嵐も怖くない(2)
竹松兄さんから、焼き立てのスフレ(※1)が美味しいと評判の店に連れて来られたのは、興之助兄さんに失望され、はる乃さんとも喧嘩してしまったあとのことだった。
「おまえ、最近元気ないだろ? そういうときは、甘いもんでも食って、エネルギー補給すんのが一番だぜ」
単にうまいもの、ではないのは、兄さんが自他共に認める『スイーツ好き』だからだろう。
歌舞伎の世界は男ばかりだが、案外、スイーツ好きが多い。劇場のある銀座周辺に、老舗の和菓子屋が多いせいだろうか。楽屋の差し入れでも、そういった和菓子をいただくことが多かった。最近はスイーツ男子というのも流行ってきているのもあり、兄さんは、その人気にもあやかって近年急速に伸びてきている話題の役者でもあった。
「ねえ、兄さん……大切な人の信頼を失ってしまったときって、どうしたらいいんでしょうね」
兄さんに言ったってどうしようもないのは分かっている。けど、訊かずにはいられなかった。
「信頼、ねぇ。ま、相手がどんな種類のヤツかにもよるだろうけど、まずは、きちんと謝罪をして、こちらの誠意を示すってことが大事だよな……」
「謝罪……」
謝ったところで、許してくれるだろうか。はる乃さんにしても、興之助兄さんにしても。
「そう、謝罪よ。おまえ、ちゃんと、その人に謝ったの?」
僕は首を振った。だって、許してもらえるなんて思ってなかったから。
まだ、ちゃんと話もしていない。
そもそも、言い訳をさせてもらえる雰囲気でもなかった。
「そりゃダメよ、おまえ。きちんと謝罪はしないと。そいつの中では、きっと、おまえ、絶対、嫌なヤツってことになってるぜ?」
「でも、なんか言い訳させてもらえる雰囲気じゃなかったんですよ……」
「言い訳かどうかはともかく、ちゃんと話はすることだな。今のままじゃ、きっと悪いように誤解されて終わりだぜ」
せめてその誤解を解く努力くらいはしろ、と兄さんは言った。
でも、会ってくれるだろうか。いや、会ってくれるまで、何度も足を運ぶのだ。誤解される原因を作ったのは、そもそもこちらなのだから。
「とにかく、面倒な話はあとだ。早く食わないと、スフレが冷めるぜ」
目の前に二人分のスフレが運ばれてきて、僕達はスプーンを手に取る。
焼き立てのスフレは、スプーンを入れるとふわっふわで、口に含めば、やけどしそうなくらいに熱かった。
「それより、聞いたぜ。おまえ、興之助さんの次の舞台、相手役に指名されたんだって?」
どこから聞いたのかと尋ねれば、興之助さんのお弟子さんが大部屋で一緒になったときに話していたのだと言う。どうやら、次の相手役はいつも可愛がっている枝垂屋のお坊ちゃんらしい、と。
「おまえ、興之助さんには可愛がってもらっているみたいだけど、相手役に指名されるのは初めてだよな? よかったじゃん。これから忙しくなるぜ……」
兄さんの不敵な笑み。また、何を企んでいるのだ、この人は。
「なんですか。僕が相手役に指名されたら、なにか悪いことでもあるんですか」
「いや、悪くねえよ。ただ、おまえも名を上げたなぁ……と思ってな。興之助さんといえば、今じゃ、歌舞伎好きじゃなくても知らない人はいない人気役者よ? そんな人の相手役ときたら、いやでも注目されるに決まってる。歌舞伎界のニュースター発掘って、明日の新聞にでっかく出るぜ」
俺も、白虎兄さんに指名されて知名度を上げた経験があるからな、と兄さんは言う。
白虎兄さんこと戸村白虎は、興之助兄さんと同世代の人気役者だ。
歌舞伎の家に生まれた御曹司ではあるけれど、父親を早くに亡くして、近しい流派の家で部屋子(※2)同然に育ってきた。
その近しい流派というのが、竹松兄さんの育った松乃屋であり、日本舞踊の松田流である。竹松兄さんのお母さんはこの松田流のお家元でもあり、白虎さんのお母さんはその弟子で、名取でもあった。
だから、白虎さんのお母さんは師匠であるお家元には頭が上がらないのだ。それで、息子を歌舞伎の世界に繋ぎとめてくれた竹松兄さんには感謝してもしきれないのだという。
そんなお母さんが数年前、病気のために亡くなったとき、息子である白虎さんに言った。
いつか竹松くんが大きくなったら、あの子と一緒にやりなさい、あの子はいい相手役になるから、と。
歌舞伎としては弟子筋の生まれで、当時くすぶっていた兄さんは、この言葉に大いに助けられた。
