、師匠のお芝居が上演されている途中、兄さんたちの目を盗んでこっそり芝居小屋を抜け出したのです。
ひとり、あてもなく歩いて、気付けば、まったく知らないところに来ていました。とんでもないところへ来てしまったと、わたしは慌てました。帰り道もわからない。師匠たちへ連絡できるツールも持っていない。そういえば、お金も持ってきていません。
「ぼうや、どうしたんだい?」
その人は、耳心地のいい低い声で、ささやくように言いました。
「わかった――おとうさんか、おかあさんと、はぐれたんだね。それで、探しているんだろう。よし、僕が一緒に探してあげよう」
差し出された右手に、恐る恐る触れる。あたたかいおひさまの匂いがした。
ふたりで手を取って。あてもなく歩いて。それは、まるで夢のようで。
ずっと、この時間が続けばいいなんて思っていた。
不思議な人。
男のようであり、はたまた女のようでもあり、それなのに、どこか惹き付けて離さない。とても美しい人だった。
夢から醒めたのは、向こうから知らない男の人がやってきて、その不思議な人を呼びに来たからでした。
「こゐちゃん、困るで、主役がこんなところに居ちゃあ」
それで、わたしは、初めて、その人が舞台の主役で、役者なのだということを知ったのです。
もうすぐ本番を迎える大事な舞台。楽屋での打ち合わせに、肝心の主役が現れない。これはどういうことか。見習いの身でありながら、子役として舞台に立つわたしには分かりました。
これは一大事だ、と。
すぐに楽屋に戻って詫びるべきだ、とも思いました。
きっと、共演の役者も、裏方の人間も、みな、心配していることでしょう。
この人はここにいてはいけない。わたしと一緒にいてはいけない。だけど、その人は、いつまで経っても、その場から離れようとしませんでした。
わたしがあたふたしていると、その人は、悲しい声で言いました。
「ぼうや、聞いてくれるか」
わたしの答えを聞かずに、その人は話し始めました。
なぜ、自分がここにいるか。先程の男の人に呼ばれても舞台に戻らず、こうして、わたしの『両親探し』に付き合っているのかを。
私は落ちこぼれだった、とその人は言いました。どうしようもない落ちこぼれだった、と。劇団の養成学校のお成績は、いつもビリ。自分でもよくここまで来られたものだと、おかしそうに笑う。
「でも、今は主役なのでしょう」
「ああ、まあ、主役だけれど。それも、たまたまだよ。私を使ってみようと思った奇特な先生が、私をぜひ主役にと薦めてくれてね。その先生がいなければ、今頃……」
そこで言葉を切る。
だけど、わたしには、なぜか、その言葉の先が想像できてしまった。
先生がいなければ、今頃。
今頃……。
「役者を続けてなかった?」
わたしの問いに、その人は、小さく頷きました。
「でも、いまは」
「今は、分からない。本当に、私が主役で良かったのか。他にも適役はいるんじゃないか。私は、このまま役者として舞台に立っていていいのか、とも」
寂しそうな横顔に、ふと、現実のわたしがリンクした。
わたしは、このまま子役として、歌舞伎の舞台に立ち続けていてもいいのか。こんなわたしが、立派な歌舞伎役者になれるのか。師匠や兄さんに恥じない、いい演技ができるのか。
「ときどき思うんだよ。もしかしたら私は、役者に向いてないんじゃないかってね」
それは紛れもなく、今のわたしの心の声だった。
「でも、ぼうやに会ったら、それも間違いじゃないかって思えてきたよ。不思議だね。ぼうやのキラキラした瞳を見ていたら、私にも、夢に向かって、もがいていた時期があったってことを思い出した」
君のおかげだよ、とその人は言いました。
「私も、もう少し頑張ってみようと思う。ここが踏ん張りどころだね。いちかばちか、やってみるよ。ぼうやも……」
その人は、そこまでしか言わなかった。けど、次に続く言葉がなんなのかは、聞かなくても分かっていました。
――ぼうやも、『役者』なのだろう?
