魔界へ その1
――苦しい。
暗闇の中で、酸欠の苦しさに意識だけが覚醒する。
私はまた数十秒か、あるいは数分か、僅かな時間、意識を失っていたらしい。
『つるつるの魔法』を使って肺に空気を循環させると少し楽になった。
これで何度目の気絶だろう。
奇跡的に私はまだ生きている。
半ば無意識に魔法を継続して、細くなった命の糸をギリギリのところで繋ぎ留めている。
でも……、どうやら奇跡も時間切れかもしれない。
私が想像していた以上に、ラトムの毒は厄介な代物だったようだ。
少しずつ、毒が私の頭の中にまで回り始めているのを感じる。
手足の感覚が、消えてしまいそうなほど薄れてきている。
死にたくない……。
心が締め付けられるように苦しい。
こんなにも強く死にたくないと思ったのは初めてかもしれない。
エンリを悲しませたくない。
それに……私は私を産んでくれた本当の両親の顔も名前も知らないままだ。
死んでしまったら、カブトにいちゃんとエンリの2人の幸せな日々を、そばで見守ることもできなくなってしまう。
これからまだまだ沢山楽しい事が待っているはずなのに、大きな未練をいくつも残して逝かなければならないなんて……そんなの、あんまりだよ――!
――また私は意識を失っていた……ような気がする。
短い気絶を何度も繰り返しては、重い眩暈の中、息苦しさに目が覚めては延命のための『つるつるの魔法』を使い続ける。
もう何度繰り返しているかわからないけれど、だんだん気絶の間隔が短くなってきているような気がする。
辺りは相変わらず暗闇に包まれていて、私の瞼は開いているのか閉じているのかもよくわからない。
頭に回り始めた毒のせいか、断続的に起きる気絶も相まって、ここが現実なのか、もしくは夢の中なのか? 意識の境界も曖昧になっていた。
実は私はもう既に死んでいるのではないか?
身体が無くなってしまったように何も感じなくなったのは、毒のせいではなくて魂が肉体から離れてしまったからでは?
そんな怖い想像が頭を過ぎる。
ごめん。エンリ……。
私、約束守れなかったかも……。
諦めの言葉を頭の中で呟いたその時、何処からともなくキラキラと光り輝く真っ白な羽が1枚、ふわりと落ちてきた。
天使の……羽?
暗闇の中を落ちてきた羽は、私の左腕に静かに着地した。
すると羽に触れた所を中心に、やさしい温もりが広がり始めた。
まるで凍り付いていた腕が溶けていくように、左腕の感覚がじんわりと甦ってくる。
もう1枚、白い羽が落ちてきた。
それは私の喉に着地したかと思うと、今度は喉の中を通って、同じようにやさしい温もりが胸の中に広がりだした。
私の身体の中で合流した2つの温もりは、お腹へ広がり、やがて四肢へと広がっていった。
私は心地よいその感覚に身を任せた。
全身の隅々まで温もりに包まれた頃には、なんとか自発的に呼吸も出来るようになって、頭の中も霧が晴れた様にすっきりとしてきた。
私は少しだけ動かせるようになった両手を顔の前に持ってくると、まだ震える指先を開いて閉じてみた。
真っ暗で両手を直接見る事は出来ないけれど、確かに私の手はそこにあるというしっかりとした実感があった。
私の身体はここにあって、私はちゃんと生きている。
それに……もしかして毒が体から抜け始めてる?
「ティア――」
愛おしそうに私の名を呼ぶ、知らない女性の声が響いた。
私は女性の正体を見ようと、声がした方を見上げた。
突然、上から眩い黄金色の光が降り注ぐ。
眩しくて直視できず、私は手で光を防ぎながら顔を伏せた。
「もう大丈夫ですからね」
再び女性のやさしい声が響いた。
やっぱり知らない声だった。
なのにどうしてだろう?
