あなたを見つめると(2)
教室を出ると、いばらのもとに戻る前に、廊下で先輩に呼び止められた。
養成学校のときから世話になっている、1期上の娘役、純ここあである。
ここあのお母さんは『帝女』の娘役女優だった市古千代子で、幼い頃から舞台に慣れ親しんだ彼女は、物心ついたときからミュージカルスクールに通い、中学3年生のとき一度目の受験で一発合格した。いまは、劇団が誇る、期待の歌姫だ。
歌は上手いが怒るとめちゃくちゃ怖い。丸顔でパッと見、優しそうなところが、余計に怖い。やれ化粧が濃すぎるだの、芝居に心がこもってないだの、ダメ出しされることもしょっちゅうで、入ったばかりで右も左も分からない私を一から十まで指導してくれたのもこの人だった。
「はーちゃん、またかおるさん(葉名咲)に呼び出されたでしょう。今度は何やったの?」
近づくなり、怒ったように言う。
しかも、私が毎度毎度何かをやらかしているような言い草である。(冗談じゃない。私はそこまで問題児じゃない)
「違いますよ。私がキスシーンがうまくできないんで、そのアドバイスをくださったんです」
「あぁ……関西での新人公演のときもひどかったもんね。あかちゃん(いばら)の口がおでこについてるんじゃないか?ってくらい、おかしかったもの。あとね、照れくさいのはわかるけど、あそこで俯いちゃダメよ。久しぶりに会った愛しい奥さんの姿に、感極まってキスをする男の心情なのよ。初めて恋をした男子高校生じゃないんだから。ちゃんとやってよね」
「いや、自分では、一生懸命やってるつもりなんですけど……」
「つもりじゃダメでしょ、つもりじゃ!!」
本気でやんなさい、でないとわたしが怒られるんだからと、ぷりぷりしながら去って行った。
ようやく解放されてもとの教室に戻ってくると、やはりというか、他の団員たちはみな帰ってしまっていて、広い教室に、いばらだけがひとり残っていた。
「……遅くなってごめん。途中で、ここさん(ここあ)に捕まっちゃってさ」
いばらが振り返り、構いません、とだけ呟く。
「それより、話、いいですか。お稽古のことで。はる乃さんも薄々気付かれてるとは思いますが……」
「わかってるよ。キスシーンのことだろう」
特に今日のはひどかった。上手い下手以前の問題だ。そもそも、キスシーンに入ることができなかったのだから。
いばらは頷いて、私の目を真っ直ぐに見つめた。束の間、二人の視線がかち合う。だけど私の方が堪えきれなくて、サッと視線を逸らした。
「はる乃さん、わたしを避けていらっしゃいますよね。いまもそう、向かい合って視線を合わせようとすると、いつも視線を逸らすんです」
まさしくその瞬間にピシャリと言い当てられて、思わず、冷や汗が出た。
いばらによれば、初めて新人公演の稽古をしたときからその傾向があったが、ここ最近になって、顕著になってきたのだと言う。
「それほどまでに避けるのは、ひょっとして、わたしのことがお嫌いだからですか。わたし、知らずのうちに、はる乃さんの気の障る事、してましたか。言っていただければ、悪いところは全部直します。ですから、どうか……」
「違う!!」
震える声に気付いて、とっさに声を張り上げた。
違う、いばらは悪くない。悪いのは全部私なのだから。
「いばらのせいじゃない。君は、よくやってくれているよ。これは私の気持ちの問題なんだ」
優しく手を握って慰めるように言う。涙を拭いて、お願いだから笑顔を見せて。
「きもちの、問題……」
「そう、気持ちの問題だ」
その『気持ち』がなんなのかは分からないけれど。
これも、私にキスシーンの経験が足りないから、なんだろうか。葉名咲が言うみたいに、本当の恋をして、本当のキスをしたら、おのずと分かるものなんだろうか。
「わたし、ちょっと分かります」
ふいに、いばらが言った。
「はる乃さんが、わたしとのキスシーンができない理由。たぶんですけど、分かるような気がします」
「……え」
なんだそれは。いったいどういうことだ。
「わたしより、好きな人がいるからです」
ズドンと、頭を硬いもので殴られたような気がした。
普段なら、からかうのもいい加減にしろよー、なんて軽口を叩いているとこなのに。なぜか、反論の一つも思い浮かばなかった。
「わたしより好きな人がいるから、その方に遠慮なさっているのでしょう? 違いますか」
「……やめてくれよ。好きな人って誰のことだ」
やっとのことでそれだけ言う。そうだ、誰のことを言っているんだ。
「知ってます。あのときの人でしょう。あのとき、あのスタジオにいたのが、その人なんでしょう」
