第八話「悪天候」
痛い。
鞭を叩きつけられる衝撃で、皮膚が痕に沿って腫上がった。
さらに、別の角度から叩きつけられ、裂かれるような痛みが走る。赤く腫れ上がる皮膚に、次々と叩きつけられていく。
その動きは、速度が上がり続け、残像が残るほどに早くなっていた。もはや、その痛みは叩きつけられる痛みではなく、鋭い刃物で抉られるような痛みだ。
不意に、冷たい何かが走った。
その一瞬の冷たさは、荒れ狂う衝撃と絶え間なく続く痛みが、かき消してしまう。
いたい。
だが、消えるはずの無い痛みが、次第に無くなっていく。
気が付けば、残像を浮かべている鞭は、赤い線を作り出していた。身体中の皮膚が裂け、そこから湧き出してくる血液が、衝撃で跳び、鞭の暴風が吹き飛ばしていく。血でできた線は、幾重にも折り重なり、辺りが赤く染まった。
麻痺していく感覚は、裂かれるような痛みを感じなくさせる。だが、突き抜けるような衝撃は誤魔化せられなかった。避けようとしても身動きがとれず、頭をかばい、全身を丸めるようにして、自分を守ることしかできない。終わりが見えない攻撃の嵐に、ただ耐えることだけしかできなかった。意識が飛びそうになる。
しかし、消えそうになる意識を、強烈な痛みが引き戻した。
一瞬にして、焼け爛れるような熱が駆け抜ける。今までの痛みとは違い、内側から全身に痛みが駆け抜けていく。まるで火に焼かれているのと同じだった。
全身に力が入らない。
全身から全てがこぼれていく。
いたい―――――――――――――。
「ぅぁ……」
うめくように出たその声は、虫の息という言葉がぴったりあっていた。
史と共に散々鞭で叩かれた翔は、全身から血を噴き出し、地面にうずくまっている。
「何? もう終わりなの? あんた達」
つまらなそうに鞭を引き戻した華梨亜は、台詞と合わない恍惚とした表情をしていた。自分の足元で、苦悶の表情を浮かべてうめく2人を見下ろしていることを楽しんでいるのだ。
「し、翔! 史さん!」
少し離れた場所で遠也が、倒れ伏している2人に声を張り上げた。遠也は、2人が攻撃を受けている間に、華梨亜の部下3人に捕まっていたのだ。ロープで縛られ、何もできずにただ叫ぶだけ。見ていることしかできない。
わずかな静寂が支配する中、虫の声がする。銃声が止み、静けさを取り戻した山中の基地で、秋の虫が鳴いていた。合唱をするように響くその音は、翔の呼吸より、ずっと大きい音だった。
「ぅぅ」
ぴくぴくと痙攣する指。だらしなく開かれた口からは、唾液に血液が混ざって流れ出ていた。そこに、だらりと舌が伸びている。
その姿を見る華梨亜の表情は、本当に満足げだった。
頬を少しだけ赤く染め、わずかに乱した息づかいは、扇情的な雰囲気をかもし出す。ほんの少しだけ開かれた下唇に指先をなぞらせ、指先についていた血を舐めとっていく。細めた目を弓なりに緩め、ものほしそうに挑発してくる姿は、とても妖艶だった。状況は、最高に最低なのだが……。
「ふふ、ふふふ。いいじゃない、もっとその顔拝ませてよ。あははっ、死にかけてもこんなに変化が見れるものなのね。ふふっ、あははは」
子供をいたぶるような声で、翔の周りを回る華梨亜。ひとしきり見て回るとポケットから小箱を取り出し、翔に背を向けて崩れた化粧を直し始める。その作業が終わると、華梨亜はふり返ってから言った。
「惜しいわね、ころすの」
翔の顔がよく見える場所に移り、かがみ込んで、にたりと笑う。
「けっこうカワイイ顔してるし、う~ん。ホント、惜しいわ」
冷え切った刃を、顔に当てられた気分だった。翔は、わずかに残った気力で視線だけを、いやらしい笑いをする華梨亜へと向けた。
「ねぇ。君、この私の部下にならない?」
「……ぇ」
「部下よ、ぶ・か。このままころしちゃうには惜しい逸材よ? 私の精神的な栄養補給係にしてあげようと思うの」