女性の声は私の耳にとても心地良く響いた。
安らぎに包まれたみたいな温かい気持ちになって、もう何も心配いらないんだって安堵感が沸いてくる。
不思議だ――どこかなつかしい声の波長は、私の中にある淡く形のない遠い遠い記憶の断片を刺激するようだった。
気が付くと私は、いつの間にか涙を流していた。
そうだ……私はたぶん、この声を知っている。
前にも夢の中で……。
私はそれを確かめたくて、なんとか片目だけ薄目を開けた。
眩しさに耐えられなくてすぐに瞼を閉じてしまったけれど、涙でぼやけた視界の中に、一瞬だけど私を見下ろすダークブラウンのセミロングの髪の女性の人影を見た。
やっぱり、あの人だ。
「あなたは……」
「もう心配は要りません。安心しておやすみなさい、私の愛しいティア――」
声が遠のく。
「お願い待って! 行かないで!!」
目を開けられない私は、無我夢中で光の中へと両手を伸ばした。
伸ばした右手が温かい両手に包まれる。
女性の手だ。
私は女性を逃がさないように、こちらからしっかりとその手を握り返した。
これは私の願望や想像が創り出したただの夢だ。
きっと意味なんてない。
だけどこの手は放さない。放したくなかった。
「ふふふ。誰に似たのか、ティアは甘えんぼさんね」
女性の温かい手でおでこを撫でられると、私は積もり積もった心身の疲労にもう抗えなかった。
心地よい安心感に包まれながら、私はまた気を失った――。
目が覚めた私は、まだ寝ぼけ半分の眼でゆっくりと天井を見回した。
ここはルーフィルド家の屋敷の客間で、私はそのベッドに横たわっている。
などと、視界に飛び込んできた物から順に状況を整理していくうちに、記憶がどんどん思い起こされてきて、自分は助かったのだと知れた。
ふと右手を包む温もりに気づく。
その瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。
まさか……? あれは夢だったはずだ!
「お母さ――っ!?」
がばりと起き上がって右手を見た私は固まった。
そしてすぐに全てを理解した私は自嘲気味に小さく微笑んだ。
私の手を握っていたのは、椅子に腰掛けて、ベッドに突っ伏す姿勢で静かに寝息を立てているエンリだった。
寝ていた私はエンリの手の感触を、夢の中であの女性の手の感触へと勝手に結び付けたんだ。
おそらくあの声も……。
タネが分かってしまえばなんてことはなかった。
まぁ夢なんてそんなものだよね。
「う……う~ん……おかあ……さん?」
エンリはふにゃふにゃと呟きながら、緩慢な動作でゆらりと上体を起こした。
しまった、聞かれてた!?
「お……おはよう、エンリ」
恥ずかしくて耳まで熱くなっている私は、まだ眠そうに目を擦るエンリに声をかけた。
顔を上げて私と目があったエンリはピタリと動きを止めると、大きな可愛らしい瞳をまんまるに見開いた。
「ティア!!」
エンリが私に抱き付く。
「よかった……! 目が覚めたんですね。本当に……よかったです……っ!」
「うん……」
私もエンリを抱きしめる。
「心配かけちゃって、ごめんね」
「いいんです。ティアはちゃんと帰ってきてくれましたから……っ」
喜びをかみしめるように抱き合っていると、私のおなかの虫が空気を読まずに大きな叫び声をあげた。
びっくりして身体を離したエンリが、ほわほわの笑顔を見せる。
「ふふふ。3日も寝込んでいたんですから、お腹が減っていますよね。メイドに頼んでスープを作ってもらいましょう」
「3日!? 私、そんなに寝てたの?」
「そうですよ」
ケロリとした様子でエンリが答える。
「……もしかしてその間、ずっとそばにいてくれたの?」
「ふふふ。はい。手を離すとティアが悲しそうな顔をするので、離れられませんでした。ね? タイガちゃん」
枕元で丸くなっているタイガは、視線だけこちらに投げるといつものように鼻を鳴らした。
どうやらエンリの言う通りということらしい。
あれ? てことは、エンリは3日も椅子で寝ていたということ……?
「うぅ……ごめん」
「大丈夫です。それに私もティアの目が覚めるまで、そばについていたかったですから。でも薬が効いてくれて本当に良かったです」
そういってエンリはうれしそうに微笑んだ。