世襲制の歌舞伎の世界で、後ろ盾もなく人知れず苦労をして人気役者に上り詰めた白虎さん。そんな彼だからこそ、いわゆる『御曹司』でない竹松さんの苦労が目に見えるようにわかったのだろう。ようやく決まった主演の舞台に、相手役として、竹松さんを指名した。
竹松さんはその頃、僕と同じ、女形だった。
けど、白虎さんとの公演を終えたその直後から、立役(男役)として舞台に立つようになったのだ。
「どうして、立役をやろうと思われたのですか」
僕が訊くと、兄さんは、少し考えたような顔になって言った。
「そうだな。女形も嫌いじゃないけれど、今の俺なら、ほかにはない、俺だけの演技ができると思ったから、かな」
俺だけの演技……。
若い頃に女形を経験した兄さんだからこそできる、しなやかで優美な青年の役。歌舞伎の色男には、案外こういう役が多い。
「ま、高校入った頃からだんだん肩幅も広くなって、女形が似合わなくなった……っていうのもあるんだけどな」
兄さんは笑って言うけれど、きっと、ものすごい決断だったんじゃないだろうか。
ずっと女形一筋でやってきて、突然、立役になる。
それは、いままで身につけてきたものを一旦全部切り離して、いちから新しいものを身につけていくということでもあった。
僕は、どうだろう。
このまま女形を続けていていいんだろうか。それとも、立役になるべきか。そもそも、歌舞伎役者としてやっていけるのか。
「おまえはおまえのままでいろよ」
向かいに座る僕の顔を真っ直ぐに見つめて、兄さんが言った。
「俺、女形をやってるときのおまえの芝居、好きだからさ」
15年近くやってきて、そんなこと言われたのは、初めてのことだった。
少なくとも竹松兄さんは、そう評価してくれているのだ。
その瞬間、僕は、もう少しだけ、歌舞伎の世界で続けてみようと思えたのだった。
評価してくれる人がいる。芝居が好きな自分がいる。そう思うと、ここで終わりたくなかった。
それに、いまは、はる乃さんがいる。
遠く離れた『帝女』の世界で、主演スターになりたくて頑張っている彼女がいるからこそ、僕も歌舞伎役者として精進できる気がしたのだ。
はる乃さんのことを考えていたら、ふと、窓の外に彼女の姿が見えた気がして、僕は慌てて席を立つ。
気付けば、兄さんといることも忘れて、彼女のあとを追っていた。
「はる乃さん!」
彼女が振り向く。そして僕だと分かった瞬間、あからさまに嫌な顔をされた。
「……私はいま、プライベートで来ているんだよ。邪魔しないでもらえるかな」
「あの、はる乃さん」
言え、言うんだ、僕。謝るんだろ。謝って許してもらうんだろ。
「ごめんなさい。僕、はる乃さんを騙すようなこと、しました。もうご存知だとは思いますけれど、僕がやっているのは、単なる日本舞踊ではなくて、歌舞伎なんです。もちろん、日本舞踊をやっているのは本当です。母はもともと、日本舞踊の人間ですから。だけど、父と祖父は歌舞伎役者で、僕も幼い頃から歌舞伎をやってきました。正直に言えば、期待、されている……のかもしれません。でも、僕は、はる乃さんの前では、ひとりの人間として、本名のままの自分でいたかった。僕が歌舞伎役者であることを黙っていたのはそういう理由です。あなたの前では、ただのファンであるだけの、ひとりの人間としていたかった。山科藤乃じゃない、永山藤梧のままでいたかったんです」
わずかな沈黙のあとで、はる乃さんが言った。
「……もう、いい」
「え?」
「もういいよ。私も、このあいだは少し言い過ぎた。隠し事をされたと、勝手に裏切られた気持ちでいたんだ。藤梧にキャリアがあることも、置いていかれた気がして勝手にショックを受けていただけなんだ。私、嫌なヤツだね。藤梧側の事情なんて考えもせず、ひとりで被害妄想に陥っていただけなんだよ」
許してくれ、と彼女は頭を下げる。僕は慌ててそれを止めた。
「やめてください! 個人的な感情だけで、歌舞伎のことを黙っていたのは僕です。はる乃さんは悪くありません!」
「……じゃあ、許してくれる?」
「当たり前じゃないですか!! だって僕とはる乃さんは……『友達』で、『同志』で、『仲間』でしょう!?」
はる乃さんは、そこで、ようやく笑った。
「なら、仲直りだ。これからも、稽古に付き合ってくれるね?」
「もちろんです」
僕も笑って、仲直りのしるしにと、二人で友愛の握手を交わした。
ちゃんと伝えられてよかった。はる乃さんは僕の大切な人だ。友達で、同志で、仲間。こんなにかけがえのない人を失うなんて、信じられない!