――だったら、どうするか。わかっているね。
もちろん分かっている。わたしはその人に向かって、力強く頷いてみせました。
「ぼくも、もう少し頑張ってみるよ。ぼくたち『子役』は、まだまだこれからだもの。いちかばちか、やってみなければ分からないものね。だから、お兄ちゃん……」
いつか、わたしが立派な役者になったら。
そしてそのときに、お兄ちゃんがまだ役者を続けていたら。
「ぼくと、一緒に舞台に立ってください」
その人は、笑ったまま、何も言わなかった。
わたしと、お兄ちゃんでは同じ舞台に立てるはずがないと分かったのは、もっと、ずっとあとになってからのことです。
当然といえば当然でしょう。この人は歌舞伎役者ではない。対して、自分は歌舞伎役者なのだから、歌舞伎の舞台にしか出られないのです。
初めから、叶うはずのない願いでした。
でも忘れられなかった。
いつか……いつか、また会えると信じて、わたしは歌舞伎の世界で生き続けてきたのです。会える保証なんてどこにもないのに。
その人と再び会ったのは、その人自身の、お葬式の席でした。
そこで、彼女が実は女であったことも、わたしより二十以上年が離れていたことも、すでに結婚して『夫』となるべき人がそばにいたことも、初めて知りました。
ショックだったか? そうですね……不思議と、そんな感情はありませんでした。
ただ、それより、あまりにもわたしとかけ離れすぎていて、どこか、別の世界の出来事のように思えました。
分かったのは、彼女は本当にすばらしい役者であったこと。ファンに愛され、スタッフに愛され、役者仲間からも愛され、そしてもちろん、生涯の伴侶からも十分に愛されていたということでした。
一羽の蝶が、青い空を舞う。どこまでも遠く。可能な限り飛んでいく。
それは、わたしではない。わたしは美しい蝶にはなれない。
あの日、幼いわたしを魅了させた、春のひだまりの中のスミレのような人には、どうあがいたって辿り着けるはずがないのだから。
*
「今、考えてみれば、あれは恋だったのかもしれないと、そう思うことがあります。最初で最後の恋……まあ、結果は苦いものに終わりましたがね」
自虐的に笑う鯉三郎姐さんを見て、僕は、ふと、姐さんが七十数年の現在に至るまで、ただの一度も結婚や恋愛の話をしてこなかったのを思い出した。
歌舞伎役者の中には女遊びの派手な人や噂の絶えない人間も数多くいるが、姐さんはその手のスキャンダルに遭ったことがない。それどころか、結婚の発表さえ、公式にはなかったというのだ。
姐さんが結婚しないのには何か理由があるのだと、我々業界内でも噂になっている。たとえば有名人の誰某と交際しているだとか、既婚者の女性ともう長いこと不倫関係にあるだとか、まさかまさかの、女にはまるで興味がなくて、男としか恋愛の対象で見られないんだとか、それはもう、あることないこと、いろんな噂があった。どれが本当で、どれが本当でないのか、わからない。ただひとつ言えるのは、姐さんには既に心に決めた人がいたということだ。
「もしかして、姐さんが結婚しなかったのって、その方が忘れられないからですか」
姐さんは僕の問いには答えず、呟くように言った。
「……彼女はスターだった、でもわたしには何もなかった」
女優の天城戀を知っていますか、と訊かれた。
「すみません。存じ上げません……有名な方なんですか」
僕がそう答えると、姐さんは、ちょっとだけ、寂しそうな顔をした。
「……そう。今の方は、ご存じないのかもしれませんね。でも、確かにいたんですよ、そういう名前の女優が。一歩歩けば誰もが振り返るような、輝かしいばかりのスターでした」
それが姐さんの『忘れられない人』なのかと、若輩ながらに思った。
姐さんは最後に、「あなたが心から愛している人はいますか」と訊いた。
「その方を大切にしなさい。でないと、後悔することになります。かつての、わたしのように……」
それで気付いた。
姐さんは、春のひだまりのようなその人に、恋をしていたのだと。
あれは、間違いなく恋だった。
そして、今でも恋をしているのだ……。