翔を嬲り、痛めつけ、マゾヒストへ改造する。これが華梨亜の趣味なのだ。
自分が気に入った人間に、自分のサディシズムを叩きつけ、染み込ませる。今までも数人の少年にこれを強要したのだが、全員に逃げられている。
「楽しませて、あ・げ・る☆」
非常に下品でいやらしい口調だった。これをまともに見ていた遠也は吐き気を催し、華梨亜の部下三人も耐え切れずに目を反らした。翔は、意識が乱れた。
「ねぇねぇ、どぉ?」
華梨亜の手が、あごの線をなぞり、頬に触れる。
「ねぇねぇ、どぉなのぉ?」
長い爪が立てられ、ゆっくりと肌に食い込んでいく。
「ねぇ、どうなのよ?」
尖った爪が皮膚に刺さり、血管に傷がつく。
あふれ出る液体が、皮膚と爪の間にあるくぼみに少しだけ留まり、一筋の線を新たに作った。
「しょおっ!」
耐え切れなくなった遠也が、悲痛な叫びをあげる。だが、その声は、どうする事もできない無力感と絶望感にまみれていた。
「しょおっ!」
届かない。目を瞑り、力の限りに叫んだ。それでも、翔の耳に届かった。
答えの代わりに遠也が聞こえたのは、堅いものに叩きつけられる鈍い音だった。
翔の身体が、門の壁に投げ飛ばされ、たたきつけられる。壁は、叩きつけられた衝撃でくぼみ、そこを中心にいくつもの亀裂が走った。磔にされたようにめり込んだ翔は、赤く太い線を壁に描きながら、ゆっくりとずり落ちていく。
「い~~~らない」
華梨亜は冷たく笑った。そう、笑うだけだった。
「ちくしょ……」
腹の奥底から暗いものが渦巻いた。それは渦巻くだけではなく、怒りの感情として遠也の喉から噴き出していた。暴れだしてしまいたい衝動を抑えようとして、歯の噛み合わさる音が鳴る。その様子に気が付いた華梨亜は、眉をしかめると腕を振った。
「何よ、その態度。死ねば?」
その直後、遠也の首に、鞭が勢いよく巻きつき――、
「……えっ」
――壁に叩きつけられた。
驚く間もなかった。視界がずれると共に、凄まじい衝撃が全身を駆け巡る。遠也は、翔が叩きつけられた壁の上方に投げ飛ばされたのだ。強い衝撃を受けた壁は、二度も耐え切ることはできず、ひしゃげた鉄筋だけを残して砕けた。その様子は、すごい音がすることも無く、土煙が舞い上がることも無く、ただ乾いた音のみ。壁が崩れる音は、遠也と一緒に、壁の破片が翔へと降り注いだ。
「翔……遠也……」
虚ろに彼らの崩壊を見つめ、史の悲しい嗚咽が漏れる。瞳から光が消えていった。
『終わったようだな、華梨亜』
静まり返っていると、不意に、声が響いた。それは、低く落ち着いている男の声だ。
「あら、本城大佐ぁ?」
門を監視している基地のカメラを見て、華梨亜がその男の名前を言った。本城と呼ばれた男の声は、基地にある放送用のスピーカーから流れている。華梨亜は、次に出された指示を聞いて、わずかに驚いた。
『そいつらをつれてオペレーションルームへ来い。全員捕虜として迎え入れる』
「……あらあら、本城大佐もおっそいわぁ、もうとっくに死んでるてぇの」
口が裂けているかのようにぱっくりと開き、垂れるよだれをぬぐい、瓦礫の下の翔を眺めている。翔の姿は、見ることができなかった。見えるのは、少し離れたところで意識を失っている遠也と崩れた壁に瓦礫の山。その麓から伸びている一本の腕を始点に、赤い血が溜まっていた。じわじわと拡がるその染みを見つめていると、華梨亜の欲望はこの上ない幸福感に見舞われる。あまりにも愉しく、笑いが止められなかった。
2
何の冗談なんだろう。そう何度も思っても、何一つ変わらない。
史はうつ伏せにうずくまり、遠也は完全に伸びている。モニターに映っているその様子を見て、ハルは絶望に包まれていた。二人とも動く気配がない。何よりも、翔の姿がどこにもなかった。
彼の姿を探していた視線が、モニターの一点に集中する。
