あなたを見つめると(3)
稽古場に戻ると、共演者の芋四郎兄さんがニヤニヤしながら寄ってきて言った。
「聞いたよ、藤乃くん。興之助さんにこってり絞られたんだって?」
「なんですか、それ。そんなんじゃないですよ」
“絞られた” とは人聞きが悪い。僕があんまりにも稽古に身が入らないものだから、ちょっぴり喝を入れられたというだけだ。
「興之助さんもねー、悪い人じゃないんだけどねー。ほら、あの人、真面目だから」
「それは知ってます」
十分すぎるくらいに知っている。
いままでずっと、それこそ僕が初舞台を踏むか踏まないかの頃から、厚意で僕に稽古をつけてくれた人なのだ。家族も同然に接してきたこの人を、僕が知らないはずがない。
「……何が言いたいんですか、兄さん? まさか、僕をからかって遊んでるつもりですか?」
僕が訊くと、兄さんはガッハッハと口を開けて笑った。
「違うよー。君はおもしろいなあ。でも、まあ、そうやって冗談を言うくらいなら、心配する必要もないのかな。いやあ、興之助さんって、こう言っちゃなんだけど、ちょっと当たりがキツイでしょ。それだけ芝居に対して真剣なのはいいことなんだけどね。ただ、若い君が、それを真に受けすぎて気に病むようなことがあるといけないなと思ってね」
ほら、いまの若い子って何にでも『感じ取りすぎちゃう子』っているでしょう、と兄さんは言う。感受性が強いっていうのかな。
なんだ。兄さんなりに、僕のことを心配してくれていたのか……。
「ありがとうございます。でも、僕は大丈夫ですよ。興之助さんが僕のために言ってくださったことはちゃんと分かってますから」
だから大丈夫、心配ないと、そう言おうとしたのに、兄さんはまだ何か言いたげにする。
「なんですか。僕の顔に何かついてますか」
「いや、そうじゃなくて」
兄さんは息を整えた後、目の前の僕の瞳を覗き込むようにして言った。
「君、それだけじゃないね。まだ、心配事があるんじゃないか。そんな浮かない顔のまま、稽古ができると本当に思っているの」
ぎくりとした。
「差し支えなければ、話してみないか。僕でよければ、相談に乗るよ」
芋四郎兄さんは『優しい』人だ。
温厚で人当たりがよくて、爽やかな笑顔は若い女性から年配のマダムまで幅広く人気がある。軽口を叩きつつも、こうしたさりげない気遣いができるのはやはりその人柄がそうさせるのかもしれない。
興之助兄さんとは対極にいるタイプだ、とも思う。
感情豊かな芋四郎兄さんと違って、表情に出ない興之助兄さんは、いろいろと世間の誤解を招きやすい。よかれと思って言った言葉も、ハッキリと口にするので、当たりのキツイ人とか怖い人とか言われているのも僕は知っている。(でも、違うのだ。兄さんは誰よりも芝居が好きで、芝居のこととなると他に何も見えなくて、ただ、この芝居を良いものにしたいだけなんだ)
ふと、芋四郎兄さんになら、このことを話せるかもしれない、と思った。
この人なら、きっと笑わずに受け止めてくれる。優しく受け入れてくれる。
「実は……」
ぽつりぽつりと、僕は話した。
そのあいだ、兄さんは、一度も軽口を挟むことなく、真剣に聞いてくれた。
尊敬する興之助兄さんから相手役の指名を受け、嬉しかったこと。
なのに兄さんの芝居を受け止めきれなくて、どうしても足がすくんでしまう。頭では理解できている、台本だってちゃんと覚えているはずなのに。
兄さんを失望させたくない。ガッカリさせたくない。
なにより、兄さんの相手役として不足のない相手でいたい。
「興之助さんは部屋子出身でありながら、今やドラマや映画の世界にも活躍の場を広げるほど、確立した地位を築き上げてきた方です。誰もが兄さんの芝居を楽しみにしている。兄さん目当てに見に来られるお客様もたくさんいます。それなのに、相手役の僕がポッと出の、実力のない三流御曹司だったら……だから絶対に失敗したくないんです。僕は、兄さんの足手まといになりたくない。兄さんがこれまで苦労して築き上げたものを、一瞬にして台無しにするようなことはしたくないんです」
ちょっと、喋りすぎただろうか。芋四郎兄さん、引いてる?
