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ジュスティーヌの男

作者: 田井 ゼン

ジュスティーヌの男



プロローグ



 長いあいだ、わたくしは朝の深い霧と川の水面、ただよってくる薪を燃やす臭い、冷えた石の感触を愛していた。幼いころ、白いバラのように若く美しい母が司祭さまに仕え、アビニョンの高い石塀の中に消えてゆくのを見て、一日の始まりを知った。

 思えば、この世界は1300年の長きにわたって美しい女たちと、醜い男たちのはざまで、打ち合う剣の響きにも似て、善と悪の相克に酔いしれてきた。いったい、この世のなんと強く、美しいことだろう?それは一夜沛然とふりしきる雨が、やがて夜更けの満月に陽炎の虹をつくるように、暴力と美のめまぐるしく行きかうさまを、ともすれば憎み、またともすれば美しいと感じるのに似ている。人はたゆまない営みの中で、だれもが二つの神々に抱かれていく……。


          一


 修道女さまたちの祈りが今日も朝の大聖堂に響いている。

 わたくしは目覚め、身支度をすっかりすませた。

 生まれてから十七年、厳しい戒律に親しんできたこの強靭でしなやかなからだと、いまなお研ぎ澄まされる敬虔な信仰心は、誰にも負けない自負があった。女として、そして兵士として、わたくしは誰よりも強く、輝いている。そして、大切なものを守るためなら、いつでも命を投げだす覚悟があった。


 宿舎前で同僚とのはげしい朝の鍛錬を終え、それぞれの兵士に技の稽古をいいつけると、わたくしは汗をぬぐい修道院にむかった。とたんに静謐な空気がわたくしをしゃんとさせる。この中を通れば、広場まで早くいけるのだった。


「構えよ!!」


 朝の礼拝がおわって、今はだれもいないはずなのに。祈りの間から大きな声が響いた。わたくしは石畳の廊下をたちどまり、中をうかがった。身に着けた鎖帷子や剣の音がしないよう、そっと両手で抑える。どうやら、中にいるのは王室からこのドミニコ修道院に派遣されているフルネル卿のようだ。きっと、あの大きな腹をゆすりながら、誰かを呼んでいるに違いない。

「ロラン!あの燭台を射よ」

 一拍ののち、かしゅん、どん!と、大きな音がして、一本の弓がわたくしのすぐ目の前の、祈りの間の入り口からほど近いところに立てられた燭台のろうそくの炎を消し、堅い樫の木の壁に突き刺さった。

 わたくしは思わず声をあげた。

「なにものじゃ!」

「ジュスティーヌでございます」

 わたくしはおずおずと姿を現した。

 祈りの間の奥には3人の男がいた。その中に教皇クレメン5世のお姿を見て、わたくしはあわてて膝をついた。

「お前か……こんなところでなにをしておった!」

 フルネル卿の声が厳しい。わたくしはどうやら見てはいけないものを見てしまったようだ。

「失礼いたしました。中に気配がいたしましたゆえ」

「おお、おお、ジュスティーヌであったか。こちらへ来よ」

 教皇さまが奥の壁際からとりなすようにやさしいお声で呼んでくださった。

「ジュスティーヌ、こちらへ」

 よかった。お怒りにはなられていないようだ。わたくしは教皇さまのお招きに応じ、両側に長椅子のならぶ中央通路を半分ほどもすすみ、ふたたびひざまづいた。それにしても、この「祈りの間」は縦が100ピエ(約三十メートル)ほどもある大広間だ。この距離ではまっすぐ射るだけでも難しいのに、矢でろうそくの炎を消すなど、およそ人間わざではない。

「ご無礼いたしました。本日は広場にて修道院親衛隊の新しい子供を選ぶ日にて、これよりわたくしが受け取りに出向くところでございました」

「くるしゅうない。この地に綺麗王フェリップ4世王が来られると聞いてな、余興のためしをしておった。フルネル卿は知っておろう。ここにおるのは……」

「ロランでございます」

 弓を持った見知らぬ男がこたえた。でおくれたフルネル卿が、腹の横に両手を広げ、軽く紹介のしぐさをした。フルネル卿も、若いころは美しい貴族だったようだが、鍾愛の妻に先立たれて、近頃はすっかり好色を深めた。