ひしゃげた鉄筋、山のように積まれた瓦礫、その下から伸びる人の腕と拡がる赤い染み。
「……そんな……」
スピーカーから響く女性の笑い声が、ひどく耳に障る。
(冗談……なんでしょ? 翔……)
気が遠くなりそうになる。目の前が暗くなる中、記憶を巻き戻して考える。
(……なんでこんなことに……)
さかのぼっていく記憶は、屋上にて玄田と光輝が倒された時まで戻っていた。
それは、あっという間の出来事だった。
心強い味方だと思っていた玄田は動けなくなり、光輝は強烈なアッパーカットでノックアウトされた。その様を目の前という特等席で見ていたハル。
「玄田さん……光輝さん」
その顔はすっかり青ざめ、震える唇は絶望に染まった声を放っている。無意識に動いていたのか、肩には本城の手が回されてあった。
「では、来て貰おうか。もう片方の勝利のために」
本城は、どこか優しい手つきでハルを押しながら、基地内に入っていく。
その様子を横目に、斉木は何も言わずに玄田と光輝を持ち上げた。気を失った男二人の重さをものともせずに自分の肩に担ぐと、本城の後を追った。
広い食堂を通り過ぎ、その向かい側にある青い扉へと進んでいく。決して長くは無いが、短くも無い廊下を三人は、無言で歩いていた。酷く重く暗い空気に耐え切れなかったのか、唐突に斉木は声を発した。
「しっかし、なんで上層部はこの女を渡すように言ってきたのでしょうかね?」
基地内の通路を静かに進んでいたため、声は思いのほか響いていた。しかし、本城は何も言わない。
「大佐ぁ?」
斉木がもう一度呼ぶと、何も言わない本城は足を止めた。斉木に対し一瞥をくれてから、一言だけ短く言った。
「口は災いの元」
言うのとほぼ同時に、斉木の目の前を青白い線が弾けた。
「いっ」
突然の出来事に思わず立ち止まってしまう斉木。
しかし、ハルには彼らのやり取りは全く気にならなかった。それよりも考えなければならないことがあったからだ。
(私の事、全然知らないんだ。上層部と……本城は、知っている……一体……何を?)
ハルは考えていた。斉木の言う上層部が、自分の事を知っているのではないかと。
本城と斉木は、ハルを連れて青い扉の中へと入っていった。
その部屋はオペレーションルームだった。無駄を一切排除し、必要な機材を簡素にまとめてられている。照明が落とされ、暗くなった部屋を壁一面に備え付けられたモニターが照らしている。
斉木は入り口付近に、玄田と光輝を無造作に下ろすと、机の引き出しを開けて何かを探し始める。本城は相変わらずハルの肩に手を回したまま、本城は真ん中にある椅子に向かっていくと収納されていたコンソールパネルをいじり始めた。
そこで手放されたハルは、ようやく辺りを見回す余裕ができる。この基地のオペレーションルームは自分らのものよりかなり広くかった。また、より多くの計器類がそこにあり、混然とすることなく、複数のブロックで統一されている。
普通、オペレーションルームは、計器類の数があればあるほどスペースをとるはずである。しかし、ここのものにそれは無く、酷く冷たい印象を感じさせる。床も今までのノリリウムではなく、むき出しの鉄骨のような金属製の床で覆われていた。
どうやら二重構造の床になっていて、金属製の床の下にケーブルや電源を引っ張っているみたいだ。
部屋は、中央付近にSFによくある指揮官が座るような椅子と、それを扇状に囲うように複数の席がある。入ってきたドアから見て丁度正面に、学校の第一講義室の黒板ほどの大きさをしたモニターがあった。その画面は無数に分割され、いくつもの場所を映し出している。
本城が操作するたびに画面が変わっていくモニターは、いつしか一つの戦場を映し出していた。それは、数人の人間が倒れており、一人の女が高笑いしている。
