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6.あなたを見つめると(1)

 東京から新幹線に乗って約2時間半、そこから在来線(※1)に乗り換えて、さらに私鉄に乗り換え、電車に揺られること約50分。

 繁華街から遠く離れた片田舎に、不釣り合いなほど華やかな劇場がひとつ。


 【帝国女子歌劇団 帝国大劇場】


 大正3年創立、100年以上の歴史を誇る大劇団の本拠地というのが、この劇場だ。

 劇場周辺は色とりどりの花で彩られ、観劇の客や地元住民で賑わうカフェやショップが立ち並ぶ。線路の向こうに見えるは、『()()』の卵が通う養成学校。ほかの観光名所が何もないこの場所は、もはや、劇団のためのひとつの集落のようになっていた。

 『ムラ』を訪れた客は、色とりどりの花を楽しみ、周辺の店舗に入って買い物を楽しみ、劇場に入れば、もちろん観劇するのだが、そこにも客を楽しませる工夫が施されている。

 併設のレストランには公演にちなんだ限定メニュー。舞台写真やDVD、主演スター監修のグッズなどを販売するグッズショップ。観劇記念に嬉しいお菓子のお土産。公演のキャラクターをイメージした衣装をレンタルして、舞台メイクで写真撮影ができる店は、手軽に主演女優の気分が味わえると人気だ。

 館内に設置されたポストから手紙を投函すれば、「ロケット」と呼ばれるラインダンス(※2)をするダンサーたちの小型印(風景印)を押してもらえるサービスまである。

 中でも人気なのが、100年の歴史をぎゅっと閉じ込めた展示エリアだ。

 創設から現在に至るまでの歴史を、創設者、演出家、作曲家、振付師、主演スターなどあらゆる観点から知ることのできる貴重なスポットでもある。


 展示室特有の、静まり返ったその場所に、今日は、ひとりの男が来ていた。

 現代では珍しい、和服姿の男である。

 長着(ながぎ)に羽織をはおった “アンサンブル” の羽織姿のその男が見ているのは、伝説のスター、天城戀(あまきこい)の紹介パネルだった。

 客のひとりが男に気付き、隣にいた知人にそっと耳打ちする。

「あら、あのひと、誰かに似てない……?」

「ほんとだ、誰かに似てるわ。でも、誰だったかしら……」

 ふたりの女のささやき声は、男に聞こえていたのか、いないのか。彼は、何も言わずに去って行った。

 いや、それでいいのだ。

 天城戀という伝説のスターの前では、この男でさえ、ちっぽけな存在でしかないのだから。



   *



 新人公演のお稽古が始まった。

 といっても、関西では既にお披露目を済ませているので、今日は、来たる東京公演に向けてのお稽古である。

 主役の私、相手役のいばら、2番手役のマレー、7年目以下の若手が勢ぞろいして稽古場を取り囲む。長机の向こうに控える先生方も、本公演の先生の隣に、新人公演で指揮を執る先生方がずらりと並んでいた。

 その先生方の後ろで、腕組みをしてジッと睨んでいるひとりの女がいる。

 主演スター、葉名咲(はなさき)スミレ。私が演じるヴィクトルの、本役(※3)を務める人物でもある。いつもなら若手の稽古なんて見ない彼女が、今日は一体どういう風の吹き回しだろう。

「さあ、稽古始めるぞ。全員持ち場につけ。今日は、葉名咲が見学したいって言うから来てもらってるけど、みな、落ち着いてやるように。いいね?」

 新人公演の演出を務める先生が、台本を開いて指示をする。

 今日の稽古は、主人公のヴィクトルが戦地での任務を終えて故郷に帰り、妻のロゼッタと会うシーンからだ。

 稽古場の中央、自宅のソファーに見立てて並べられた硬い椅子に座り、不安そうな表情を浮かべるいばら。戦地に向かい、安否のわからない夫の帰りを待つ女性の不安さがよく表れている。

