2日目のカレー
涙はあまりの驚きで引っ込んだ。ついでにバランスを崩してずっこけた。
尻もちをつきながら、目の前の人物を見上げる。
「不遜にも我を呼びつけたのはお前か?」
「え? えっと……?」
あまりの事に開いた口は塞がらないし、何を言うべきなのかもわからずに、口の中でもごもごと意味を為さない言葉が生まれては消える。
「あぁ? なんだその素っ頓狂な顔は」
じろりと紅い瞳がこちらを睨め付けて。恐怖に縮み上がった私の口は、酸欠の金魚のようにぱくぱくと開いては閉じてという大変間抜けな状態になっていた。
古本屋でイチキュッパの魔導書。木の棒で描いただけのインスタントな魔方陣。
そんなもので呼び出されたくせに、傲岸不遜な態度を崩さない目の前の人物。
「まおう……なの、よね?」
「見ればわかる事をいちいち聞くな。それで我を呼んだのはお前なのか?」
ここには私しかいないのだからそれこそ見ればわかる……と考えたところで、心の内を読んだかのように紅い瞳が眇められた。
美形の睨みの恐ろしさたるや、咄嗟に小さく体が跳ねた。エスパーかよ。怖い。
「ハイ……私デス」
だから、何とか絞り出した返事が思わず片言になったのは仕方がないと思う。
「そうか。ならば早く贄を用意せよ」
偉そうな態度を微塵も崩さないまま、魔王はそんな台詞を告げる。
「にえ……? え゛! まさか生贄!? 処女の生き血とかそういう……」
数秒考えて出てきた結論にサッと血の気が引いた。適当に呼ぶ事はできてしまったけれど、実は魔王召喚に代償が必要だとしたら……どうやっても用意できなそうな物を求められたらどうしよう。
「はぁ? そんなものが腹の足しになるか。食事を用意しろと言っている」
「え? 食事……?」
けれど魔王からあっさりと告げられた台詞は全く別のものだった。
食事……食事なら流石に用意はできる。魔王の言う食事が私と同じものであれば、だけど。
「そこに転がっているそれに書いてあったはずだが?」
魔王の長く鋭い爪が魔導書を指差す。食事を用意しろって書いてある魔導書。考えるとちょっとシュールだ。まあ文字が読めないから実際どんな風に書かれているのかは謎だけれど。
「この本に? えっと……私、書いてある文字が読めてなくて」
「なんと? そんな状態でよくも我を呼んだな……」
呆れ交じりの声。私はどうやら相当イレギュラーな感じで魔王を呼んでしまったらしい。
「だが、まあいい。この際手順は置いておこう。私は食事というもてなしを対価に召喚に応じておる」
しかし、食事を対価に召喚される魔王ってどうなんだ。本当に私の想像してる食事が本当に正しいのか不安になりながら顔色を伺う。
「えっと……もてなすって言っても、具体的にどうすれば」
魔王だし、特殊なもの食べててもおかしくないよね。でも、少なくとも生き血は違うらしいし、他に魔王らしい物ってなんだ。
「この際何でも良い。良いから私に食事を持て」
どこか苛立った口調で話している魔王から、きゅるっとお腹が鳴る音が聞こえて目を見開く。その間抜けさに、くすりと笑いが零れた。怒ってるように見えるのは空腹のせいだとしたら、相当シュールだ。
そんな風に和んでいたら、睨むような視線がこちらを捉えた。しまったと思った時にはすでに遅し、その視線から逃げる様に縁側からバタバタと家の中に入り、台所へ向かう。
「わかりました! 今! 用意しますから!」
とりあえず冷蔵庫を開けて中身を確認すると、昨日作ったカレーが鍋ごと鎮座している。
他にあるのは調理に時間がかかりそうな食材ばかり。
「うーん……これしかないかぁ……」
よくわからないけど、お腹が鳴るほど空腹ならすぐに出せるもののほうがいいのだろう。
ご飯はタイマーで炊いてあるし、カレーなら温めなおせばそれだけで済む。
「カレーしかないけど、それでいいですか?」
「……カレー? 聞かぬ名だがまあ良いだろう」
問題は魔王がこの世界のメニューを食べられるのかどうかだけれど。とりあえず言質は取った。これで違うと言われても私に責任はない。
それじゃあカレーを温めなおすとしよう。ついでに余ってる野菜で簡単なサラダでも作ろうかな。
レタスをちぎてスライスしたキュウリとカットしたトマトを乗せて、ドレッシングをかけたらサラダの出来上がり。カレーに合わせるサラダは、このくらいシンプルでいいんです。
鍋の中のカレーもくつくつとしてきたので、焦げない様にかき回しながら温めていく。
ちなみに魔王といえば、縁側から勝手に家に入り込んでちゃぶ台の前に胡坐をかいて座っている。
食卓がそこってちゃんとわかるんだ。しかし、魔王とちゃぶ台。似合わない事この上ない。
カレー自体は温めなおすだけなのですぐに用意できた。
ついでに自分も夕食にしようと二人分のサラダとカレーをお盆にのせてちゃぶ台へ。
「どうぞ」
魔王の前にお皿と食器を並べて差し出す。
自分の分は魔王の向かい側に同じようにセッティング。お腹が空いているはずなのに意外な事に魔王は目の前の食事に手を付けることなく私が座るのを待っていた。