 ロランと名乗った男は、濃いひげをたくわえ、ひときわ大きかった。女だてらに親衛隊にいるわたくしには、大きな男はあこがれの存在だ。太いふくらはぎに黒い皮のすねあてが見えた。その男は弓つかいらしく、身軽な装束に身を包んでいた。わたくしは興味にかられ、おもわず顔をあげてその男の顔を見た。

「ほう」

 教皇、フルネル卿、そしてロランとよばれた男が、わたくしの顔を見て声にならぬ声をあげた。

 この1年ほどの間に、わたくしは母に似てずいぶん美しくなったのだ。男どもがわたくしを見るとき、羨望のような、獲物を見る野獣のような、そんな顔つきになるのを、わたくしは感じていた。

 あまりじろじろ見て礼を失してもまずい。顔を伏せ、男の姿を頭のなかで反芻してみる。

近隣のものではない。王室の兵であろうか。

 修道院をお守りする女ばかりの親衛隊に所属し、剣、弓、槍と幼いころから教え込まれたわたくしは、兵士どもともそれなりの交流があったが、この男に見覚えはなかった。我慢できず、もういちど男を見る。ロランの灰色の瞳と目があった。

 ロランはにこりともせず、静観なひげ面を少し下に向けた。あまり顔を見られたくはないのかもしれなかった。

「ジュスティーヌよ、ここで見たことは誰にも他言するではないぞ。わかったら、さがってよい」

「はっ」

 教皇に言われ、わたくしは頭を下げるとすこし後ずさり、一礼をしてくるりと踵を返した。後ろでたばねた金髪の長い髪の毛が、ふわりと舞った。

「忠実な親衛隊の女だ」

 フルネル卿の声を背後で聞きながら、わたくしは祈りの間をでた。


          二


 この美しいアビニョンには、おおよそ1500年前という大昔から人が住んでいたと母は言った。かのギリシャ人がローヌ川を上流へとさかのぼり、交易をはじめたのが街の起源だと、燭台の明かりの下で幼い私に話してくれた。

 つい最近になって、はるかローマからクレメン5世という教皇さまが来られることになり、街はにわかに活気づいた。

 ノートルダム・デ・ドン大聖堂が改修され、教皇さまの宮殿もおおいそぎで建てられた。農夫、石職人や武器職人、機織り職人、聖職者に騎士たち、大勢の人間がこの地にやって来ては、宮殿の周りを取り囲むように移り住み、たちまちこの地は王都にも匹敵する大きな都市へと変貌しつつあった。


 雲一つない晴天の空の下、宮殿の前の石畳の広場は、大勢の見物人であふれかえっていた。

一角には近隣から集められ、両親に連れられた十歳の女の子ばかりが百人あまりもいたが、それぞれ帰り支度にうなだれている。おそらくはすでに行われた「試し」に落ちたのであろう、親に肩を抱かれてなぐさめられたり、中にはべそをかいているものもいた。わたくしにも経験がある、幼い子どもなりに、親の期待にはこたえてみせたいものだ。

広場の中央にはその中から選り抜かれた優秀なもの、十人ほどが集められていた。

「いい子じゃ。駆け足にて一番の子らよ、さあ前に出で、大きく間をあけ並ぶがよい!」

 年老いた兵士が大声をあげた。

 号令に従って、十人の一団が広場を横に大きく間隔をあけて並ぶ。それぞれその小さな両手には、重いスネークウッドの木で出来た木剣を持たされていた。

「よし、ふるえ!」

 老兵のかけごえに合わせ。えい、やあ、とかわいらしい声で一斉に木剣を振り出した。

 その中で、あきらかに身体も大きく、剣を素早く振る者がいた。見た目も赤毛だが悪くない。いかにも俊敏そうだ。

 わたくしの所属する修道院親衛隊は、おもに修道院と修道女さまたちが住まう寝所の護衛をするのが役目だ。女だけの住まいに侵入する盗賊、よからぬ考えをもってやってくる若者たちから修道女さまたちを守り、また、厳しい修行に耐えかねて逃げ出そうとするものの脱走をも防ぐのが仕事で、今のアビニョンにおいては、修道院親衛隊はおよそ女子の職としては最上級と言ってよかった。

