魔界へ その5
「いいのか? 引き留めるんじゃなかったんかよ」
カブトさんは私の顔を覗き込みながらそういうと、小さく微笑んだ。
夕食の席で突然ティアが魔界へ行くと言い出した時、お父様もカブトさんもティアを引き留めようとはしなかった。
お父様に至っては、ついでに魔族側の動向を探ってくると言うティアの提案に大いに賛同されていたほどです。
2人共どうして……ティアはつい先日、魔族の毒に侵されて命を落としかけたばかりだというのに……。
明るく盛り上がる食卓で、私ひとりが憂鬱になっていた。
魔界には魔族だけでなく、人の世界にはいないような未知の魔物が沢山いるのでしょう。
いくらティアが英雄と称されるほどの実力者だったとしても、無事で済む保証を誰がしてくれますか?
私は素直に困った表情を見せながら、カブトさんに微笑み返した。
「そのつもりでしたが、出来ませんでした」
私は思い留まってくれるよう、昨夜は説得をするつもりでティアとベッドを共にしました。
ですがそこでティアは、私が想像もできないような話を語ったのです。
天界の場所とそこに住まう天使達、そして天界を統べる7人の大天使――七大天使と会った事。
元四天であり、自ら堕天して七大魔王のひと柱となったルーヴァ・ダラハネーズという者がいる事。
その者がティアの血筋に大きく関わっているかもしれない事。
そして赤ちゃんだったティアと一緒に、かごの中に残されていた神器『神の一滴の涙』の伝承について――。
ティアは魔界を目指す本当の目的を私にだけ話してくれたのです。
話の中でティアは、時々神妙な表情を見せながらも、もしかしたら本当の両親の事がわかるかもしれない、と静かに目を輝かせていた。
少しの不安を抱えながらも、期待と興奮に胸を躍らせるティアを見ていたら、もう何も言えなくなってしまいました。
「本当のご両親と再会する事は、ティアにとってとても大切なことですから……」
私は視線を落とした。
「あいつは幼い頃からずっと、いつか旅に出て、絶対に両親を見つけ出すって声に出して言い続けてきたからな。くくっ、それで男兄弟達にからかわれてよく喧嘩になったもんだぜ」
「からかうなんて、酷いです」
私が頬を膨らませるとカブトさんはやさしく微笑んだ。
「仕方ねぇよ。兄弟っつっても、ガキだったからよ。みんな口にゃしねえが、心ん中じゃ親に会いてぇって思ってんだ。けどよ、それが叶わない事はわかってる。だから考えねえように頭の端っこへ置いて忘れようとしてるところに、ティアがあんまり真っ直ぐに気持ちを言葉にすっからよ」
「……それでも酷いです。気持ちをわかるはずなのに……」
私もお母さまとまた会えるものならば、会いたいです。
ふわりと私の頭を温かいものが包み込んだ。
カブトさんの大きな手だ。
「エンリはやさしいな」
私の頭を撫でながらカブトさんが少年のような無邪気な顔でニカッと微笑む。
大好きな笑顔に一瞬見とれてしまう。
「そっ、そんなんじゃないですっ。私は……!」
「けどよ、ティアはただ心配されるだけの奴じゃねえよ。なんたって兄弟に限らず喧嘩じゃ一歩も引かなかったからな。いじめてくる奴らは全員魔法で返り討ちにしてたんだぜ?」
私は想像してしまった。
幼く小さなティアが、大きな兄弟達を逆さまにしていく様を。
「ふふふ。変わってないんですね」
「ああ、変わってねえ。ガキの頃、俺はティアに冒険の知識や戦い方を教えたんだ。旅に出るなら役立つだろうってよ。けどよぉ、正直大人になったら想いは変わっていくと思ってたぜ」
「そうですね……時は良くも悪くも想いを穏やかに整理してくれますから」
私がお母さまの死を乗り越えたように……。
「だからよ、ティアが卒院してすぐに冒険者になったときは驚いたぜ。両親探しの旅は、ガキが寂しさから思い付きで言ってるような柔なモンじゃなかった。あいつの決意は本気だったんだってなァ」
そうです。ティアにとってそれほど大切な事なんです。
なのにこの2年、ティアは私を助ける方を優先してくれました。
そしていまやっと、本当のご両親を探す旅へ立てたんです。
「ティアが18年願い続けた想いだぜ。んなモン、誰に曲げられるはずもねえよ」
少し寂しそうな目をしてカブトさんは言った。
「はい。本当は私もわかっていました。ティアを引き留めることなんてできないって……。うれしそうに話すティアを見て、やっと気持ちを切り替える事が出来たんです。それならせめて、応援しようって。ティアの無事と旅の成功を祈ろうって」
ティアは、決めた事は必ずやり遂げる強い人です。
そして必ず約束を守ってくれる人です。
ティアはちゃんと無事に帰ってくる事を私と約束してくれました。
ティアが眠った後、こっそりタイガちゃんにティアの事をお願いもしました。
タイガちゃんは鼻を鳴らしただけですが、ふふふ、私にはタイガちゃんなりの愛情表現なのだとわかりました。
魔界の王様のタイガちゃんがティアを助けてくれる。
こんなに心強いことはありません。
だからきっと大丈夫です。
私はティアとタイガちゃんを信じて待ち続けます。
街の中へと消えていくティアとタイガちゃんの後ろ姿を見送りながら、私は首にかけたエンタングルメントを両手で握りしめた。
見送りを終えた後、お父様を先頭に屋敷の中へ入っていく。
私はカブトさんの背中を小走りで追いかけると隣に並んだ。
「カブトさんはご両親に会いたいと思った事はないのですか?」
「それが、あんまり思った事がねえんだよなァ。ガキん頃は赤ん坊のティアのお守りでそれどころじゃなかったしよ。駆け出し冒険者になってからは、日々を生きるのに精いっぱいだったからなあ。つーか親元なんてのは、いつかは巣立つモンだろ? 生活がようやく安定しだした頃に、ふと思った事もあったがよ。成人してひとり立ちもして、今更ってなァ」
「今更って、そういうものですか?」
男の人の考え方なのでしょうか。
私は成人しても、家族とはずっと一緒にいるものだと思っていました。
「けどよ」
カブトさんが真剣な表情で、少し照れたように私を見る。
「いまはちっとだけ会いたいって思うぜ」
カブトさんが私の肩を抱き寄せる。
「これが俺の家族なんだって、自慢してやりてぇ。俺はてめぇのガキを、家族を大事にするってよ。何があろうが、捨てるような真似はぜってぇしねえってよ……!」
「カブトさん……」
「ま、どこでどうしてんのか。そもそも生きてんのかすら知らねえんだけどな」
さっぱりとした口調で言う。
だけど遠くを見るカブトさんの瞳は、私には寂しそうに見えた。
私はカブトさんの胸に寄り添った。
肩に回されたカブトさんの腕と、自分のお腹に手を添える。
「作りましょう。私達の温かい家族を」
私と、カブトさんと、お父様と、そして私の中に息吹く、新しい命とで――。
その夜、私はとても素敵な夢を見た。
それはルーフィルド家の庭で私たち家族と、ティアとタイガちゃん、そしてティアのご両親と過ごす幸せなランチの夢でした。
幸福の余韻の中、あたたかい日の光に目が覚めた。
とても気分のいい朝でした。
しかしエンタングルメントは、そんなあたたかい雰囲気を凍り付かせる残酷な暗号を私に知らせてきたのです。