「いただきます」
言いながらぽんと手を叩くと、魔王もその動作をまねて緩く手を叩いた。
「ふむ。それがこの世界での食前の祈りか……イタダキマス」
郷に入っては郷に従え。魔王のくせに礼儀正しいんだなと思いながらも、ぎこちなく告げる魔王がなんだかおかしかった。
うちのカレーはあくまでスタンダードなカレーだ。
具材は豚肉、ニンジン、じゃがいも、玉ねぎ。市販のカレールーで作るお手軽使用。隠し味は適当に入れる。しいて言うなら、具材は大きめに切ってごろっとしているところがポイント。
ご飯と一緒にルーをスプーンにのせて一口。
ピリ辛だけど、棘が取れてどこかまろやか、ご飯との相性も抜群。うん。やっぱりこの味が美味しい。二日目のカレーって格別だ。
本格的なカレーはお店で食べればいい話で、お家カレーの緩さがいいと思う。
もぐもぐと咀嚼していると、同じようにスプーンを口に入れた魔王が怪訝な顔をした。
「なんだこれは!」
怒鳴るような声にびくりと体がすくむ。
「え、あ……お口に合わなかったですか」
やっぱりこの世界の食事は、魔王が考えているものと違うのだろうか。カレーが何かわかってなかったみたいだったし。ぶっちゃけ、お腹が空いてたから適当にうなずいただけっぽかったもんな。
どうしようかと考えていると、魔王は少し考えるような顔をした後で、おもむろにもう一口スプーンを口元に運んだ。
「いや……美味い」
味わうようにゆっくりと咀嚼してからひと言。
「ピリッとくる感覚に、見知らぬ毒かと驚いたが……そうではないのだな」
なるほど、カレーの辛さに驚いたのか。それが当たり前だと思ってたから何も言わずに出しちゃったけど、確かに初見だとびっくりするかもしれない。
けれど、とりあえず口に合ったようで何より。
「ふむ、食べてみるとこの辛さが食欲をそそるな」
言いながらばくばくとスプーンを運ぶ魔王。気持ちいい食べっぷりでお皿の中身が見る見るうちに減っていく。
「それに大きめの具材も食べごたえがあっていい」
あ、そこに気が付いてくれたのは嬉しい。やっぱり具材がごろごろしてるほうがいいよね。
魔王をまねるように私も大きめに切ったジャガイモを口に運ぶと、ほろっと口の中で砕けた。うんうん。良く煮えてる。
すっかり魔王の前の皿は両方とも空になっていた。カレーに夢中だと思っていたけれどちゃんとサラダも食べていたらしい。
「これは、もうないのか」
カレーの皿と私を交互に見るようにして魔王が声をかけてくる。どうやら一人前じゃあ足りなかったらしい。
「お代わりですか? ありますよ」
「貰おうか」
ずい、と空になった皿を差し出してくる魔王。尊大な態度を崩さないけど、差し出しているのがカレー皿というのがなんともシュールだ。
「ふぅ。馳走になった」
「お粗末様です」
よっぽどお腹が空いていたのか、それともカレーが気に入ったのか、魔王はあの後もう一度お代わりをして。釣られるように私もお代わりをしてしまって、鍋の中は空っぽになっていた。
明日以降も食べるつもりで、多めに作ってあったものが無くなってしまったのは予想外だけど。お代わりするほど気に入ってくれたなら、作り手冥利に尽きるというものだろう。
それにしても……食事中は見て見ぬふりをしていたけれど、お腹もいっぱいになって、改めてこの状況を整理すると中々に不思議な事が起きている。
目の前にいるのは、食事を対価に召喚された魔王。
そう、魔王なのだ。確かに無職になった上にフラれたからって自棄をおこしたのは認めよう。世界なんかどーでもいい! くらいの気持ちで魔方陣とか書いてみたものの、本当に世界を破滅に導かれたりしても困る。
何が困るって、冷静になって目の前の魔王を見ていると、そのくらいの事は出来てしまいそうなオーラが漂っているのが困る。
今になってみると、魔王相手に言われるままに食事を出したのは間違いだったかもしれない。いや……でも、脅されたしな。あの時点では命の危機を感じてました。
ただ、私のせいで世界の破滅は困ります。そんな危機感に冷や汗が背を伝う。
「あの……呼んだ私が言うのも何なんですけど。満腹になったみたいだし、このまま帰ってくれますか?」
「断る」
なるべく下手に出てお願いしたつもりが、コンマ2秒で断られた。
「いや、でも……」
「安心しろ、この世界をどうこうする気はない」
あ、やっぱり滅ぼせますよね、この世界。
「だが、この世界の食事が気に入った。よって我はここで暮らすことに決めたのだ」
まさかの餌付けだった。
食事が気に入ったから帰らないって、どれだけ食い意地張ってるのよ。
「拒否権は……」
「あると思うのか?」
念のため聞いてみたけれど、帰ってきたのは予想通りの言葉で。というか、世界を滅ぼせるような力を持った存在を前に拒否権が生まれるとも思ってないけど。
「まあ、この世界の食事に満足したら帰ってやるさ」
それっていつの事だろう、なんて思わず遠い目をしてしまう自分がいて。
そんなこんなで、私と魔王の2人の生活がスタートしたのであった。