 家も修道院の中に共同宿舎があり、身分に合わせて各人にあたえられる。食も修道女さまらと同じものが配られるので不自由なく。週ごとにわずかながら給金すら出た。

 もちろん有事となれば命を懸けねばならないが、わざわざ神と兵士に守られる修道院を襲いに来るものなどそうはいない。おまけに戦争ともなれば、これはもうやわな女親衛隊などの出番ではなく、屈強な男ども兵士の仕事なのだった。

 そんなわけで、毎年行われる見習いの公募には、近隣からおおぜいの少女たちがつめかけた。

 わたくしは、近くで警備にあたっている、甲冑を生真面目につけ、兜を片手にもつ若い兵士に身体を寄せた。

「あの赤毛の者、駆けるのはどうであった」

 童顔の若い兵士はわたくしを見て、すこしとまどうように目をしばたかせた。

「は、一番早うございました」

「ならばあの者で決まりであろうか」

「そ、それは……選ばれるのはディディエさまでございますゆえ」

 兵士は老兵の方を見やった。

「わかっているとも。しかし、あれだけの者どもの中から、十人ずつの駆けあいを行い、その一番手ばかりを選んでおるのであろう。その中で、あれほどのずぬけた膂力を見せるとあらば、是非もあるまい」

「は、私もそのように」

 若き兵士は顔を真っ赤にして居住まいをただした。

「しかも賢そうではないか」

 わたくしはその場をはなれ、腕組をして赤毛の少女だけを見つめる。そのようすをディディエに見せるためだった。


 やはり選ばれたのはあの赤毛の少女だった。その他にも二名、設問を受けに選ばれたものもいたが、賢さの点でも赤毛はずぬけた回答をしてみせた。かの有名な『申命記』第八章三節と、『マタイによる福音書』第四章四節を述べて見よ、という修道長の問いに、

「申命記にはこうございます。人はパンのみにて生くる者にあらず人はヱホバの口より出づることばによりて生いくる者なり。マタイによる福音書ではこれが神の御言葉とはっきりとあらためられ、人の生くるはパンのみによるにあらず、神の口より出づるすべてのことばによる、とございます」

 と、単に暗ずるのではなく自分の心根から出た言葉として、その違いを語ってみせた。

「お前、名はなんという」思わず問うわたくしに、

「はい、クロエと申します」

 クロエは、つぶらな瞳を輝かせて、微笑んだのだった。


          三


「お前はこの村のものかクロエ」

 中庭を望む回廊を修道院へと速足で歩くわたくしの後を、クロエが必死についてくる。わずかな風に揺れる花々の香りが、照りつける明るい光に照らされ、漂ってくるようだった。

「いいえ」

「どこの生まれなのだ」

「レ・ボー=ド=プロヴァンスです兵士さま。母が亡くなってしばらくは村はずれの修道院におりましたが、父がアビニョンの叔父をたよって引っ越すと言い出しまして」

 なるほど、それで聖書の一説にも詳しかったのか。母を亡くし、修道院に入れられ、ひとり懸命に勉強したのだろう。とはいえ、人が死ぬのは別にめずらしいことではない。たとえそれが母親であってもだ。病もケガも、いつでもどこにでもあることだ。