「彼は本当に帰ってくるだろうか……いいえ、絶対に帰ってくるわ。きっと無事に帰ってくる。わたしは彼を信じている!」

 胸の前で重ねた手をきつく握りしめる。

 絶対に帰ってくる。わたしは信じている。誰でもない、自分に言い聞かせるようにそう叫ぶ。

 ここで、私の出番だ。

 舞台袖から現れて、数ヶ月ぶりに目にした愛しい妻を強く抱き締める。妻が夫の首に手を回し、感極まった男は女の頬を自らの手で包んで、唇にキスを落とす――。

 完璧である。

 私は、台本を置くと、一歩足を踏み出した。


 ふと、いばらの、稽古着のスカートが目に入った。

 足首まで覆う長さのロングスカート。

 裾にはフリルがついて、本番で使う舞台衣装のドレスを連想させる。お芝居で長いドレスを着るときの娘役が稽古場で着る定番の稽古着だが、スカートの色や柄はそのときのお芝居の内容によってもさまざまで、また役者によっても個性が表れる部分でもあった。

 いばらのスカートは、淡いクリーム色に小さなバラがいくつも浮かんでいるデザインだ。上品で、いばらの雰囲気にもよく似合っている。


 バラ。黄色いバラ。黄色いバラの花言葉は『嫉妬』――。


 いばらが嫉妬? まさか。でも、誰に……?


「おい、はる乃。セリフ!」


 先生の怒鳴り声が響いて、ハッとした。いけない、いけない、集中しなくては。

「さっきのシーンからやり直しだ。いいか、自分のせいで他のみんなに迷惑をかけていることを忘れるな」

「はいっ。すみません!」

 仕切り直して、もう一度いばらのシーンから始める。

 夫を待つ妻。そこに帰ってくる夫。台本の流れを思い出す。


「……ただいま、ロゼッタ」

 ロゼッタが振り向く。

「……ヴィクトル」

「会いたかった。君と離れている間、寂しくて悲しくてどうかなりそうだった」

「わたしもよ、ヴィクトル」

 抱き締め合うふたり。

 そこで感極まった男は、愛しい妻の頬に手を添え、熱い口づけを――。


 ところが、いばらの頬に手を添えたところで、私の手は止まってしまった。

 固まった私を見て、不審に思ったいばらがわずかに眉を寄せる。

「はる乃さん……?」

 自分ひとりでも稽古しているし、藤梧(とうご)にも見てもらっているから、台本を覚えていないわけではない。ちゃんと分かってはいるのだ、次はヴィクトルとロゼッタのキスシーンであると。それに、関西での公演のときだって、完璧ではないにしろ、今よりはうまくできていた。

 わからない。なぜ、急にできなくなったのか。昨日までは、ちゃんとできていたはずなのに……。


 結局、キスシーンはできずに、この日の稽古は終了となった。

「はる乃、おまえ、気が緩んでるぞ。次の稽古までに、ちゃんと練習しておけ」

「……わかりました。すいません」

 また迷惑をかけてしまった。演出の先生にも、一生懸命練習してきた他のみんなにも。いばらにも、迷惑をかけてしまった。

「はる乃さん、ちょっとお話、いいですか」

 ふたりきりで話がしたい、と言う。気が重いが、しかたがない。

「いいよ。どこに行こうか」

「ねえ、ゆめちゃん。ちょっといい?」

 声がして、気付くとそこには葉名咲スミレの姿があった。

「あなたに話しておきたいことがあるの。ちょっと来てもらえないかしら?」

 私は、葉名咲と、いばらの姿を交互に見る。

 いばらは私に、わたしのことは構わないから行って、と目で告げていた。

「……わかりました。ついて行けばいいんですね」

「ごめんなさいね。すぐに終わるから」

 いばらに断って、葉名咲のあとをついて歩く。

 使われていない教室の前まで来ると、葉名咲は、立ち止まって私に入るよう促した。

 向かい合って、葉名咲が言う。

「ゆめちゃん、今日のお稽古、自分ではどう思う? 100点満点でいうと、何点くらいかしら?」

「え、ええと……」

 しばし考える。何点くらいだろうか。キスシーンの途中で止まってしまったし、結局再開することもできなかった。先生方や他の出演者たちにも迷惑をかけた。どうだろう。良くて30点くらいか。

