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はじめに(この物語の題材について)

宝塚歌劇団たからづかかげきだん


出演者全員が未婚女性だけで構成された歌劇団。通称、宝塚、ヅカ。

兵庫県宝塚市に拠点を置き、東京にも専門の劇場を持つ。その他、地方公演や海外公演を行うこともある。

はなつきゆきほしそらの5組と、どの組にも属さないスペシャリスト集団、専科せんかからなる。

ミュージカルやストレートプレイ、レビュー、ショーなどを上演している。日本初のレビューを上演したことで一躍有名になった。

男性の役は『男役おとこやく』、女性の役は『娘役むすめやく』と呼ぶ。女性役でも、年配の女性の場合などは『女役おんなやく』と呼ぶこともある。

出演者は俗に『タカラジェンヌ』と呼ばれ、併設の宝塚音楽学校を卒業した者のみが入団資格を持つ。音楽学校の卒業生であることから、『生徒』ともいう。入団してからは、入団1年目を研究科1年(研1)、2年目を研究科2年(研2)などと呼ぶ。


阪急電鉄の前身、箕面(みのお)有馬(ありま)電気軌道の創始者であった小林一三(いちぞう)氏が三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に着想を得て、大正2年(1913年)に結成した宝塚唱歌隊がはじまりとされる。宝塚新温泉の室内プールが閉鎖されたときに、これを有効利用するのが目的だった。のち、宝塚少女歌劇養成会に改名。初演は大正3年(1914年)4月1日~5月31日、桃太郎が題材の『ドンブラコ』。大正8年(1919年)養成学校の宝塚音楽歌劇学校が設立、歌劇養成会は解散され、新たに宝塚少女歌劇団として発足した。現在の「宝塚歌劇団」という名称になったのは1938年からである。



歌舞伎かぶき


歌舞伎は、江戸幕府が開かれたと同じ慶長8年(1603年)、出雲阿国いずものおくにによって京都で始められたとされる「かぶき踊り」が元となった。このかぶき踊りの人気を受け、遊女を含めた女性たちの「女歌舞伎」や、前髪の残る少年たちの「若衆(わかしゅ)歌舞伎」が出てくるも、風紀を乱すという理由で幕府に禁止される。そこで登場したのが、成人男性が中心となった「野郎歌舞伎」である。歌舞伎を男性だけが演じる過程で『女方(おんながた)』も生まれ、今日の歌舞伎の基礎が出来上がった。ちなみに、江戸で歌舞伎が始まったのは、現在の京橋に中村座ができた寛永元年(1624年)といわれている。(※寛永は江戸幕府3代将軍、家光が治めていた時代)


成田屋なりたや高麗屋こうらいや、などの屋号は、江戸時代初期、市川宗家の成田屋が商人にならって用いるようになったのがはじまりとされる。

ちなみに、成田屋は、亡き十二代目市川團十郎や、現在は十一代目市川海老蔵(十三代目市川團十郎白猿(はくえん))らが属する一門である。これらの名跡は子どもや弟子などに受け継がれる(襲名)こともある。


※なお、本編に登場する屋号、芸名はすべて架空のものです。

参考:

歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人」 https://www.kabuki-bito.jp/

宝塚歌劇公式ホームページ https://kageki.hankyu.co.jp/

インターネット百科事典 Wikipedia-「歌舞伎」「宝塚歌劇団」の記事参照

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