「叔父ごは、なにをされておられる」

「え~と、なんだっけ」

 はじめて、年相応の物言いになったクロエを、わたくしはめずらしい小動物でも見るかのように見つめた。

「わからぬならそれでもよい」

「ごめんなさい兵士さま」

「わたくしのことはジュスティーヌと呼ぶがよい」

「わかりました……ジュスティーヌさま」

 その時、ふと中庭の反対側に人影が見えた。

「ジュスティーヌどの!」

 わたくしはその大きな声が、あのロランと名乗った男のものだとわかった。

 振りかえると、やはりあの男だ。髭面の中に白い歯を見せながら、花と噴水の間を器用に縫ってこちらにやってくる。

「これは、ロランどのと申されましたか、先ほどは失礼いたした」

 わたくしはちょっと威厳をにじませて頭を下げた。これでも親衛隊の一員なのだ。相手はフルネル卿の客人とはいえ、あまりなめられても困る。

 ロランは頭に手をやった。

「いやあ、こちらこそわが弓にて驚かせてしまいました。あれはフルネル卿の命で、教皇さまに余興の弓の腕まえを披露しておったもの」

 ふと足元のクロエに気がつき、にこりと笑った。クロエは慣れたしぐさで軽く片足を曲げた。

「おお、可愛い子だこの子が例の新入りですか?」

 祈りの間での会話を覚えていたのだ。たしかに、今は動きやすい粗末な衣服だが、めかしこめばそれなりに見えるかもしれない。

 その間にも、ロランは厚い胸を無遠慮に寄せてくる。女にしては身長の高いわたくしよりも、さらに頭ひとつぶん大きかった。

「この子は見習いのクロエと申します。ところで……なにかご用ですか」

 もしやフルネル卿になにか吹き込まれたのであろうか?それとも余興の秘密を洩らさぬよう、念を押しに来たか。それならば、心配は無用だが。

「ジュスティーヌどの、フルネル卿におききしましたが、あなたの今日の使役は日暮れまでとか」

「フルネル卿がそのようなことを?」

 この男はわたくしをまっすぐ見下ろしてくる。だがわたくしには、この男がわたくしと話すことでせいいっぱいなのが手にとるようにわかる。初秋の空気に似合わぬ額の汗は、きっとその証し。

「さよう。それで不躾ではございますが、もしよければご一緒に夕餉などいたしませぬか。このことはフルネル卿にもご許可いただきましたゆえ」

「ほう」

 ということは、フルネル卿のことだ、うまくわが親衛隊長にも話しを通してくれているだろう。

「ご御馳走になりましょう」

「おお!では、日が沈みましたらお迎えに」

「よしなに」

 わたくしは軽く頭をさげ、クロエをうながした。

 そうだ、今夜クロエはわたくしの部屋に泊めることにしよう。身のまわりのものは、これからゆっくりとそろえさせればよい。



 宿所の表にロランが迎えに来ことを当番のものが知らせに来た。

 わたくしが母ゆずりの白いドレスで出ていくと、だれもが目を見はった。

「まあ!お美しい」

「ジュスティーヌさま、さすがですわ」

 クロエでさえ、だんだん着飾っていくわたくしを、ぼおっと熱に浮かされたように見ていたほどだ。

「こ、これは……」

 入り口から現れたわたくしを見て、ロランが声を失う。自らも高い襟の縦じまのチュニックに白い絹のタイツと、それなりの格好をしてはいたけれど、わたくしのあでやかさには自分が恥ずかしくなったようだ。髭をととのえ、髪を直してあちこちのしわを気にしている。

 わたくしが、ついと自慢のアゴをあげ、ロランの前に進み出ると、彼はあわてて片膝をつき、わたくしの右手をささげてキスをした。

「ご機嫌うるわしゅう。ジュスティーヌどの」

「お待たせして、ごめんなさい」

 彼は立ち上がり、精いっぱい胸を張ってわたくしの背に手をそえた。

「ではまいりましょう。とはいえ、私も夕べこちらに来たばかりで無案内はおゆるしを。この先の広場を出て、すぐのところにある店だと聞いております。今日は鹿のいいのが入ったそうですよ」