「おっ、知り合いか?」
気付くと、竹松兄さんが後ろにいた。慌てて飛び出した僕を見かねて、追いかけてきてくれたらしい。
「随分親しそうだな。おまえもなかなかやるじゃないか」
茶化すような口調に、いささかムッとして言い返す。
「ちがいますよ、彼女はただの友人です」
「えっ、女だったのか?」
驚く兄さん。いや、ビックリしたのはこっちの方だ。まさか男だと思っていたなんて……。
「嘘だろ? だってこいつ、どう見ても男……」
確かに、現役の『男役』であるはる乃さんは、普段からマニッシュなパンツスタイルに身を包んでいて、言われなければ本物の男と見間違えるのも無理はない。
けど、それを今、説明してしまったら、はる乃さんが『帝女』の一員であることも明かさなければならなくなり、すると、いち歌舞伎役者の僕が一体どうしてそんな彼女と知り合ったのかまで話さなければならなくなる。
面倒くさい。非常に面倒くさい。
こういうとき、取るべき方法はひとつ。逃げるのみ!
「はる乃さん、こっちです!」
僕は彼女の手を取り、無我夢中で走った。
どこまでも、どこまでも、遠く。ふたり、手を繋いで走り続けた。
だいぶ走って、竹松兄さんの姿が見えなくなったところで、ようやく手を離す。
僕を見るはる乃さんの視線に気付いて、ハッとした。
僕はなんてことをしでかしてしまったのだろう。よりにもよって、憧れの『帝女』のスターに。おろかな自分に目を覆いたくなる。きっと、いまの僕は耳の先まで真っ赤だろう。
「こ、これは、深い意味とかじゃなくてっ」
「わかってる、助けてくれようとしたんだろう」
はる乃さんの目は、優しかった。言葉にはなくとも、目が、ありがとう、と告げていた。
「はる乃さん、僕……」
いま、言おう、と思った。いまこそ、伝えなければならない、と。
「僕、決めました。これからも、女形としてやっていきます。そして、いつかは立女形と呼ばれるくらい立派な役者になれるように、精進しようと思います」
はる乃さんが頷く。
「私も……男役として、主演スターになれるように頑張るよ。いまは、まだひよっこだけれど。研究に研究を重ねて、成長することが『生徒』の務めだからね」
午後の強い日差しの中で、僕達は夢を語り、誓い合った。
この人と一緒なら、きっと、その夢も叶えられる。今の僕達に、怖いものなんてなにもなかった。
※1 卵白などを泡立てて加え、ふんわりと仕上げた菓子や料理。フランス語で「ふくらんだ」の意味がある。カップケーキのような形のふわふわしたケーキのほか、チーズケーキやパンケーキ、オムレツなどに応用してふんわり感を出す技もある。
※2 歌舞伎でいう「部屋子」とは、子役の時分から幹部俳優の楽屋に預けられ、鏡台を並べて楽屋での行儀から舞台での芸など、役者として仕込まれる立場をいう。いわば幹部候補生。まだ名題資格を取得していなくても、名題と同格の扱いを受ける。歌舞伎の家柄でない子役を芸養子にする場合や、有力な俳優の子弟でありながら事情があって親以外の幹部俳優に預けられる場合などがある。