「あの……?」
ちらりと横目でうかがう。
兄さんは、少し黙り込んだあと、ひとこと、励ますようにこう呟いた。
「……御曹司ゆえの悩みだよな」
はっきりとは言わなくとも、僕にも覚えがある、と言いたげなセリフだった。
歌舞伎の名家、堅上屋の御曹司として生まれた芋四郎兄さん。
父親は名優、揚本白芋。祖父も曾祖父も、さらにはその上までずっと歌舞伎役者という生粋の歌舞伎の家に生まれて、幼い頃からずっと歌舞伎役者になることが期待されてきた人だ。兄さんは女きょうだいの中で唯一の男の子だったから、そのプレッシャーはきっと計り知れないものだったろう。
もしかしたら、兄さんにも、経験があるのかもしれない。
御曹司だからと早くから優遇されることにプレッシャーを感じて、自分にはそれに見合う実力はないんじゃないか、向いてないんじゃないかと悩んだ過去が。
「ま、それも贅沢な悩みだよ。世の中には、才能があっても埋もれる人間はいくらでもいる。僕らみたいに業界に強力なコネクションがあって、必要なときにチャンスが巡ってくる人間は、恵まれていると思うよ。実力なんてのはあとからついてくる。最初から、何もかも完璧にできる人間なんていないんだから」
そう言われると、少し、気持ちが楽になる気がした。
「いつか君も、分かるようになるよ。期待されて優遇されて、早くから多くのことを経験させてもらえることのありがたさ。そしてそれが、将来、自分にとってどう生きてくるか。若いうちはね、一生懸命突っ走って、いっぱい吸収するといいよ。なんでも経験、これが一番だからね」
兄さんは一通り言った後、傍らの荷物の中からポテトチップスの袋を取り出して僕に差し出した。
「ポテチ、食べる?」
僕の返事を待たずに、兄さんはバリッと袋を破く。そして、一枚、ポテチを取り出して口に放り込んだ。
「うん。やっぱり美味いな」
なにしてんだこの人。仮にも稽古中だというのに……ほら、向こうに控えている共演の兄さん方だって呆れているじゃないか?
「なにしてるんですか。稽古中ですよ」
「君も食べる?」
僕の心配など露知らず、兄さんはポテチの袋を押し付ける。だから食べないって。
「いりませんよ。いるとしても、稽古が終わってからいただきます」
「そうか……残念だな」
おいしいのにな。ポテチ。
兄さんは呟きながらも、ポテチを食べる手は止めなかった。
*
稽古が終わり、重たい気持ちで家へ帰る。
結局、この日は、興之助兄さんの芝居を最後まで受け入れられることはなく、何をやっても意味のない一日になってしまった。
こんなんでこの先、やっていけるんだろうか。急に不安になってきた。
「お帰りなさい、ぼっちゃん。鯉三郎さんがいらしてますよ」
通いのお手伝いさんから声を掛けられて、ハッと顔を上げる。稽古場の方にいます、と目線で合図をされてそちらを見た。
そうか、鯉三郎のお姐さん、来ているのか……。
現代の立女形と言われる山科鯉三郎は、うちの曾祖父、山科蝶三郎の弟子である。祖父の長五郎とは、幼い頃、ひとつ屋根の下で同じ師匠から教えを受けた。いわば弟弟子というやつだ。
もちろん今は独立した一人の役者なのだけれど、いまでもこうして、顔見せがてら兄弟子のもとを訪れるのである。
姐さんには、僕も、よく女形の稽古をつけてもらった。時には僕の芝居を見てもらって、悪いところをダメ出ししてもらったこともある。
それで今回も、ひょっとしたらいい意見が聞けるのではないかと思った。
姐さんは穏やかな人だけれど、悪いところは悪い、とはっきり言う人だ。おまえそれはいけないよ、美しくない、やめた方がいい。
気付けば、考えるより先に、足が稽古場の方へと向かっていた。
「失礼します、藤梧です。入ってもよろしいでしょうか」
障子の向こうの姐さんは、あらぼっちゃんいらしたんですか、と少し驚いたふりを見せたあと、入っていらっしゃい、と優しく答えた。
ゆっくり障子を開けると、こちらを向いて座る姐さんと目が合う。姐さんと向かい合うときは、いつも緊張する。
「……ちょうどよかった、わたしも話しておきたいことがあったのです。聞いてくれますね?」
姐さんからの言葉に思わず姿勢を正す。まさか姐さんの方から話を持ち掛けられるとは。
「まずは、ぼっちゃん、このたびの新作歌舞伎へのご出演、おめでとうございます。興之助さんの相手役をなさるとか。大変でしょうけれど、頑張ってくださいね」
「……ありがとうございます。精進いたします」
それと、と姐さんは続ける。きっとこれからが本題だ。
「今日のお稽古は、あまり芳しくなかったそうですね。いつもお稽古熱心なぼっちゃんのことですから、きっと、今、大きな責任を感じて何か思い悩んでいらっしゃるんじゃないですか。そうですね、たとえば……」
僕には向いていないんじゃないか、とか。
ずばりとそう言い当てられて、ドキリとした。そんなに分かりやすい顔をしていたのか、と焦りもした。
「どっ、どうして……!?」
「わかりますよ。わたしもね、あなたとおんなじでしたから」
そう言った姐さんの目は、優しかった。
あなたとおんなじ。姐さんと僕がおんなじ……? 立女形といわれるほど立派な役者である姐さんが、こんなひよっこの僕と……?
「わたしが歌舞伎の世界を志してまもない頃、わたしにも、あなたと同じように、かくして思い悩んだ時期がありました。わたしは歌舞伎役者にはなれないんじゃないかと、このまま歌舞伎の世界にいていいのかと迷った時期もありました」
知らなかった。姐さんにも、そんな時代があったなんて。
「ですが、そんなとき、わたしは『あの方』と出会ったのです。春に咲いたスミレのような、あたたかいおひさまの匂いのする人でした。不思議な人だと思いました。でも、目が離せなかった」
姐さんは、ほんの少し、どこか遠くを見るような目をした。
「わたしは、あの日、その人と出会って、誓いました。必ず、立派な役者になると。これからもずっと、この歌舞伎の世界で生きていくと」