「それはたのしみだこと」

 従者をさし向けて手配させたのだろう。わたくしはふだんの兵士のくせで、つい早足にならないように、石畳の上をゆっくり歩きだした。

 店につき、木のテーブルに見事な鹿の肉とワインが運ばれてくると、ロランは待ちかねたように話し出した。

「ジュスティーヌ、ぜひあなたの身の上話を」

 わたくしはワインを持ち上げ、カットグラスの中の赤い液体を見つめた。

「まずはご自分のことからお話になるのが礼儀ですよロラン、あなたはどのような方なのですか?いったい、あの見事な弓はどちらで」

「それはずるい。さてさて、どこからお話したものか」

「どうぞお好きなところから」

 ロランはすこし考え、すらすらと話し出す。

「わが名はロラン・ベルモルト。生まれはフィレンチェ、ローマの法王庁で十二歳まで学び、それからパリのレーヌ候の養子となりました。弓はパリで。とはいっても、独学ですがね」

「独学であのような」

「さすがは修道院親衛隊ですね。でも私には他にも自慢するところがあるのですよ」

「あら、それはなにかしら」

「剣技はからきしだめですが、レーヌ候の薫陶にて教養はひととおり。それとビエレはなかなかのものですよ」

「おお、楽器を」

「ええ、ハンドルをくるくる回しながらこうやって弦を揺らすのです」

 ロランは手つきをしてみせた。ビエレは手琴の一種だがハンドルを回すことでバグパイプのような連続した音を出すことができる。長い指先が見えない弦を器用に操っているように見えた。

 わたくしはふと、ロランの右頬に傷があるのを見てそっと手をのばした。

「この傷は?」

「弓の鍛錬でついたものです」

 そう言って、ロランは顔をそむけた。朝のとき、目を逸らしたのもきっとこの傷のせいなのだろう。

「わたくしは……」

 そっと傷をなでるようにして指をはわせると、ロランの目を見つめた。灰色の瞳に薄暗い灯りがゆれて光っていた。

「この地で生まれ、この地で育った。十の時試験を受け、それ以来修道院親衛隊にいる。ただそれだけよ」


          四


 一夜をうまやでロランとすごし、朝までには宿舎に戻って、そのままなにくわぬ顔で務めに出た。もちろん、同僚にはある程度なにがあったか、知られているだろうが、わたくしくらいの年齢の女が、旅人と深い仲になることはよくあることだったし……その後に子が出来て旅人が去ることも、よくあるのだったが……なにより、わたくしは神に仕える身として禁欲を求められている修道女さまたちとは違う。だれもなにも言いはしなかった。

 そして数度の逢瀬ののち、予想していた通り、ふっつりとロランから連絡が来なくなったころ、綺麗王フィリップ四世の来臨が発表されて、街は一気にその話題一色になった。行列のお出迎え、歓迎式典や宴の段取り、総勢千人にもおよぶ王族や兵士のご宿泊場所の手配にくわえ、夜間の警備の厳重な配置計画が教皇さまと役人の間で決められていくと、修道院親衛隊であるわたくしにもふだんとは違う別の役割が命じられた。


「さあ、もういちどよクロエ」

「はいジュスティーヌさま!」

クロエが短剣をかまえ、三本の丸太木から吊るされ自在に揺れる木の人形を、体重をかけ一気に突き刺す。丸太がぎしぎしと音を立てる。

 長さ十ピエほどの丸太を三本そろえ、片端を荒縄で縛り足元を開くと頑丈な足場になった。夜はそれへ布をかけると、夜風を防ぐ良い天幕になる。

 最初は短剣と木の角度があわずうまく刺せなかったり、刺した反動で自分の方が倒されてしまったクロエも、繰り返すうちにまっすぐ深く刺し、そしてそのまま素早く引き抜くことが出来るようになってきた。7日の間これだけを何度もくり返してきたので、クロエはかなり足腰にも力がついてきたようだ。