あのスタジオ――。
「はる乃さんが、お父様のツテで借りていらっしゃるスタジオのことです。自主稽古がしたければ使ったらいいと、わたしに教えてくださったじゃありませんか」
知ってる。だって、予備の合い鍵を渡したのは私なのだから。
だけど。だけど、信じたくない。まさかいばらに見られていたなんて。他の誰に見られても、いばらにだけは見られたくない相手。
「わたし、見たんです。はる乃さんとあの方が、ふたりっきりで、お稽古をしているところ……はる乃さん、わたしといるときよりも楽しそうだった。すごく生き生きとして見えました」
「あいつのことは関係ない。私の相手役は、君だよ」
泣いてるいばらより、私の方が震えているのはなんでだ。
「いいえ、絶対に関係あります。わたしには分かります。だって、はる乃さん……」
――完全に、恋してる乙女の顔でしたもの。
いばらは、犯した罪を告白するみたいに、途切れ途切れの声でそう言った。
なんだそれ。私が、あいつに恋? ふざけんな。だって、あいつは……。
「わたし、待つつもりです。はる乃さんが、わたしを愛せるようになるまで、ここで待っています」
いばらの言葉は、苦しくて、もどかしくて、ちょっぴりせつなかった。
*
次の新作歌舞伎の公演が、いよいよ来月に迫ってきた。
『淡し恋は散る花の如く』――奉公人と姫君の身分違いの恋を描いたラブストーリーである。
主演の茨助はもちろん井原興之助。相手役の姫君、藤花姫を演じるのは、僕だ。
あれから兄さんとはきちんと話をして、僕はやっぱり歌舞伎が好きだということを伝えると、なら相手役をやってもらうよ、と正式な指名がかかったのだ。
「ただ、次、遅刻するようなことがあったら、今度こそ承知しないからね。まあ、君も分かってはいるだろうが」
「もちろんです」
しっかりと頷いて、覚悟だって決めたはずなのに、いざ稽古が始まると、僕はてんで意気地なしになってしまった。
「命かけても愛したこの恋、どうにも許されぬのならば、いっそふたりでこの身を投げ出してしまおうか。いとし我が君、どうかわたしとともに……」
――あな、うれし。
奉公人との身分違いの恋に苦しむお姫様。せめてあの世で一緒になろうと、喜んで身を差し出す場面なのだが、その瞬間、なぜか、僕の身体は固まってしまった。
「藤乃くん……?」
怖いわけじゃない。はる乃さんとの自主稽古のときだって、同じような芝居をしたことがある。そのときは、確かにできていた。なら、なぜ今、こうもできないのだ?
「……ちょっと止めて。一旦、休憩を挟もうか。藤乃くん、ちょっといいかな。私の楽屋まで来てくれる? ふたりきりで話したいことがあるんだ」
神妙な面持ちで、兄さんが言う。怒られるかもしれない。僕ができなかったから。
でも、付いて行かないわけにはいかなかった。
興之助兄さんの楽屋に行くと、兄さんの化粧台に飾られた、一輪のバラの花が目に入った。
バラ。黄色いバラ。
黄色いバラの花言葉が『嫉妬』だと、そう僕に話してくれたのは誰だったろうか。
嫉妬……? 兄さんが……? でも、誰に……?
「藤乃くん、今日は、どうも調子が悪いみたいだね。稽古中にボーッとするなんて、君らしくないじゃないか」
「はい。すみません……」
どうしよう。また、とんでもないことをやらかしてしまった。
きっと兄さんに失望された。もうガッカリさせたくなかったのに。
「……謝罪はいい。言い訳は嫌いだと、前にも言わなかったかな。君、ちょっと気が緩んでるんじゃないか」
「そう、かもしれないです」
気の緩み。確かにそうかもしれない。僕は、兄さんの相手役に指名されたことで舞い上がりすぎて、セリフも台本の流れも頭に入らなくなっているのだ。きっとそうだ。
「ひょっとして、こないだの遅刻とも関係しているんじゃないか。一度、私との自主稽古に遅れてきたことがあったろう。そのときから調子が良くなかったんじゃないのか」
こないだの――。
はる乃さんとの稽古があった日だ。僕は、はる乃さんとの稽古が楽しすぎて、帰りたくなくて、結果、兄さんとの稽古をすっぽかした。兄さんの信頼を裏切ってしまった。
何も言えない僕に、兄さんは重ねて言う。
「君はまだ若いし、私より20歳以上も年下だから、こんな年寄りが相手で不安なのは分かる。私だって、それは分かっているつもりだ。急げとは言わない、私は君が受け入れられるようになるまで、待つつもりだよ」
僕を見つめる兄さんの瞳は、深くて、あったかくて、やさしかった。