「30点? それ、本気で言ってるの?」

「え、いや……20点……15点くらいですかね」

「あれで15点? だいぶ甘いのね」

「10点……5点……いや、もう、0点でいいですっ」

 こうなりゃ、もうヤケだ。ていうか、本当は点数だってつけたくなかった。自分には本当に才能がないと、見透かされているみたいだったから。

「ゆめちゃんにとって、今日の出来は0点なの? 違うでしょう。0点なんて、なにも努力してないのと一緒じゃない。ううん、本当に努力しないで流されて生きているだけなら、0点の得点すらつけずに終わるでしょうね。でも、ゆめちゃんは違う、あなたはちゃんと『努力』している。私には分かる」

 葉名咲はそう言うけれど、だったら、私のあの稽古はなんだ。努力とかそんなんじゃカバーできない。先生にも、他の団員たちにも迷惑をかけてしまった。それこそ最低じゃないか。

「いい? 努力は、いつか実を結ぶものよ。いまは最低で最悪の結果しかでなくても、改善しよう、いいものを作ろう、という姿勢は次に繋がっているの。思うような結果が出なくてもどかしい日もあるでしょうけれど、努力を続けるということだけは忘れないで。いつかこの日を見返したとき、あのとき頑張ってよかったと、そう思える日が来るはずだから」

 ゆめちゃんのいまの課題はキスシーンね、と言う。

「相手役を意識するのはいいことだけれど、今日のはちょっと、意識しすぎかしら。キスシーンは初めて?」

「初めてというか、関西の新人公演のときに一度やったきりです」

「そう。あのときは確か、先生に『キスシーンに見えない』と言われて、泣きながら練習したんだったわね」

「お恥ずかしい限りです」

 そうだ。あのときはまだキスシーンすらやったことなくて、娘役をリードする方法も分からず、何度やっても取っ組み合いの喧嘩にしか見えなくてよく怒られたものだった。

 『本役』の葉名咲に指導を頼んで、なんとか、キスシーンらしくはなったものの、それでも本公演の完璧なキスシーンには遠く及ばなくてヤキモキしたものだ。

「前回も言ったと思うけれど、キスシーンは、()()()()()()()()()()見えなくてはいけないの。角度、照明、手の位置、客席のどこから見ても『キスシーンだ』と分かるようにね。本当にキスをする必要はないけれど、客席にはキスをしているように見える。役者としての腕の見せ所よ」

 理屈では分かっていても、実際にやるのは難しい。それは私も分かっているし、葉名咲も理解してくれていた。


「だからね、ゆめちゃん、そのためには『本当のキス』を知るのもいい勉強だと思うの」

 は?

「ゆめちゃん、恋人はいる? 男の子のお友達は? 好きな子とか、いないの?」

 まてまてまて。どこからそんな話になるんだ。好きな子いる?って女子高生の会話か。

「なんでそんな話になるんですか。いま、そんなこと、どうだっていいでしょう。こんな仕事ですから恋人なんていたことないですし、好きな子とかそういうの関係ないじゃないですか……」

「そうは言うけど、ゆめちゃん、恋も愛も知らない人が、愛しい妻のもとに帰る旦那さんの気持ちを分かると思う?」

 ……思わない。それを言われてぐうの音も出なかった。

「あなたは、恋をした方がいいわ。今後の勉強のためにもね」

※1 国鉄を継承したJRにおける、新幹線以外の電車のこと。


※2 ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。


※3 新人公演に対して、本公演(本来の公演)で演じるキャストのこと。

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