「刺すときは上半身の体重をかけよ。でも下半身は預けすぎないようにね。でないとすぐには下がれない。……そう、それでいいわ。少し休みましょう」

 日に焼けて熱くなったクロエの肩に手をかけ抱きよせる。まったく、この年齢の子供は成長が早い。7日前より、うんと肉がついている。

クロエは汗を拭き、持参していた羊の皮の水筒から、湯冷ましをごくごくとのんだ。


 ここは宮殿城門横の、地上から百ピエもある丸い尖塔の上だ。吹き渡る風が心地よい。わずか直径二十ピエ(約6メートル)ほどの空間だが円形の屋上を持ち、、宮殿に迫る敵に石を落としたり矢を射かけたりすることができる。クロエとの練習場所にもちょうどよく、フィリップ四世王の到着まであと一日、食料なども持ち込んであり、わたくしはこのままこの場所にいるつもりだった。

 屋上塀のざらついた石に両肘をついて、わたくしはのどかにひろがる景色を眺めた。宮殿のすぐそばには川幅五百ピエともいわれているローヌ川が悠然と横たわり、向こう岸との間には石造りの頑丈そうな大きなアーチの、サン・ベネゼと呼ばれる橋がかけられている。

 そういえば、フィリップ四世王は、昨日からいったん向こう岸のサンタンドレ城に泊まっておられるそうだ。そして明日の朝より、威風堂々サン・ベネゼ橋をわたって、このアビニョン宮殿にお入りになるという。なんといっても、このアビニョンは法王庁の領地で、サンタンドレ城は王の自由になるフランス領だから、長旅のお疲れを癒すには、そのほうがご都合がよいのだろう。

 クロエも背伸びをして風景をながめている。わたくしは塔を渡る風に髪をそよがせながら、明日の行列のさまを想像していた。

 色とりどり、派手な制服に身を包んだ兵士の行列の中に、ひときわ輝く栗毛の馬に乗った王があたりを睥睨してサン・ベネゼ橋から眼下の城門をくぐり入ってこられる。もちろんわたくしは王に拝謁したことはないし、普通ならば綺麗王とよばれるその美しさにもお目にかかれることはないだろう。しかしこの尖塔の上からなら、もしやだれにも知られず、そのお姿を見ることが、できるかもしれない。


          五


 もうこの時期、夜ともなるとめっきり寒くなる。尖塔の上では薪を燃やすことを禁じられているから、暖をとるには天幕に入って外套を着こむくらいしかできない。わたくしは天幕の中でじっとうずくまり、飢えては干し肉をつまみ、そしてすこしまどろんだ。

 乳白色のもやの中で、母と男がわたくしをのぞきこんでいる。美しくなるのよジュスティーヌ、ああ、でも身体を鍛えることも忘れてはいけない、早く大きくおなり……。

 誰かが塔を登ってくる気配がして、わたくしは目をさました。その者は静かに階段をのぼりきり、すでに跳ね上げられている木の落とし扉をそっとくぐってこの屋上にでた。

「ジュスティーヌどの……」

 ロランの小さな声がした

 わたくしは外套を脱ぎ、剣を右手にゆっくりと天幕を出た。


 ロランが弓を構え、二十ピエのむこうから、わたくしを狙っているのが見えた。


「残念だよジュスティーヌ。ゆるしてくれ」

「ロラン、来ると思ってたわ」

 ロランが弓を引きしぼった。きり、という弦のこすれる音がして、今にも矢が放たれる気がした。

「やっぱり、貴方はフィリップ四世王を弑いしたてまつるためにやって来たのね」

「そうだジュスティーヌ、教皇さまの命でね。そして私はルイ十世王子づきの兵士、しがない弓兵さ。フィリップ王はけして侵していけない存在を侵した。カソリックの偉大な首長である教皇さまを無理やりローマから連れてくる暴挙など、ゆるしてはいけないのだ。すまないが、君には死んでもらう」