「こ……これは……」
ハルは、一歩下がりながら呟いた。
「これは、この基地の周辺の映像だ」
壁についている引き出しを開けながら、斉木が言う。しかし、ハルの耳には届いていなかった。彼女の目は、一つのものに釘付けになっていたからだ。どこにも見当たらない一人の少年の姿、遠くからでも分かるほど赤く染まった一帯とその中心にある誰かの腕――
「……そんな……」
開いた口から漏れたのは、呆然とした声だった。
☆
「け、メスガキが」
無視された事に機嫌を損ねた斉木は、ロープを持って玄田と光輝に近づく。二人を縛り上げようというのだ。
「さてと、重いんだよなぁ……こいつ」
玄田の腕を掴み、適当な感じで持ち上げようとする。
事が動きだしたのは、腕をつかんだ時だった。
「ハアッ!」
「ぅいっ!?」
玄田の鉄拳制裁が決まった。不意打ちとはいえ、あごに吸い込まれるように入ったアッパーは、斉木をそのまま上に吹き飛ばし、部屋のほぼ真ん中へと落とした。
「なにっ!?」
突然の出来事に、驚いた本城が叫んだ。
その声が合図であるように、光輝が素早く動きだす。
光輝はポケットから、鉄の塊を取り出した。それは、先程玄田が破壊した鉄の扉の破片だ。
「くらえっ!」
それを勢い良く、本城めがけて投げつける。
「こんなもの!」本城は、余裕でそれをかわす体制に入る。右手を顔の前へあわせれば、簡単にキャッチできるはずだ。
しかし、内心ではひどく動揺していた。いくら手加減をしたとしても、象ですら一撃で気絶する電撃を食らわせてあったのだ。それが、こんなにも短時間で復帰するとは思わなかった。
そして、その焦りが僅かな隙を作りだす。
「……甘い」光輝が笑う。
「むっ!?」本城の顔が驚嘆に変わった。顔に――右掌にむかって飛んでくるはずの鉄塊が、右手をそれて飛んできたからである。それも、4つに分かれて。
「ぐあっ!」
4つに分かれた鉄塊は、それぞれ本城の左右の米神と、両側の頬を掠め、後ろのモニターに突き刺さった。「な、なぜ……これも、能力!?」
「当たりだ!」
玄田が本城の顔を鷲掴みにし、ハルから離すようにドアの方へと投げ飛ばした。そして、右手から、丸い光りの塊を捻り出す。重力を操るあのエネルギーだ。
「くらえっ!」
「遅いっ!」
玄田がエネルギー球を発した瞬間に、本城の電気が床を駆け、玄田と光輝の足から全身に流れていった。ハルの方へは届かないよう、調整していた。
「げ、玄田さんっ!」
ハルの叫びは届かず、玄田も光輝も倒れた。玄田は前に、光輝は後ろに。白目を向いて、口から泡を吹いて。
☆
「さて、君、モニターを見てみるか」
冷静な口調で、玄田たちどころか斉木にさえ目もくれず、本城はハルを促す。言葉どおりにモニターを見ると、丁度、翔が壁に激突し、崩れた壁の下敷きになったところだった。
「終わったようだな、華梨亜」
本城は、放送用マイクを取り出して、そう言った。
モニター画面に映っている女が、本城の声にあわせるように動き、上を見た。その顔の向く方向にはスピーカーがあるのだ。
「そいつらをつれてオペレーションルームへ来い。全員捕虜として迎え入れる」
「ほ、捕虜……」
「どうやら、生きているかも分からん状況のようだ」
マイクから口をはなしてから本城が言った。しかし、彼女の目に映っているのは、瓦礫がかぶさった翔の手ひとつ。
「嘘でしょ……」
一言つぶやく。哀しい声だった。死ぬ前のこおろぎがこんな声をだすのではないだろうか。ハルの光が、消え去ろうとしている。いや、もう消えたのかもしれなかった。
「……翔」
かすれたかのように声が出た。本当は大声で叫びたい。だが、声は出なかった。口が乾いていた。精一杯の大声だった。
まってくれてた方がいたとしたら待たせて申し訳ありませんでした。
今後も長くなるかと思いますがご容赦の程を。