 勝ち誇った声に、わたくしは震えあがりそうな自分を必死で抑え、無理に笑顔をつくった。

「いいのよロラン、わかっていたわ。さあ、この胸を正確に射てちょうだい。しっかりねらって」

 わたくしは胸をそらせた。

 ロランの頬が一瞬ひきつり、肩が盛り上がった。

「やああああああ!」

 それまでこの尖塔の屋上塀の影にうずくまり、じっと気配を消していたクロエが、鋭く研ぎだされた短剣を背後からロランの背中に深々と突き刺し、すばやく飛びのいた。

「うぐっ!」

 ロランが目を見開き矢を手から離す。びゅん、と音がして矢はわたくしの顔の横を飛びさった。

「えいっ!」

 クロエがふたたび、今度は前からロランの胸に突き刺した。

「ぐおおおおお」

 わたくしはクロエに剣があたらぬよう、注意深くまわりこんで胴横から心臓めがけとどめを刺した。

 ロランはやがてその場に崩れ落ちた。

 なおも刺そうとするクロエを、わたくしは抱きとった。

「もうよい。よくやったクロエ!もうよい」

 小さな手から短剣をもぎとると、クロエはわあっと泣きながら、わたくしの胸に飛びこんで来た。わたくしは強く抱きしめてやり、自分自身の震えをも無理やり押さえこんだ。

終わったのだ。やっと終わったのだ。

 わたくしは血だまりをつくるロランの首筋に指をあて、その死をたしかめた。静かに命が抜け出ようとしていた。

「さよならロラン、あなたがここから王を射ようとすることはわかっていた。そしてわたくしがここにいれば、あなたが今夜ここに殺しにくるしかないこともね」

 クロエが大声をあげて、当番の兵士を呼びにいくのを横目で見ながら、わたくしはロランに永遠の別れを告げた。いくどかの逢瀬とその熱い抱擁を思い出しながら……。




 翌朝、すっかり片づけられた尖塔の上から、王室の兵どもの華麗で一糸乱れぬ行進をながめ、自分の役目が終わったことを知ったわたくしは、太陽がその姿を中天に浮かべるころ、ようやく愛しい男のもとに向かった。

「よくやってくれたジュスティーヌ」

 フルネル卿がわたくしを抱きしめ、頬にキスをしてくれた。

「それにしてもよく無事でいてくれた。いくら前もってわしがあの男に弓を射る場所を指定し、油断させていたとはいえ、気が気じゃなかったよ」

「クロエのおかげです」

 フルネル卿はうむ、とうなづき、

「今度という今度こそは教皇さまも懲りたことだろう。法王庁も、もうそろそろ、わがフランスに屈してもらわねばな。ご聡明とはいえ、王子のルイ十世どのと組むなど、はじめから無理だったのさ。王子の出番はまだまだ、当分来るまいて」

 と、頬を紅潮させた。

「ところでフルネルさま、わたくし本当にフィリップ王に拝謁を?」

 そう、約束は守ってもらわねば……。

「おお、もちろんだとも!王も命の恩人をけして無碍にはすまい。かならずわしがお頼み申しておこう」

 彼は胸をたたいた。

「それは嬉しゅうございます。それからあともうひとつ、教皇さまはこれから先、わたくしを疎んじられるのでは?」

「いやいや」

フルネル卿は心配するな、と首を振った。

「考えても見よ。教皇さまも知らぬ存ぜぬで通すわけだ。お前を罰するわけにもいかず、このまま丸くおさまるのだろうよ。そもそも、教皇さまは、このわしを味方だと信じたのが大間違いなのさ」

 大きな腹をゆすって笑った。

 それでこそ、命をかけたかいがあったというもの。司祭さまに仕え、この男との間にわたくしを産み、死んでいった母の顔が浮かんでは消えた。

この世はいつだって強いか、美しいものが覇を唱えるのだ。

「さあもう一度抱かせてくれ。今日は忙しくなる」

 羨望の視線の中、綺麗王フィリップ四世の前にかしずき、うやうやしく頭を垂れる自分を想像して、わたくしは満足の笑みを浮かべるのだった。


          了


お読みいただきありがとうございます。

修行中の身にて、中世フランスというかなりやりずらい舞台を選んでみました。

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